File:081 一ノ瀬の理由
「相も変わらず、君か。……少しメンツが増えたようだけれど。
随分と暇なもんだね、テロリストの残党諸君は」
一ノ瀬は薄暗い地下牢の奥で、拘束椅子に深く背を預けたまま、いつもの人を食ったような皮肉を唇に浮かべた。
鉄格子の外に並ぶのは、ジュウシロウ、マスミ、ユーリ、そしてカオリの四人。
さらに、頑強な電子ロック付きの鉄扉を解錠するために、小室組の若頭である怜も立ち会っていた。
この部屋にはシュウの姿はない。
万が一の共謀や暴発を防ぐため、一ノ瀬はシュウとは完全に隔離された別の地下牢へと監禁されていた。
一ノ瀬がここでジュウシロウたちに身柄を拘束されてから、すでに四日の月日が流れていた。
その間、ジュウシロウは何度か単独で尋問を試みたものの、一ノ瀬はただ不気味に沈黙を守るか、無意味な世間話で煙に巻くばかりで、核心に触れるような情報は一切口にしていなかった。
「……お前だって、四日間もこんな湿気臭い檻の中に閉じ込められて寝てばっかりじゃ、退屈で死にそうなんじゃねぇのか?」
怜が鉄格子の隙間から冷ややかな視線を送り、探るように問いかけた。
「まさか。安心してくれよ、小室怜君。
僕は旧公安の特殊訓練によって、この手の監禁環境にはある程度慣れているからね。
感覚をある程度遮断されても、脳内で無限にシミュレーションして遊ぶことができるのさ。
――例えばそう、君の身体に液体窒素をぶっかけてカチコチに凍らせた後、大型のハンマーで綺麗に粉々に粉砕する妄想、とかね」
一ノ瀬は包帯の剥がれた端正な顔を歪め、狂気に満ちた薄笑いを浮かべた。
「……おいおい、本物のバケモンかよ、こいつ」
怜の背筋に冷たい戦慄が走り、額から嫌な汗が伝う。
実際に受けたトラウマを思い出した。
「怜、その男との軽口はやめておけ。洗脳されて脳まで飲まれるぞ」
「ははっ! 『飲まれる』か! 素晴らしい表現だね、ジュウシロウ君!
君にやられた鼻を整形したのに崩れそうだ」
一ノ瀬は首をのけぞらせ、喉の奥を見せるようにして声を上げて笑った。
その常軌を逸した威圧感に気圧され、怜は引き気味にジュウシロウの頑強な巨体の背後へと身を隠した。
ジュウシロウは重苦しい溜息を一つ吐き出すと、張り詰めた空気を切り裂くように本題を切り出した。
「……まず、お前に一つ報告がある。
四日前のあの日、お前が予言した通り――アメリカ合衆国が日本に対して正式に宣戦布告を行った」
「……だろうね。だが、何の心配もいらないさ。
前崎さんがどうせ、一瞬で踏み潰して勝つに決まっている」
一ノ瀬の口調には、盲信とも言える絶対の確信が満ちていた。
しかし、ジュウシロウはその言葉を冷徹に遮った。
「凄まじい信頼だな。
……だが、もう終わったぞ。その戦争は」
「随分と展開が早いんだね。
前崎さんのことだから、新兵器の実験がてら、もう少しアメリカの大陸全土を徹底的に焦土に変えるくらいは派手にやると思っていたけれど……」
「公式発表では、アメリカのゴードン大統領が人道的な観点から爆撃直前で作戦を思いとどまり、電撃的な和解に応じた、ということになっている」
「分かりやすい言い訳だね。
実際には、前崎さんという怪物を本気で敵に回した時の絶望的な結末に気づいて、恐怖で尻尾を巻いて逃げ出しただけさ」
一ノ瀬はすべてを見透かしたように、くつくつと喉を鳴らした。
「――そこまで前崎のシステムに心酔しているお前に、どうしても聞きたいことがある」
