File:085 民主主義の限界
『ロス・カタス』が長年かけてメキシコ北部に築き上げてきた、大規模な麻薬栽培所、人身売買による売春宿、莫大な闇資金を生み出す違法カジノ、点在する武装拠点。
そして幹部たちの潜伏先の住所や、その血縁にあたる家族の居場所に至るまで――それらすべての機密情報は、前崎の猟犬たちが最初の引き金を引くよりも遥か前に、完全に洗い出され、白日の下に晒されていた。
総統・前崎が合理的に指揮を執ったのは、その集約された情報網の中のすべての襲撃という前代未聞の「同時一斉飽和攻撃」である。
それは国家と国際犯罪組織の『戦争』などと呼べる生易しいものではなかった。
圧倒的な機動力を誇る『ペルディータ』の蹂躙と、通信すら遮断された闇の中から命を確実に刈り取る『Hound』の電撃作戦。
あまりにも一方的な虐殺によって、メキシコ裏社会の勢力図はわずか数時間で根底から塗り替えられることとなった。
作戦開始から、わずか二日後。
かつてメキシコ北部で絶対的な恐怖として君臨していた『ロス・カタス』の構成員で、この世に息を長らえている者は、ほぼ一人として存在しなかった。
その無慈悲な焦土作戦の中で、唯一、意図的に「保護」されたのは、日本との司法取引を約束し、重要な内部情報を全て吐き出したシカリオのリーダー――ラスカノの家族だけであった。
その家族たちは、血の海と化したカルテルの利権争いから、日本の管理下という名の安全な檻へと隔離された。
「よし。これで我が部隊の役目は完全に果たされた。
あとの残務処理と、主を失って空白地帯となったこの土地の権益は、事前の約束通りメキシコ政府にくれてやる。
――全軍、速やかに撤収を開始せよ」
前崎の直轄部隊を率いる指揮官の冷徹な号令が、夜を徹した掃討作戦の終わりを告げる。
ターゲットを塵一つ残さず抹殺した日本軍の精鋭たちは、自らがもたらした硝煙と業火の余韻を背に受けながら、まるで最初から存在しなかったかのように、静かに、そして迅速にメキシコの地から引き揚げていった。
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硝煙が未だ燻るロス・カタスの本拠地跡。
その血生臭い廃墟へ、事後処理を担当するメキシコ連邦警察の他に、国境を越えてアメリカ陸軍の調査部隊の一団も姿を現していた。
日本の前崎が率いる軍が犯した領空・領土侵犯は、国際法上、明白な国家主権の侵害にあたる。
だが、合衆国としてもメキシコ政府としても、長年の癌であった凶悪な国際犯罪組織が、ノーリスクで自国の兵力を一兵も損なうことなく地上から消滅したのだ。
本音を言えば「大助かり」という他ないのが、政治を感情で見た現実だった。
「既存の民主主義も、いよいよ限界か……」
ひしゃげた薬莢をブーツの先で転がしながら、アメリカ軍の若い兵士がポツリと呟いた。
「そういう意味じゃ、中国の独裁は上手く機能していたよな。
国家の意思決定スピードの速さという意味ではさ」
「……どうだろうな。あそこは上層部が肥え太って、底辺との貧富の差が激しすぎる。
歪みはいずれ破綻を生むさ」
「ハハッ、それを言うならこの合衆国も似たようなもんだろ?」
兵士たちは肩をすくめ、自嘲気味なブラックジョークを交わし合っていた。
統治能力を失いつつある自国の現状への、諦めにも似た皮肉だった。
だが、彼らの他愛のない雑談を、少し離れた装甲車の影から険しい目で見つめている男がいた。
この調査部隊を率いる、歴戦の司令官だった。
「……彼らの言う通り、確かに民主主義はその寿命の限界を迎えているのかもしれないな」
司令官の呟きを聞き咎め、傍らに控えていた若き副官が怪訝そうに尋ねる。
「限界、ですか。
それは……多数決によって国の舵取りを決めるというシステム自体が、もう現代においては無意味になった、という意味でしょうか?」
「無意味……というよりは、『非効率』と言う方が正しいだろうな」
「非効率?」
「ああ。足元を見てみろ。
SNSの普及によって、個人の好みも、思想も、倫理的な価値観も、手に負えないほどに細分化し、多様化してしまった。
……昔は良かった。
マイケル・ジャクソンの音楽を聴き、野球やバスケ、アメフトの三大プロスポーツを熱狂的に応援していれば、国民の意識はそれだけで一つにまとまっていた。
いや、済んでいた時代だったんだからな」
