File:066 追跡者①
「き……来た、来ちゃったわ!!」
リアウィンドウにしがみつくようにして後方を振り返ったカオリが、引きつった悲鳴を上げた。
バックミラーの遥か後方、漆黒の斜面を切り裂くようにして、禍々しい「黄色の光」が猛烈な勢いで迫ってくる。
港の工場跡地を命からがら脱出してから、およそ三十分。追手を完全に振り切ったと安堵しかけた矢先の、容赦のない現実だった。
セダンはすでに追跡の手を逃れるため、単調な国道を捨て、街灯すらまばらな険しい山道へと針路を切っていた。
「おっさん!! 運転代われ、そこをどけっ!!」
「わ、分かった、危ない……っ!!」
小室が後部座席から強引に身を乗り出し、走行中の車内で長谷部を押し退けるようにして運転席を乗っ取った。
それにより、先ほどまで車内を保っていた長谷部のゴールド免許仕込みの運転――法定速度を遵守し、乗員に無駄な揺れを感じさせない丁寧なハンドリング――は一瞬にして消え去った。
代わりに、かつて小室が夜の街で駆っていた改造バイクさながらの、路面のギャップを無視してアクセルを踏みちぎる、粗暴で暴力的なドラインビングへと切り替わる。
タイヤが悲鳴を上げ、セダンの車体が大きく傾きながらコーナーを強引に曲がっていった。
しかし、背後から迫る怪物は、その捨て身の疾走すら嘲笑った。
黄色の残光を引く銀次は、タイトなカーブを前にしても一切減速することなく、重力と遠心力の法則をねじ伏せるようにして、山道の垂直に近いコンクリート擁壁へと車輪を滑り込ませた。
壁面に斜めに張り付いたまま、火花を散らして舐めるように超高速で滑走していく。
「おいおいおい!! 早すぎるだろ、あいつ!!」
小室が狂ったようにステアリングを切りながら、脂汗を流して絶叫した。
「ヘアピンカーブを回りながら二〇〇キロ近く出てやがるぞ!!
物理法則はどうなってんだ!! 無理だ、振り切れねぇ!!」
車内を絶望とパニックが支配する中、助手席のジュウシロウだけは、微塵も動じることなく電子マップの立体透過表示を冷徹に見つめていた。
その双眸は、銀次が描く滑走の軌跡と、そのシステムの「限界」を冷酷に計算している。
「……あの足回りの構造、切削されたインラインホイール、そして背部ブースターの出力特性を見る限り、路面への完全な接地が生命線だな。
ある程度滑らかに舗装され、斜度の均一な道でなければ、あの超高速は維持できないはずだ」
「そんな悠長な分析をしてる場合かよ、兄貴!! 追いつかれたら一瞬で細切れにされるぞ! どうするんだ!?」
「まあ待て。焦るな」
ジュウシロウはナビの画面から顔を上げ、ヘッドライトが白々と照らし出す、この険しい山道の先へと鋭い視線を向けた。
「策はある」
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銀次は、新たな装備がもたらす爆発的なスピードに魂を昂ぶらせながらも、その双眸は獲物であるセダンの影を執拗に捉え続けていた。
激しいチェイスの末、ターゲットの車が滑り込んだのは、山腹を不気味に貫く薄暗いトンネルだった。
「……逃がさん!」
さらに出力を上げる。
インラインホイールのスティール音が激しい金属悲鳴となり、夜の山林に狂ったように木霊した。
銀次は道路を律儀に追うのをやめ、直線距離で先回りすべく、ガードレールを跳び越えて未舗装の斜面へと突っ込んだ。
ジュウシロウは、あの車輪付きの装備がある程度舗装された道でなければ機能しないと踏んでいたが、それは甘い見積もりだった。
行く手を阻む立ち木は高周波ブレードの一太刀で微塵に叩き斬り、足元のデコボコな悪路は背部のブースターを噴射して強引に跳び越えればいい。
斜面を垂直に駆け上がり、月光を背に受けて夜空へ大きく舞い上がる。
さながらスーパージャンプを決めるように、銀次はトンネルの先――出口側へと完璧な先回りを果たした。
「追いついたぞ!」
凄まじい風圧と共に出口に降り立ち、行く手を阻む。
