File:092 セカンドワールド
薄暗い執務室の中、デスクのスタンドライトだけが前崎の横顔を白く照らしていた。
彼は静寂のなか、手元の黒いノートに万年筆で淡々と文字を書き連ねていく。
その筆致には迷いがなく、まるで確定した未来の歴史を記録しているかのようだった。
ノートの余白が、彼の思考で埋まっていく。
他国とのパワーバランス:
周辺諸国や地政学的な介入問題は、多少強引な手段を講じたものの、すべて片付いた。
圧倒的な軍事力の差を見せつけたことで、諸外国は日本という国の味方は変わった。
少子化対策:
国家の寿命を縮める最大要因である少子化の解決に、一般的な政策による30年もの猶予は必要ない。
倫理の壁を取り払って導入した「クローン技術」の量産体制が整いつつある。
これで次世代を担う強固な人的資源は、瞬く間に膨れ上がっていくと予想する。
米軍基地の完全返還:
長年、日本の主権を歪めていた在日米軍基地の退去はすべて完了した。
占拠されていた広大な一等地が完全に空白となり、有効活用できる新たな国土として日本の手に戻っている。
――外憂を断ち、基盤は整った。
今から始める統治の最終段階は、驚くほどシンプルだ。
徹底した治安維持。
そして、新しい世界にふさわしい、能力の高い人間の選定と排除である。
排除といっても別に処刑するわけじゃない。
ただ現実で大人しくさせるだけだ。
前崎は万年筆を置くと、ふと半年前のクーデター直後に行った、ある「極秘の技術提供」に思いをはせた。
「そろそろか」
彼が半年前自ら足を運んだのは、日本が世界に誇るエンターテインメントの頂点、大手ゲーム会社『王天堂』だった。
本社を京都に構え、コンシューマー機の開発から世界的なキャラクターIP、キラーソフトに至るまでを網羅する、社員数わずか1000人規模の「奇跡の企業」。
前崎の突然の来訪に、役員室には張り詰めた緊張感が漂っていたが、彼が当時の社長に持ちかけたのは、言論統制や政治的圧力といった無粋な話ではなかった。
前崎はただ、自身が設計した「とある技術データ」を差し出し、それを応用した新型のゲームハードを開発してほしい、とだけ求めたのだ。
王天堂の圧倒的な開発力によって、その商品は社員を総動員し、ものの半年で完成へと至った。
基礎理論が前崎の元でできていたことと、今までの王天堂のゲームの中の技術を応用が奇跡的に出来たため、安全確認の方に時間をかなり費やされた。
しかし、試作機を手にした社長は、これを本当に世界に流通させるべきか、最後の最後まで激しく懊悩していた。
なぜなら、前崎から提供された技術を組み込んだそのゲームには、人間の脳を根本からハックするような、恐るべき中毒性が秘められていたからだ。
日常をすべて投げ打ってでも没頭したくなる、精神の麻薬ともいうべきものだ。
だが同時に、企業として、そして市場として、文字通り世界を支配できるほどの莫大な利益が確実に約束されていた。
別にいいではないかという考えも正直あった。
スティーブ・ジョブズも子どもには自社製品を与えないぐらい自身の製品の中毒性を秘めていたのは自覚していたからだ。
まったく会社としては間違いなく正しい動きである。
結果として、欲望と生存戦略は良識を上回った。
社長は世界的な動画配信サイトを介し、全世界に向けてその商品を一斉に売り出すための、センセーショナルで刺激的なプロモーション映像を解禁した。
世界中の若者や大衆が、一瞬でその光に目を奪われた。
そして今、その完成された製品が、前崎のデスクの上に静かに鎮座している。
「さて……世界はいったいどうなるのか……?」
前崎は冷徹な双眸を細め、デスクのモニターへと視線を移した。
画面には、世界中で一斉にその電子の毒に溺れ始めた街中の人々が、無数の監視カメラのレンズを通じて、不気味に、だが克明に映し出されていた。
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その革新的な製品の名は――『Outendou Dive』。
世界で初めて人間の脳を直接ネットワークへと接続し、意識そのものをゲームの世界へと完全にフルダイブさせる、未知の五感共有システムである。
肌を撫でるそよ風の質感、大自然の匂い、降り注ぐ太陽の温もり。
ありとあらゆる環境データが、脳への直接パルスによって完璧に再現された。
その「偽りの自然」は、どんな現実世界の風景よりも、遥かに鮮明で夢に満ち溢れ圧倒的に美しかった。
それはそのはず。
現実世界には妖精やドラゴンや魔法は存在しないのだから。
「セカンドワールド」とも言ってもいい世界がここに構築された。
電子の理想郷は、瞬く間に世界中の人々の心を、とりわけ未来に絶望していた若者や子供たちの心を完全に掌握した。
前崎の徹底した流通管理と転売対策により、発売からわずか1ヶ月以内には、購入を望んだほぼすべての人間に行き渡るという異例の供給スピードを見せる。
そして、世界は一変した。
何が起こったか。
