File:076 小室真帆
かつて古い任侠映画や極道ゲームの画面越しに見たことのある、様式美の極致とも言える空間だった。
一面に敷き詰められた目の詰まった青畳。正面の格式高い上座には、精緻な金碧画が描かれた金屏風が厳かに鎮座しており、あそこにこの組織の絶対的な頂点である組長が座るのだろうと一目で理解できた。
そして、部屋の壁はその正面を除いて、四方がすべて一分の隙もなく建て付けられた襖で構成されている。
その張り詰めた大広間には、驚くべきことに塵ひとつ、埃ひとつとして落ちていなかった。
暴力団の総本部というよりは、一種の厳格な道場のような凄みが、空間そのものから発せられている。
「……なんだか、本当に映画のセットの中に迷い込んじゃったみたいね」
「あぁ。本当にな……」
隣で息を呑むカオリの囁きに、ジュウシロウは低く短い声で応じた。
ここは敵地ではないとはいえ、相手は修羅場を潜り抜けてきた極道組織の本拠地である。
礼節を失うわけにはいかないと、一同は念のため畳の上に正座をして、静かにその時を待つことにした。
だが、その張り詰めた静寂の中で、明らかに周囲と異なる、異常なほど落ち着きのない不穏な動きをしている人物がいた。
「……シュウ? どうしたの、顔色が真っ青よ……?」
ユーリが異変を察知し、心配そうに声を上げる。
「だ、大丈夫だ……。なんでもない、気にしないでくれ……」
シュウは尋常ではない冷や汗を額に浮かべ、自身の頭を両手で激しく押さえつけながら、声を震わせていた。
ジュウシロウもあえて声こそかけなかったが、そのただ事ではない様子を鋭く注視していた。
そして、ジュウシロウの脳裏に、最悪の仮説と、それに基づく強烈な戦慄が駆け巡った。
(……待てよ。ここは『小室組』の本部……。まさか……!?)
シュウのメタトロンに組み込まれた人格の「執念」が、この場所と完全に合致してしまっている。
ジュウシロウが知る限り、この場にいる他の誰もその事実に気づいていない。
一体、どうすればこの場で暴発を止められるのか――。
「――組長がお見えになります」
重々しい声と共に襖が静かに左右へ引かれ、小室怜の父親であり、この組織の絶対たる首領、小室真帆が姿を現した。
「……客人は揃っているようだな」
老体ゆえに漆黒の杖をついてはいるものの、その双眸から放たれる眼力は、見る者すべてを本能的に畏怖させる圧倒的な威圧感に満ちていた。
だが、大広間に足を踏み入れた瞬間、小室真帆の動きがピタリと止まった。
その視線が、部屋の隅で小刻みに震えている一人の少年に釘付けになる。
「……なぜだ。なぜ、お前がそこに生きて座っている……」
「シュウ……っ!?」
ユーリが悲鳴に近い声を上げる。
シュウの顔面には、どす黒い怒りの痣が浮き上がり、彼の全身からは殺気どころか、脳の異常発熱による白い湯気が立ち上っていた。
「小室真帆ぉぉぉぉぉぉ――ッ!!」
完全に理性を失った咆哮と共に、シュウが隠し持っていた高周波ブレードを、凄まじい速度で抜刀し突進する。
「なっ、おのれ!!」「組長を護れ!!」
不意の暴挙に、大広間の周囲に控えていた組員たちが一斉に懐から銃器を取り出そうと動く。
だが、その全面衝突の引き金を引き絞られる前に、状況を完璧に予測していたジュウシロウの巨体が弾丸のように動いた。
瞬間的にシュウの身体へ文字通り「タックル」を敢行したのだ。
凄まじい衝撃音と共に、ジュウシロウはシュウを組み伏せたまま大広間の襖を派手に突き破り、そのまま廊下の壁をも粉砕し、一直線に広大な日本庭園の敷地へと吹き飛んでいった。
「……小室組長。すまない。身内の不始末だ、ちょっと外で話をつけてきます」
「ジュウシロウ……! どういうことなの、あれは一体……っ!」
カオリが呆然と立ち尽くしながら叫ぶ。
「また後で詳しく説明する。今はとにかく、事態の収拾を行う」
ジュウシロウは短く言い残すと、破壊された壁の破片を払いながら、ざっと庭園の芝生へと飛び降りた。
「……前崎の野郎に赤っ恥をかかされて以来の再会だな、不動明……。
今更どうした?」
ジュウシロウは、庭の池に叩きつけられ、全身を濡らしながら泥だらけで立ち上がるシュウ――否、その肉体を乗っ取った男を睨み据えた。
シュウはかつて、メタトロンの不完全な同期実験の適合者となった結果、自身の深層意識に強烈な他者の人格を宿してしまっていた。
それこそがかつて公安調査庁に所属し、小室組に警察側の人間であることが明らかになり、顔面を焼かれ、それでも生き延びた捜査官『不動明』の執念。