ジュウシロウは一歩、重々しい足取りで鉄格子の直前まで歩み寄り、その圧倒的な質量で一ノ瀬を上から見下ろした。
「お前……なぜ前崎を裏切ってまで、こんな極東の僻地へ来た? ――一体、何のために動いている?」
ジュウシロウは鉄格子を握る手に力を込め、冷徹な低音で問い詰めた。
「……」
だが、一ノ瀬はただ視線を床に落としたまま、薄気味悪い沈黙を保ち続ける。
これだ。この核心に触れる質問を投げるたび、この男は完全に心を閉ざしたように黙り込む。
そこにどんな計算や心理的障壁があるのか、ジュウシロウには測りかねていた。
「私は、前崎総統のやっていることが、全て間違っているとは思いません」
静まり返った地下牢に、ユーリの鈴を転がすような、だが芯の通った声が響いた。
彼女はジュウシロウの脇をすり抜け、一ノ瀬の正面へと一歩踏み出す。
「……ユーリ、危ない。下がっていろ」
「大丈夫です、ジュウシロウさん」
ジュウシロウの低い警告を片手で制し、ユーリは臆することなく語り始めた。
「もちろん、独裁体制が絶対の悪だとか、民主主義の否定は人道に反するとか、既存の教科書的な倫理を並べ立てれば、総統のやり方は間違いだらけなんでしょう。
……でも現実として、今の日本は劇的に、良く変わっている。
経済の停滞から抜け出し、強さを取り戻している。
それに対して、私は一人の国民として賛成なんです」
「……ハハッ、ハハハハ!」
ユーリの言葉が終わるか終わらないかのうちに、一ノ瀬が狂おしそうに喉を鳴らして笑い出した。
その笑い声には、これまでの皮肉とは違う、どこか奇妙な感銘が混じっているようだった。
それに対してカオリはムッとした表情のまま、聞いていた。
「4日前に会った時からどこかで見覚えがある顔だとは思っていたけれど……君、名前は何て言ったっけ?」
「ユーリよ」
「あぁ、そうだった。ユーリちゃん。
アダルトレジスタンスのメンバーだったよね。
当時の写真で見たときは中学生ぐらいだったのに。
そうだそうだ、思い出したよ。
……いいだろう。盲目的な正義を振りかざすカオリ君には話すつもりはなかったけど、君に免じて話したあげる。
まあ、バレてもバレなくても僕の一個人の感情なんてたかが知れているからね」
一ノ瀬は笑いを収めると、錆びついた記憶の蓋を開けるように、ポツリポツリと重い口調で語り始めた。
「今は違った形だけど前まで公安調査庁や自衛隊と言われていた元々の国家の暴力装置の内部にはね、前崎さんの強引なやり方に内心で反発し、反対している人間が、君たちが思っている以上に大勢潜んでいるのを知っていたかい?」
「……えっ、そうなの?」
その言葉に、カオリが絶望の淵で微かな希望を見出したかのように、ハッと顔を輝かせた。
「まあ、僕が言うのもなんだけどさ。
彼らってほら、所詮は『宮仕え』の公務員だから、自分の頭でゼロから物事を考えることができない組織人なんだよ。
だから、前時代的な『法治国家の幻想』からどうしても逃れられない哀れな人たちさ。
まあ、前崎さんという劇薬に対して、お役所仕事でなくても本能的な拒絶反応を起こすのは理解できるけれどね」
「……それは」
私の聞きたい話の本質じゃない。
カオリはそう反論しようとしたが、一ノ瀬の放つただ事ではない気配に圧され、言葉を喉の奥に思いとどまらせた。
「実際、前崎さんは……自分の都合のために、身内の部下すら殺害したしね。
……そう、僕の直属の部下でもあったんだよ、あの沖縄の。
ほら、ジュウシロウ君もその場に居合わせていただろう?