だが、ヘッドライトの光に照らされたセダンのフロントガラスの向こうに、ジュウシロウやカオリの姿はなかった。
見逃したわけではない。
この一本道の山道で、彼らが自分とすれ違うことなく消え去るなど不可能なはずだ。
怪訝に思った銀次は、駆動音を響かせながら、じりじりとトンネルの内部へと逆行していった。
そこで彼が目にしたのは、ひどく場違いな、呆然と立ち尽くす一般人の男の姿だった。
そしてその傍らには、先ほどまで追っていたはずの、泥に塗れたあのセダンがライトを点けたまま乗り捨てられていた。
銀次は不審を抱き、鋭い足音を響かせて男に近づく。
「……何かあったのか」
「えっ……!? うわ、なに、コスプレイヤーの方ですか? クオリティ凄っ……」
男が能天気にスマートフォンを取り出し、レンズを向けようとする。
銀次は容赦なくその手首を掴んで捻り上げ、懐から引き抜いたブレードの刃を、男の剥き出しの首元へと突きつけた。
「急いでいる。何があったかを聞きたい」
高周波ブレードの周波数を限界まで引き上げる。
キィィンという鼓膜を刺す金属音が、狭いトンネルの壁面に反響し、まるでチェーンソーさながらの狂暴な駆動音となって死の気配を膨らませた。
「わ……分かった! 命だけは助けてくれ! 脅されたんだよ、いきなり大男に凄まれて、俺の車を盗まれたんだ!」
「……! 車はどっちの方向に逃げた!?」
「あんたが走ってきたのとは反対側だよ! トンネルの入り口の方へ引き返していったんだ!」
「ぐっ……!! 狡猾な野郎め……!」
ジュウシロウの「策」の正体――トンネル内ですれ違った一般人の車を強奪し、銀次が追ってくる方向へ堂々と逆走して逃げるという、裏をかく戦術――を悟り、銀次は激しい屈辱感に歯噛みした。
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トンネルの闇を切り裂き、来た道を激しく逆走する車――それは、力ずくで奪い取ったばかりの赤いカローラだった。
車内にはまだ元の持ち主が使っていた安っぽい芳香剤の匂いが残っていたが、そんな生活感に浸る猶予など一瞬すらない。
小室は乱暴にギアを叩き込み、エンジンを限界まで鳴り響かせた。
「よし。何とか最悪の局面は越えたな」
助手席のジュウシロウが、バックミラーに映るトンネルの出口を凝視しながら低く呟いた。
「だけど、あんな子供騙しのトリックなんてすぐにバレるわ!
追いつかれるのは時間の問題よ!!」
後部座席のカオリが、シートの背もたれを強く掴みながら悲鳴混じりの声を上げる。
銀次が放っていたあの禍々しい黄色の光と、物理法則を無視した擁壁走りの残像が、彼女の脳裏に恐怖として焼き付いて離れないのだ。
「大丈夫だ。このまま最寄りのインターチェンジへ向かい、高速道路に乗る」
ジュウシロウの予期せぬ一言に、後部座席の長谷部が青ざめた顔で身を乗り出した。
「……!? ジュウシロウさん、山道の奥へ身を潜めるのではなく、高速へ向かうというのですか!!」
「無理だ。あのサイボーグの機動力を見たろう。
高低差のある山道では、遮る木々を叩き斬り、斜面を跳んで直線的に先回りされる。
起伏の激しい場所ほど、奴の強化された脚力の独壇場だ。
ならば、障害物のない平坦な高速道路に出て、時速二百キロ以上の最高速度を維持して純粋な距離を引き離した方が、まだ千切れぬ可能性はある」
ジュウシロウの合理的、かつ豪胆な賭けに、小室は一瞬息を呑んだ。
だが、すぐにその瞳に元走り屋としての狂気じみた光が灯る。
「へっ……言う通りだ。直線のスピード勝負なら、俺の得意分野だ。
おっさんのゴールド免許じゃ、こんなカローラの限界は引き出せねぇからな!」
小室はカローラの細いステアリングをこれ以上ないほど強く握り直した。
ガソリンスタンドで長谷部に怒鳴られて縮こまっていた男の顔は、そこにはもうなかった。
「で、逃げ切った後の目的地は、当初のままでいいんすね、兄貴」
「あぁ」
ジュウシロウは深くシートに背を預け、ヘッドライトが照らし出す前方の暗闇を鋭く見据えた。
「お前の実家だ」




