File:070 ペルディータ・コード1 「リョータ」
バリアの裂け目から脱出したシカリオたちは、夜の闇に紛れて『ザ・コンコルディア』の敷地を離れ、目と鼻の先にある歓楽街に繰り出していった。
そこは完全に前崎の電子バリアの適用範囲外であり、無防備な日常が広がる狩り場だった。
彼らの逃走を阻止すべく、迷彩を解いた一人のHoundが弾丸のように突っ込んでいく。
自らの肉体を肉弾としてぶつけ、最悪刺し違えてでも仕留めようという、脳をグリップされた自警団特有の捨て身の特攻。
だが、実戦経験の桁が違った。
シカリオの戦士は最小限の動きでその突進をいなし、すれ違いざまに喉笛を深く掻き切る。
一歩のステップすら乱さぬまま、Houndは血の噴水を上げて崩れ落ちた。
Houndであっても、本物の軍隊カルテルの前には児戯に等しかった。
そして、最初に本当の犠牲となったのは、事態を呑み込めずに周辺に集まってきた呑気な野次馬たちだった。
ほんの数十秒前まで、デバイスのカメラの画面越しに他人の不幸として高みの見物を決め込んでいた群衆。
だが、血飛沫を上げて倒れるHoundの姿と、異形の神経外骨格を纏った暗殺者たちの凶刃が己の目鼻の先に迫ったと理解した途端、彼らは蜘蛛の子を散らすように腰を抜かし、無様に地を這い回った。
返り血を浴びたシカリオの一人は、逃げ惑う日本の市民たちを、心の底から悍ましく、そして「馬鹿」だと思った。
「……平和ボケの豚どもめ。さぞ恵まれた人生だったんだろうな」
スペイン語の低い呟きと共に、手近にいた若い男の髪を掴んで引きずり倒し、剥き出しになった脳幹へタクティカルナイフを迷いなく突き刺した。
だがHoundが斬りかかるもその先ほどまで生きていた人間を盾にする。
そして神経を破壊された男は、悲鳴を上げる間もなく泥人形のように物言わぬ肉塊と化す。
その男ごとHoundを心臓を貫いて。
血を抜く手慣れた動作で刃を引き抜くと、続けて隣で狂乱する女の胸へと刃を深く突き立て、無慈悲に抉っていった。
歓楽街の夜気が、凄惨な血の臭いと絶叫で瞬く間に満たされていく。
Houndも中途半端に生きている人間を盾にされ、攻めることができない。
『……総員へ告ぐ』
冷徹なノイズ混じりの音声が、彼らのインプラント通信に響いた。
リーダー、アルトゥーロ・ラスカノからの冷酷な大号令だ。
『これより我々は各個撃破を避け、個別に行動する。
組織の再起を図るため、一度その牙を社会の闇へと潜めろ。
――だが、牙をさらに鋭く研ぎ澄ますために、今この瞬間こそ、その刃が錆に成るほど振るえ』
『『『了解』』』
闇の中で十人のシカリオたちの意識が残酷に共鳴する。
前崎の秩序を嘲笑うかのように、本物の悪魔たちが東京の日常を血で染めながら、一人、また一人と深い夜の淵へと溶けるように消えていった。
深夜の一般住宅街に、引き裂くような悲鳴と重々しい靴音が響き渡る。
姿を消したシカリオたちの残響を背に受けながら、数分と置かずに現れたのは、前崎直属の増援部隊――数十名ものHoundたちだった。
「状況報告。エリア5892、敵戦力は各個に散開。
逃走経路に多数の一般市民の死傷者を確認」
「……チッ、我々がここまでの不覚を取るとはな」
部隊を率いる指揮官が、喉を掻き切られて転がる仲間の死体を見下ろし、忌々しげに吐き捨てた。
一億人の知識を統合した彼らの頭脳は、即座に次の行動を弾き出す。
だが、どれほど計算速度が速かろうとも、すでに街の闇へと溶けた「本物の軍隊」を、この広大な東京の過密地帯から一網打尽にすることは容易ではない。
「ペルディータに要請を。
それと、メディアへの情報規制を解除しろ。
総統の命令だ。この惨状を、カルテルどもの残虐性を、包み隠さず国民に叩きつけてやれ」
「了解しました」
瞬く間に、東京の凄惨な「現実」がSNSという名の巨大な電子の海へと流出し、拡散されていった。