「価値観が多様化したということは、個人の自由が尊重され、新たなチャンスが広がるという意味で、むしろ喜ばしいことなのでは?」
副官は教科書通りの正論を口にしたが、司令官はフッと冷たい笑みを漏らした。
「それは平時の理想論だ。国家という巨大な船を動かす立場から見れば、単なる『統治不全』でしかない。
ここまで個人の価値観がバラバラに広がってしまえば、最大公約数的な『全員が納得できる解』など、どれだけ議論を重ねようが絶対に出せるわけがない。
議論している間に、独裁国家のような決断の早い怪物に一瞬で喰い殺される」
司令官は、目の前の凄惨なカルテルの死体の山を指し示しながら言い放った。
「だからこそ、これからの時代は強力な権力によって、国家の舵を一手に握る必要があるのさ。
自由という名の下に分散し、暴走を始める国民を力で抑え込むためにな」
司令官がそう言って差し出した手には、古びた一冊の洋書――マキャベリの『君主論』が握られていた。
「どうやら、我々軍人もこの古い教科書を、一から読み直さなければならない時代のようだ」
硝煙の混じる風に吹かれながら、司令官は冷徹な意思を宿した目で、その血塗られた覇道のページをゆっくりと開いた。
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「なるほど。君の提示した条件や要件はすべて理解した。
……実に、私の期待通りの回答だよ」
「ありがとうございます、ロックスフォード閣下」
総統・前崎がメキシコの『ロス・カタス』へ向けて容赦なき鉄槌を振り下ろす直前、彼はある一人の男と極秘裏に相まみえていた。
世界経済を裏から牛耳る『世界の十指』に数えられ、軍産複合体と国際金融の頂点に君臨する巨大財閥――ロックスフォード家。
その第10代当主、ウィリアム・ロックスフォードその人である。
前崎は、この世界の絶対強者に対してある「優遇条件」を提示した上で、いくつかの協力を要請していたのだ。
「予定通り、我が一族の持つ一割の資本を日本へと一斉に投資することを約束しよう
「重ねて、深く感謝いたします」
「……これから、世界は間違いなく君たち『日本』を中心とした新たな力学で回り始めるだろう。
だが前崎君、それが人類にとって至高の福音となるか、あるいは最悪の悲劇となるかは、全て君の裁量次第だがね」
「……百も承知しております。
私は、その混沌を完全に支配するために、これまでの人生のすべてを賭して準備を重ねてきましたので」
ウィリアム・ロックスフォードは、前崎の揺るぎない眼光を見つめ返した後、ゆっくりと視線を窓の外の広大な景色へと移した。
その冷徹な絶対強者の横顔に、一瞬だけ、昏い私的な影が差す。
「……私は、一人息子の教育に致命的に失敗した」
それは、親の敷いた覇道のレールを拒み、純粋に音楽活動の夢へと打ち込み、自由を追い求め続けた若き跡取りの、あまりにも惨めな末路だった。
前崎も、その顛末については事前に情報網から軽く報告を受けていた。
自由という名の牙を抜かれた息子は、近づいてきた悪友から巧妙に網を張られ、新種の合成麻薬を投与されて重度の依存症に陥り、今や廃人同様となって隔離されているのだ。
「今の荒廃した我が国の医療では、あの子を救うことはできない。
だが……医療の既得権益も簡単に奪った君の国なら、何とかできると信じている。
――君が提示した、その驚異的な『臨床再生データ』が、もし本当であるのならの話だがね」
「国家機密につき、治療プロセスの詳細を公にすることはできません。
ですが、彼が再び正気を取り戻すという『結果』に関しては、私の名において少なくとも100%保障いたします」
前崎の冷徹な断言に、ウィリアムはフッと満足げに口元を歪めた。
「わかった。
まずは約束通り、第一段階としての初期投資を実行に移そう。
無論、それ以降の追加融資は、君が確実な『結果』を出し次第という話にはなるがね……」
ウィリアム・ロックスフォードは再び真っ直ぐに前崎を見据え、世界を動かす最高権力者としての絶対的な重みを宿した声で、こう言い放った。
「もし君がその約束を果たしてみせるなら、我がウィリアム・ロックスフォード一族はすべての資産と共に日本へと移り住み、未来永劫、君の創り出す新たなる帝国の背骨を支え続けよう」
二人の怪物の間で、世界の未来を完全に決定づける、血塗られた契約がここに成立した。




