File:079 大統領
ホワイトハウスの首脳陣は、心のどこかで最悪の結末を「分かって」いた。
かつて、当時の副大統領が『アレイスター』と名乗る規格外の怪物によって暗殺された際、世界最強の軍隊も最新鋭の防衛システムも、何一つとして為す術がなかったあの絶望を。
すべてを突破され、その痕跡すら残っていなかった。
そして、彼らは「分かって」いたはずだった。
前崎という男が、距離という概念を無意味にする『ホログラム転送装置』と呼ばれる超常的な量子演算テクノロジーを駆使し、大陸間の距離という障壁を飛び越えていつでもアメリカの心臓部に直接割り込んでくることができるという恐怖を。
だからこそ、現政権は前崎の電子の目を欺くため、大統領補佐官の一部の最高幹部しか全容を知らされていない、極秘の絶対聖域へと逃げ延びたはずだった。
彼らが臨時の作戦会議室として選んだのは、ペンタゴン(アメリカ国防総省本庁舎)から東へ約16キロメートル、メリーランド州に位置するアンドルーズ合同基地の、地下深くを穿って建設された『次世代兵器実験施設』だった。
この隠れ家に関しては、基地に駐屯している現役の将兵たちにすら一切の情報が遮断されていた。
当初は国家防衛の象徴であるペンタゴンに籠もる案も出たが、隠れ家に対してあまりにも目立ちすぎるという理由と予想が安易にできるという理由で即座に却下されていた。
広大な滑走路を有するアンドルーズ合同基地であれば、万が一、敵の襲撃を受けたとしても、最悪は大統領専用機に大統領だけでも力ずくで詰め込み、大空へと逃がして時間を稼ぐことができる――その血の滲むようなサバイバル・プランの果ての選択だった。
だが、そんな人類の知略の結晶とも言える防衛作戦のすべてを、次元を狂わせるように嘲笑い、超えてきたのが総統・前崎だった。
「……バカな……なぜ、ここが分かった……!」
現在、世界最高峰のハイテク武装を施されたはずの大統領警護官を含め、実験室内の全員がコンクリートの冷たい床にひれ伏した状態で、屈辱に震えながら両手を挙げていた。
彼らの周囲を取り囲む自動防衛タレットや、身に纏っていた最新鋭の戦闘支援システムはすべて強制ハッキングによって制御を奪われ、あろうことか主である大統領の頭部へと一斉に凶暴な銃口を向け直していたからだ。
それだけでなく、一人一人にHoundが全員の頭に銃口を突き付けていた。
硝煙の匂いすらしない完璧な制圧空間の、その中心――。
冷徹な光を放つホログラムの電子粒子を収束させ、傲然と腕を組んだ前崎の虚像が、静かに、そして絶対的な死神の如き威圧感を伴って、アメリカ合衆国大統領の目前に聳え立っていた。
「大統領。どうかその姿勢のまま、私の言葉を静かに聞いていただきたい」
コンクリートの床に組み伏せられた男たちを見下ろしながら、前崎は抑揚のない、しかし完璧な発音の英語で静かに語りかけた。
ホログラムの青白い光が、臨時の作戦会議室の冷徹な空気をうっすらと青く染めている。
「我々は、この状況を『勝利』などとは微塵も思っていない。
もし我が国が、あなた方という世界最強の超大国と正面から本気の戦争をするとなれば、こちらとしても国家の半分を灰にするほどの相当な覚悟をしなければならないからだ。
――それは私としても、絶対に避けたい最悪のシナリオだ。
だからこそ、敢えてこのような不躾な手段で、あなた方の心臓部を直接押さえさせてもらった。
すまない」
ハッキングした自動防衛タレットの銃口をこちらの脳天に突きつけながら、よくもそんな白々しい台詞が吐けたものだ。
アメリカ合衆国の最高権力者であるゴードン大統領は、屈辱に顔を歪め、冷たい床に頬を押し付けられたまま心の中で激しく毒づいた。しかし、同時に理解してもいた。
前崎の言葉には狂気ではなく、こちらのあらゆる防衛網を無意味にする圧倒的な技術力に裏打ちされた、冷酷なまでの合理性が宿っていることを。
「我々からこれ以上の要求はない。
そして、このように極秘裏に『終戦』が合意された事実を、国際社会に向けて公表するつもりも毛頭ない。
あなた方のメンツは守られる。
……だが最後に、日本のとある古い言葉を借りて、アメリカ合衆国へ最大の忠告と警告を残しておこう」
一呼吸おき、前崎のホログラムの瞳が、大統領の視線を真っ向から射抜くようにして鋭く輝いた。
「『我々は何も奪わない。――だから、我々から何も奪うな』」
それだけを厳かに宣言すると、前崎の虚像は光の粒子へと爆発的に霧散し、まるで最初から誰もそこにはいなかったかのように、静かにアンドルーズ基地の闇へと消えていった。
それと同時に、警備官たちを縛っていたセキュリティの強制ロックが、何事もなかったかのように一斉に解除された。
Houndも後を追うように同様に消えていった。
かくして、世界が固唾を呑んで見守ったアメリカと日本との全面衝突は、後に歴史書において『日米危機』と称されることとなる。
ホワイトハウスは電撃的な作戦中止の直後、「国際社会からの想定以上の外交的反発を考慮し、人道的な観点から直前で軍事行動を取りやめた」という、苦肉の言い訳に満ちた公式声明を発表した。
国家のメンツを辛うじて保つための、壮大な虚飾の幕引きだった。
これに対し、日本国総統府もすぐさま同調し、「我が国は今後もアメリカ合衆国との間に、対等かつ良好な同盟関係を維持していきたい」との声明を出し、緊迫していた国内外の空気を一気に沈静化させた。
東京の空を覆っていた機動要塞『SG2』はその巨体を雲の彼方へと隠し、全国の緊急シェルターに隔離されていた一億の国民は、何が起きたのかも知らされぬまま、日常の街へと解放された。
世界中が安堵の息を漏らす中で、事件の生々しい真実を知る者は、日米の最高首脳陣以外には誰一人として存在しなかった。
だが、世界の主要国(列強)のトップたちは、大国のあまりにも不自然な引き下がりに、水面下で確信を持って察していた。
あの傲慢なアメリカを、引き金を引く直前で完全に恐怖させ、力ずくでねじ伏せるだけの『何か』を、あの前崎という男は確実に握っているのだと。
極東の列島に誕生した新たなる新政府への畏怖が、世界のパワーバランスを根底から塗り替えようとしていた。
余談ではあるがその後、大統領のゴードン大統領は任期を終えず、そのまま辞任した。
「戦争を引き起こそうとした責任を取る」と。
そう言い残した。




