File:087 あいりん地区
「ここが……あいりん地区……?」
ハイエースのドアがスライドして開いた瞬間、マスミは鼻を突く饐えた臭気と、視界に飛び込んできた異様な光景に、怪訝そうに顔を傾けた。
そこは行政が行き届いた現在の日本において、唯一システムの網の目から完全に零れ落ちた、剥き出しの昭和が腐りかけたまま放置されているかのような、異質な「吹き溜まり」だった。
「なんというかスラム街という言葉がぴったり合う場所だな」
そんな風に怜はこの場所を称した。
「……こんな場所が本当に日本にあるとは」
「みっくんも知らなかったの?」
「えぇ。我々は数字でしか知りませんから」
そうやって寂しく長谷部は答えた。
「マスミ、あんまり俺たちから離れるな。
長谷部さんもカオリもだ。
一人でむやみに歩き回っていい場所じゃない。
身包み剥がされるぞ」
ジュウシロウが周囲の物物陰に鋭い視線を走らせながら、低く警告した。
ユーリは大丈夫だろう。シュウが近くで守っている。
しかし、周囲を警戒するその一方で、ジュウシロウの胸には奇妙な懐かしさが去来していた。
肌を刺すような独特の緊張感、他者への無関心と警戒が入り混じった濃密な空気感――。
(……フッ、こことは場所も違えば規模も違うが、俺が育ったかつての地元も、これによく似た匂いがしていたな……)
彼がそんな過去の記憶に一瞬だけ遠い目をした、その時だった。
「おじさん、ちょっといいかい?」
ガチャガチャと手錠の音を響かせ、拘束されたままの一ノ瀬が、信じられないほどの軽薄さで地べたに座り込んでいた一人の老いた浮浪者に近づいていった。
そして、縛られた指先で器用に数枚の紙幣を掴むと、それを男の汚れた手元へと滑り込ませ、何かを耳打ちするように尋ねた。
「うん、なるほどね。……ありがとう」
一ノ瀬は何事もなかったかのように、満足げな笑みを浮かべて戻ってきた。
「……おい。あまり勝手な真似をするなと、何度も言わせるな」
ジュウシロウが殺気混じりの視線で一ノ瀬を睨みつけた。
「そんなに怒らないでくれよ。
君みたいな化け物がまともに近づいたら、ビビッて恐怖で口を完全に閉ざしてしまうか、あるいは一斉に逃げ出してしまうだろ?
僕のように無害に見える人間にしか、彼らの警戒は解けないのさ。
……それにほら、ちゃんと有益な情報を買ってきたよ。
やっぱりね、僕の見立て通り、彼らはただの浮浪者じゃない。
『見張り』だ」
「見張りだと……? なぜそんなことが断言できる」
「気づかないかい?
衣服や汚れ方は周囲と完全に同化しているけれど、何人か、その定位置から何時間も一歩も動かずに、ただそこにいる浮浪者がいるだろう?」
「……」
ジュウシロウの目には、ただ生きる気力を失って呆然と座り込んでいる老人にしか見えなかった。
「社会から弾かれ、技能も体力も失った人間に与えられる最も単純で過酷なタスクはね、ただ『その場所に居続ける』というだけの仕事なんだよ。
だから彼らは、どれだけ時間が経とうが、あそこにボスに報告しているのさ。
手元のボタンでね」
「……胸糞の悪い、嫌な仕事だな」
「それを決めるのは僕たちじゃない、彼ら自身さ。
テロリストなんかよりもよっぽどいい。
対価として、今日の分の『クスリ』か、それとも『酒』か『金銭』を貰っているんだろうからね」
一ノ瀬は冷徹に言い放つと、手錠を揺らしながら再び歩き始めた。
そして、入り組んだ路地の奥で足を止め、顎で一つの建物を指し示した。
「あのビルさ。僕たちの目的地はね」
その視線の先には、幾度となく抗争に巻き込まれたのか、外壁が弾痕のような穴だらけになり、廃墟寸前まで荒廃した雑居ビルがそびえ立っていた。
その一階の入り口は、かつては小洒落ていたであろう、とうの昔に閉店したカフェの錆びついた鉄製の扉で閉ざされていた。
「……どうする。俺が今すぐあのドアをこじ開けるか?」
ジュウシロウが拳を握り締め、前に出ようとした。
「いや、少し距離をとって。
この位置から一気にやってほしいな。
……そう、ここからドアまで、およそ100メートルはあるね。助走をつけるには十分だ」
一ノ瀬は歩幅を測るように、数歩下がってジュウシロウを見た。
「なぜそんな回りくどいことをする?」
「中にいる連中はね、裏社会を生き抜いてきただけあって気配にとても敏感なんだ。
足音を忍ばせて近づいても、ドアノブに手をかけた瞬間に裏口から逃げられるか、あるいはドア越しに銃弾を浴びせられるのがオチさ。
だから、こういうのは相手に思考の隙を与えない――超高速の強襲突入に限るのさ」
「……ふん、わかった。それなら得意分野だ」
「じゃあ、お願い」
一ノ瀬が言葉を終えた瞬間、ジュウシロウの肉体から爆発的な踏み込みの衝撃が放たれた。
アスファルトを陥没させるほどの勢いで地面を蹴り、銃弾さながらの速度で100メートルの距離を一瞬で突進したジュウシロウは、その圧倒的な運動エネルギーのまま、鉄製のドアに向けて渾身の体当たりを敢行した。
――轟音!!