この圧倒的な復讐心こそが、この暴挙の全原因だった。
「……やはり不動か。まさか、お前がそんな少年の肉体を借りて生き長らえていたとはな……」
小室真帆が、破壊された大広間の縁側までゆっくりと歩み寄り、庭園を見下ろす。
「よく分かりましたね、小室組長。
外見はただ俺の身内で、顔の痣程度しか共通点はないというのに」
「これでもかつては、血の滲むような兄弟の契りを交わした仲だ。
恨まれて当然だ。
お前をケジメとして顔面を焼いたのは俺なのだから。
その悍ましい殺気を私が忘れるはずがないだろう。
……まさか、こんな形で私に復讐を果たしに来るとはな」
「いえ、単なる偶然です。
この肉体の本来の持ち主であるシュウすら、ここがあなたの本拠地だとは知らなかった。
許してほしい」
「……そうか。すべては、消えぬ因縁が手繰り寄せた運命か」
「はい。だから組長、私が少しその男と話をつけてきます」
ジュウシロウが二人の間に割って入り、池の中から怨嗟の眼光を向けてくる不動を正面から見据えた。
「どけ、小僧。貴様がどれほど強かろうが関係ない。
我が宿願を邪魔するならば、まずは貴様から細切れにしてくれる。
……まさか、かつての中東での恩を忘れたわけではあるまいな?」
完全に主導権を握った不動の人格が、殺意を剥き出しにして刀を構え直す。
「悪いが、あんたは今、その『シュウ』という少年の慈悲によって生かされているだけの寄生虫であることを忘れるな。
アダルトレジスタンスの設備によって、本来なら死んで当然だったあんたの未練が、こうして意識を持ち続けられているのは、シュウがお前の精神を支えてきたからだ」
「減らず口を……!!
こんな歪な機械のバックアップとして醜く生き永らえたいと、私がいつ望んだというのだ!!
邪魔立てするならジュウシロウ!!お前からだ!!
そのあとでお前をじっくり殺してやる!! ――小室真帆ぉぉぉぉぉ!!」
激昂する不動の叫びを背に受けながら、縁側に佇む小室真帆は、ただ酷く寂しそうな、哀愁に満ちた表情で、かつての友の成れの果てを静かに見つめ続けていた。
だが、それこそがジュウシロウの狙いだった。
不動の人格に乗っ取られ、怒りと怨嗟で完全に我を忘れて咆哮したその瞬間――シュウの防御の構えに、ほんのわずかな、だが致命的な隙が生まれた。
ジュウシロウの重装甲な神経外骨格が爆発的な駆動音を立てて加速する。
池の水を派手に跳ね上げ、最短の直線軌道で突進したジュウシロウは、シュウの懐へと一瞬で潜り込んだ。
そして、一切の躊躇なく、その鋭い顎の先端へとピンポイントでアッパーを叩き込む。
ゴッ、という重苦しい衝撃音。
どれほどメタトロンを同期させ、脳内に伝説の捜査官の戦闘経験を宿していようとも、冷静さを欠けば攻略できる。
脳を激しく揺さぶられたシュウの身体は、一切の防御行動をとることもできず、糸の切れた人形のように呆気なくその場に崩れ落ちた。
水飛沫の中に沈んだシュウを見下ろし、ジュウシロウは拳をゆっくりと引きながら、低く掠れた声で吐き捨てた。
「……戦場で『怒りで我を忘れるな』と中東で生き残ってきた俺たちに耳がタコになるほど叩き込んだのは、他でもない、あんただろうが。不動明」
その言葉が、眠りについた不動の人格に届いたかどうかはわからない。
ジュウシロウは気絶したシュウの身体を引き上げると、手慣れた手つきで彼の肉体に装着されていた細身の神経外骨格のロックを強制解除し、文字通り剥ぎ取って無力化させた。
「小室の組長、あるいは……怜って呼ぶぜ?
――この敷地内にこいつを一時的に隔離し、閉じ込めておけるような頑丈な場所はないか?
人格の混濁が解けるまで、物理的に拘束しておきたい」
ジュウシロウが縁側の親子に向けて問いかける。
怜は複雑な表情で視線を彷徨わせた後、観念したように口を開いた。
「……地下に、組が管理している特別な監禁部屋ならあるっす。
ただ、あそこは……かつて裏切り者や敵対組織の人間を拷問するための、血生臭い設備がそのまま残っている場所っすよ」
「構わない。こいつをそこに放り込め。――最悪、ここから追い出す」
ジュウシロウは冷徹に言い放つと、気絶して泥まみれになったシュウの身体を、まるで巨大な丸太でも運ぶかのように軽々と肩へと担ぎ上げた。
そして、怯える若い組員たちを鋭い眼光で退けながら、小室組の地下へと続く暗い階段の奥へと、重々しい足取りで歩みを進めていった。