君たちが『運動会』と呼んでいた、あのマフィアやカルテル絡みの襲撃でね。
前崎さんは、そいつらと組んでいた部下を容赦なく靴で踏み抜いて圧殺したよ……。
本当に、我が国の未来を担う優秀で有望なスナイパーだったのにね、彼は」
「一緒に戦っていたはずの仲間を……わざわざ、自らの手で殺したというの……?」
カオリが戦慄し、両手で口元を覆う。
「まあ、国家の牙である元公安の残党が、メキシコのカルテルやマフィアといった海外の犯罪組織と結託して国内に引き入れるなんて真似は、組織の規律としては完全にNGなんだけどさ。
……でもね、その禁忌を犯してでも、彼は何としても前崎さんを止めたかったわけだ。
独裁者の手先として銃を持たされ、罪のない同胞を撃ち殺す機械にされるのが、どうしても耐えられなかった。
――彼はね、前崎さんが前首相を暗殺したまさにその翌日には、自ら公安に辞表を叩きつけているんだよ」
地下室の湿った空気をさらに重くするような、深い沈黙が一同を包み込んだ。
犠牲になった若きスナイパーの無念が、コンクリートの壁に染み付いていくかのようだった。
「まあ、そこにいるユーリちゃんが先ほど語った『日本は良くなっている』という言葉は、僕にとっても頭を殴られるほどの衝撃だったけれど。
数字上はね。
……だからこそ、僕は自分の目と耳で、この世界の裏側にある『事実』を確かめようと思ったんだ。
カルテルや海外マフィア、そしてこの小室組が水面下で不穏に絡み合っている情報は、副総統の権限で事前に掴んでいたからね。
まさか、潜入の過程で君たちと同じ密航船に相乗りするなんていう、神がかった偶然が起きるとは思わなかったけれどさ」
「……だからお前は、自らの地位を捨て、闇のルートを使ってまでこんな極東のヤクザの巣窟まで潜り込んできたのか」
ジュウシロウが納得のいったように呟く。
「仕方ないじゃないか。
今や前崎さんにとって、一ノ瀬という男は『更生施設で急に暴れた君に殺されて死亡した』ことになっているんだから。
戸籍上も社会のシステム上も死人となったこのフリーな状況を、利用しない手はないよ」
「……ならば、地下室でシュウ――いや、不動明に近づいた意図は何だ?」
「彼に、今のこの歪んだ国の状況をどう思うか、単に意見を聞きたかっただけさ。
まあ、あわよくば僕の計画に共鳴してもらい、一緒に協力して動いてもらうつもりではいたけれどね。
見ての通り、僕は神経外骨格がなければ君たちに指一本でひねり潰されるほど、非力な人間だから」
「……協力だと? 一体、何の計画だ」
ジュウシロウの目が一段と鋭さを増す。
「日本国、特に過去に国家の中枢や官僚組織に関わってきた人間たちが、水面下で結成しつつある『真のレジスタンス』さ。
僕はそのネットワークに接触し、彼らの生身の声を直接聴こうと思っていたんだよ。
どうやら、各地に潜伏しているらしいからね。
……誤解しないでほしいのだけれど、僕は今でも前崎さんという男を心から尊敬しているし、あの圧倒的なカリスマに憧れてさえいる。
誰よりも彼の能力を信用しているからこそ……自分の手で確かめたいのさ。
あの人が創り出した今の日本が、本当に、国民にとって良くなっているのかどうかをね」
一ノ瀬はそう言って、初めて嘘偽りのない、どこか虚無的で純粋な瞳を一同に向けた。
「……前崎を信じるがゆえの、反逆、か。そんな奴らが、この国に本当に存在するのか?」
「さあね。僕にもまだ全容はわからないし、下手をすれば接触する前に、前崎さんのHoundに察知されて全員まとめて殺されていてもおかしくないと思うよ。
……でもね、ある時期を境に、前崎さんは僕に重要機密を色々と言い渡してくれなくなったんだ。
『Hound』の非道な報酬システムしかり、クローンによる少子高齢化の強制的な解決だったりね。
僕を信頼してくれているはずのあの人が、僕に『嘘』……とは言わないけど話さなくなったんだよ」
「……」
「だから、一回すべての肩書きを捨てて、吹っ切れようと思っただけさ。
……どうだい、ジュウシロウ君。
僕の動機を聞いて、少しは納得してくれたかな?」
一ノ瀬の吐露した本音を受け止め、ジュウシロウはゆっくりと鉄格子から手を離した。
「……大層な大義名分があるのかと思えば、思ったよりも個人の感情的な理由だったんで驚いたな」
「……ふふ、そうかもね。否定はしないよ。
なんというか、既存の法律や綺麗事のシステムでは、もうこの混沌とした国家を縛るのには限界がきているんだ。
君たちには到底納得されないかもしれないけれど、世界の時代そのものが変わってしまったのさ。
……だけど僕は、最後に自分が『新秩序』と『反逆者』のどちらのテロリスト側に身を投じるべきか、その天秤を正しく見極めるために、この目で真実を確かめておくよ」
それが、前崎の側近の一人でありながら、組織を欺いて闇へと降り立った一ノ瀬という男が語った、一片の偽りもない「本音」のすべてだった。