頑強な鉄扉がフレームごと強烈に吹き飛び、室内の奥深くまで転がっていった。
もうもうと立ち込める硝煙と砂埃の中、突入したジュウシロウの目の前に広がっていたのは、廃墟の外観からは想像もつかないほど精密な電子機器と、明らかにカタギではない、鍛え上げられた強靭な体躯を持つ男たちの姿だった。
不意を突かれたはずの男たちは、凄ましき反射速度で即座にそれぞれの懐やデスクの裏へと手を伸ばし、侵入者であるジュウシロウへと完璧な迎撃の銃口を向けようと動き出した。
「おい。動くな。あんたら、こいつの顔をよく知っているはずだ」
もうもうと立ち込める砂埃を割って、当初の作戦通り、シュウが一ノ瀬の首元に薄緑色の光を放つ高周波ブレードを突き付けながら前へと歩み出た。
刃から発せられる微細な振動が、一ノ瀬の喉皮膚をかすかに震わせる。
「やあ……日本の頼もしいレジスタンス諸君。突然のダイナミックな訪問で驚かせてすまないね」
手錠を嵌められたまま、一ノ瀬は何の緊迫感もない、いつも通りの飄々とした笑みを浮かべて手を挙げた。
「っ……!? お前、一ノ瀬……!?」
銃口を向けていた男たちの引き金を引く指が、一斉に止まった。
あまりにも予想外すぎる大物の登場に、室内の張り詰めた空気が一瞬にして困惑と驚愕へと塗り替えられていく。
「争いに来たわけじゃない。
俺たちはただ、ここにいるあんたたちの『代表』と話をつけに来ただけだ」
ジュウシロウが一歩前に出ながら、低く響く声で場を圧した。
武器は構えていない。
だが、その佇まいだけで、並の兵士なら気圧されるほどの圧倒的な威圧感が室内に満ちていく。
「なんだぁ~? なんだぁ~? 昼間っから何の騒ぎだよ。
どこぞの血気の多い半グレどもが、シマを間違えて殴り込みにでも来たのかぁ~?」
ビルの奥へと続く重厚な扉が開き、気怠げで、随分と泥臭い親父臭さを隠そうともしない声が響いた。
現れたのは、ヨレヨレのシャツを羽織り、無精髭を蓄えた一人の男だった。
しかし、その男が姿を現した瞬間、ジュウシロウの全身の肌がピリピリとした強烈な拒絶反応を起こした。
(こいつ……間違いない。この場にいる誰よりも、圧倒的に強い)
一見して隙だらけに見えるその構えの奥に、一瞬でも動けばこちらの命を確実に刈り取るだけの、洗練され尽くした『個の武力』が潜んでいることを、ジュウシロウの戦士としての本能が瞬時に見抜いていた。
「おぉん!? 一ノ瀬さんじゃねえか……!? ってことは、そっちにいるのは……」
男は一ノ瀬の姿に目を丸くした直後、その後ろに控えるジュウシロウ、シュウ、そしてカオリたちの顔ぶれを凝視し、その泥臭い表情を劇的に強張らせた。
「おいおい。俺たちが壊滅させたはずの、アダルトレジスタンスの生き残りどもじゃねーか……!!」
男の言葉と同時に、周囲の戦闘員たちの肉体に装着された最新型の神経外骨格が、特有の高周波音を鳴らしながら一斉に赤く起動した。一触即発の殺気が、瞬時にして限界突破する。
「言ったでしょ。
争いに来たわけではないですよ、黒岩さん。
僕たちは、きわめて平和的な対話を望んでいます」
首元にブレードを突き付けられたまま、一ノ瀬は困ったように肩をすくめ、目の前の男――黒岩を優しく諭すような声音で呼んだ。
「……元上司なのを承知でいうぜ?
前崎の手先として動いていたテメェが、今更なんの用だ?
一体、何をしに来やがった?」
黒岩は神経外骨格の出力を限界まで高め、いつでもジュウシロウの首を跳ね飛ばせる構えをとりながら、低く濁った声で詰問した。
「お話ですよ」
一ノ瀬は優しく諭すように微笑んだ。