SNSの投稿を埋め尽くすのは、歓楽街のアスファルトを赤く染める凄惨な死体の山、返り血を浴びながら冷酷に刃を振るうタトゥーの男たち、そして、倒れた味方の死体に見向きもせず、冷徹な隊列のまま機械的に敵を追い詰めていくHoundたちの狂気。
それらの映像は、前崎が構築したはずの「絶対的な安全」という神話を一瞬で打ち砕き、現行の管理システムに対する疑問と、制御不能な暴力への解き放たれた恐怖を日本中に植え付けるには十分だった。
だが、画面越しの国民を最も戦慄させたのは、カルテルの残虐行為でも、Houndの非情さでもなかった。
――前崎が歓楽街へと投入した、真の「怪物」の姿だった。
先の第二次日露戦争。
戦闘と呼ぶにはあまりにも一方的な、日本側の圧倒的科学力によるわずか一日での完全なる殲滅劇。
その戦場で初めて観測され、世界中の軍事関係者を絶望させた兵器がそこにいた。
極限までデッドウェイトを削ぎ落とされたその純白の機体は、球体関節を数珠繋ぎにしたような、生物的な異形の四肢を備えている。
装甲の各所には、不気味なほど無数のスラスター穴が空けられていた。
空気抵抗という概念すら物理的に排除したかのような、まるで異世界から舞い降りた使徒を彷彿とさせる人型自律兵器――『ペルディータ』。
その殺戮の具現者が今、ナトリウム灯に煙る東京の夜空に、重力をあざ笑うかのように静かに浮遊していた。
その異形の機械の五指は、シカリオの一人の首を容赦なく締め上げていた。
散開して歓楽街の闇へと潜伏した直後、最悪の確率を引き当てて捕捉された男だ。
「ぐっ……、あ……、ぎっ……!」
『ねえ、死ぬ前には最高の景色でしょ?』
ペルディータのスピーカーから、およそ戦場には不似合いな軽薄なノイズが響き、同時に首を絞める指に凄まじい圧力が加わった。
金属剥き出しの頭部には表情を映すセンサーすらなく、無数の不気味な穴が空いているだけ。
シカリオの戦士を以てしても、目の前の機械から一切の感情を読み取ることはできない。
だが、何よりも不気味なのは、合成されたその音声が奇妙に「幼い」ことだった。
戦場そのものを玩具にしているかのような、悍ましいまでの侮蔑。
ただそれは侮蔑ではなく本当に子どもなのが何よりの皮肉だった。
『じゃあ、お仕置きの時間だよ。
reach for the stars ~reach so high~!
(星に手を伸ばせ、もっと高くへ)』
処刑シーンに相応しい曲を口ずさみながら推進器が一瞬で爆ぜ、ペルディータは垂直に急降下した。
圧倒的な質量と推力のまま、シカリオの身体をコンクリートの地面へと文字通り叩きつける。
内臓を激しく破壊された暗殺者は、潰れたカエルのように四肢をびくびくと痙攣させ、二度と動かなくなった。
その惨劇のすぐ近くに、逃げ遅れた中年の男がいた。
恐怖のあまり完全に腰を抜かしながらも、染み付いた現代人の習性で、震える手でデバイスのレンズを怪物へと向けている。
ペルディータは音もなくその男へと近づき、レンズの目の前に顔を突き出した。
『いえーい! ピース!!』
シカリオの脳漿と血に濡れた指で、平然とピースサインを作る。
一般人の男の顔が、恐怖で引きつった。
『ねえ、そんな動画撮る余裕があるならさ、とっとと消えてくれない?
邪魔なんだけど』
「な……なんだその言い草は!!
こっちは、こっちは高い税金払ってんだぞ、この税金泥棒が!!」
『は? ……お前みたいなゴミから、一銭も貰ってねーよ』
ペルディータは、その男の頬を愛おしそうに撫でるような、あまりにも軽い動作で、その顔面を殴りつけた。
凄まじい破壊の衝撃。
男の首は、プラスチックの玩具のようにもろく、呆気なく吹き飛んで夜の闇へと転がっていった。
『……まあ、いいよね。一人くらい間引きしても』
そんなルンルンとした、弾むような声を響かせながら、ペルディータ・コード1こと「リョータ」は、さらなる獲物を探すべく、次の路地へと滑るように消えていった。
ロス・カタスの生き残りは、あと九人。