――全人口の実に「3割」が、現実世界で働くことを完全に放棄したのである。
当たり前だった。
五感を奪うほどの快楽に満ちたその世界は、息苦しい現実を生きるよりも、遥かに心地よかったのだから。
さらに言えば、そのゲーム内での活動や労働は、一定の暗号資産として現実の購買力に還元できるシステムになっていた。
ゲームをプレイすることそのものが、前崎の仕組んだ「新たなベーシックインカム」として機能し始めたのだ。
社会の混乱を前に、前崎は淡々と自らの声明を発表した。
『もし、この過酷な現実で生きることに疲れ、働く気力を失ったと言うのなら、どうぞこのDiveの世界で生涯を過ごしてほしい。
逆に、血の通った現実で何かを成し遂げたいと思う者は、そのまま現実で生きていればいい。
私はどちらの生き方も否定しない』
その結果、労働や社会の競争を嫌悪する者たちは、自らの意思でメタバースの世界へと一生を捧げることを選んだ。
驚くべきことに、この日を境に現実世界における重度な暴力犯罪や窃盗、強盗の類いは格段に減少した。
なぜなら、彼らが欲するすべての富や承認欲求はゲーム内に存在し、それを手に入れるために必要なのは、不平等な生まれや才能ではなく、ただ純粋な「やり込み度」だけだったからだ。
奪い合う必要などどこにもない。
国家がお金を刷って配る必要すらない、デジタル空間による自給自足型のベーシックインカム。
前崎の目論見通り、歪で、それでいて完璧に安定した「新しい世界」が完成した。
旧時代の老人や知識人たちは、この社会現象を「若者がゲームに脳を操られている」「国家の家畜になった」と激しく批判した。
しかし、それに対する若者たちの反論の方が、世論では圧倒的な支持を集めることとなる。
『システムに魂を売ったって?
なら、汗水垂らして他人に頭を下げ、死ぬまで労働に追われる「資本主義」に付き合いたくない。
あなた方の人生は失敗そのものではないか』
老兵たちの言葉は、新しい時代の波にかき消された。
こうして地上に残されたのは、電子的なものにのみ価値を見出す旧人類と、それでもなお、この不自由で泥臭い現実を選び取ろうとする一部の人間たちだけとなった。
『王天堂 Dive』がもたらしたパラダイムシフトは、人々の精神だけに留まらなかった。
物理的な現実世界、すなわち地上に遺された「都市のあり方」そのものを、土台から激変させたのである。
まず、目に見えて姿を消したのはアパレルブランドの路面店などの実店舗であった。
わざわざ現実の店舗に足を運び、重い布地を試着する意味など、もはやどこにもない。
Diveの空間内であれば、一瞬で何万着もの衣装を完全にフィッティングでき、しかも物理法則を無視した光や粒子のエフェクトさえ纏うことができる。
現実の肉体に高価な服を着せるよりも、世界の3割の人間が見つめている画面の向こうのアバターを飾る方が、遥かに社会的ステータスとしての価値が高くなったからだ。
さらに、既存の「教育」や「アミューズメント」の商業的価値も完全に崩壊した。
学校に通う、あるいは塾に大金を払うといった行為は、Dive内に構築された超効率的なAI対話型ラーニングによって代替され、実質無料に近いコストで自宅から受講可能となった。
それどころか、現実世界の学歴や資格よりも、Dive内でのプレイスキルや統率力、データ処理能力の方が、新社会においてはるかに直結した実利価値を持つようになってしまったのだ。
テーマパークや映画館も、五感を100%ハックするバーチャル体験の前には、ただの不自由な書き割りに過ぎなくなった。
「移動手段」としての車の価値も、決定的なトドメを刺された。
数百万、数千万という莫大な本体価格に加え、税金、保険料、駐車場代、維持費。
それだけのコストとリスクを支払って、渋滞に巻き込まれながら狭いアスファルトの上を這う理由がどこにあるのか。
Diveの世界へ行けば、誰もが燃料費など気にせず、最新鋭のスーパーカーで世界の果てまで音速で駆け抜け、重力から解き放たれて空を飛ぶことさえできるのだから。
若者たちの車離れは、離れるというレベルを超えて「完全な忘却」へと至った。
結果として、かつて欲望と消費の象徴だった都市の風景は、徹底的に削ぎ落とされ、高級店が立ち並ぶようになった。
街並みから華美な広告やショールームが消え去り、代わりに並んだのは、最低限の生命維持に特化した実需店舗ばかりとなった。
調理の手間を省くための飲食店、24時間機能するコンビニ、生鮮食品を扱うスーパーマーケット。
そして、ゲームの世界に引きこもる3割の人間たちの肉体を餓死させないために、自動運転のドローンや配送車が絶え間なく出入りする「巨大な配達業者の物流倉庫」。
都市は輝きを失ったのではない。
過剰な装飾を剥ぎ取られ、ただのゲームを効率よくするための設備へと変わった。
資本主義が数百年かけて積み上げてきた物質文明のインフラが、僅か数ヶ月の電子の波によって、音も立てずに瓦解していく。
世界は今、人類がかつて経験したことのない、静かで、圧倒的な激動の時代を迎えていた。




