File:061 逃避行
深夜の道を疾走するセダンの車内には、およそ逃走中とは思えない奇妙な熱気が充満していた。
明るさは然程なく、先ほどコンビニが一軒あった程度だ。
ダッシュボードの上には、無造作に放り出された唐揚げのパック、封を切られたスナック菓子、そしてこのキャッシュレス化が進んだ2059年の日本では珍しい、生々しい厚みの現金の束が転がっている。
カオリは、強盗という行為の背徳感を噛み締めるように、ツナマヨのおにぎりを一口頬張った。
米の甘みとマヨネーズのジャンクな風味が、飢えた身体に染み渡っていく。
「……意外と楽しいものね。コンビニで強盗なんて」
厚生労働施設の食べ物なんてたかが知れていた。
そのせいもありさらに美味しく感じる。
カオリが指先に付いた塩をペロリと舐めて微笑むと、ハンドルを握る小室が、破顔してバックミラー越しに声を張り上げた。
「おっ! 姉御、分かってくれますか!
あのレジ前の、時が止まったような店員のツラ……最高のスリルだったでしょ!!
これが本物のグランドセフトオートだぜぃ!!」
小室は、自らが認めた「強者の女」である彼女が犯罪の悦びに目覚めたことを、まるで自分の手柄のように喜んでいた。
しかし、助手席に鎮座するジュウシロウは、そんな浮ついた空気に一切の同調を示さない。
「……そんなものにハマってくれるなよ、カオリ。
腹が膨れればそれでいい」
低く、突き放すような声。
地獄のような施設を潜り抜け、死地を幾度も乗り越えてきたジュウシロウにとって、法を犯すことに特別な感情など抱くべくもなかった。
その動じない横顔を、後部座席の長谷部は不思議な畏怖を込めて見つめていた。
やはり、彼女とは特別と関係のようだ。
だが、そんな奇妙な「強盗団」の狂騒の影で、長谷部だけは別の熱に浮かされていた。
彼は、コンビニから調達したばかりの安物のノートとペンを取り出し、膝の上で一心不乱に筆を走らせていた。
本来なら、良識ある大人として強盗に加担した自分を呪うべきかもしれない。
しかし、極限状態に置かれた彼の脳は、それ以上に、この歴史的な逃走劇を、ジュウシロウという怪物の足跡を、一文字たりとも漏らさず記録せねばならないという義務感に支配されていた。
吐き気で青白かった顔はどこへやら、今や長谷部は狂気的なまでの集中力で、暗い車内でペンを踊らせている。
窓の外を流れる街灯の光が、ノートに刻まれる歪な文字を断続的に照らし出していた。
深夜の国道を駆ける車内。
ジャンクフードの匂いが立ち込めるなか、長谷部だけが何も口にせず、ひたすらペンを走らせていた。
「みっくん、そろそろ食べないの? からあげ、冷めちゃうわよ」
カオリが心配そうに覗き込むが、長谷部は視線をノートから外さない。
「いえ……。これだけは、今書いておかないと。
記憶というものは本当に儚くてですね……。
忘れそうになるんですよ……歳をとるとこれだから困ります」
「……日記か?」
ジュウシロウが助手席から低く問う。
「ハッ、ジジくせぇ趣味だなぁ、おっさん。
AIで録音して入力すりゃいいだろ」
ハンドルを握る小室が茶化すが、長谷部は怒るふうもなく、穏やかな笑みを返した。
「いえいえ。
デジタルよりも、今はこういうノートの方が『証拠』としての力を持つんですよ。
筆跡、筆圧、インクの滲み……それらが私の生きた証になる。
デジタルは便利ですが、上書きも偽造も容易でしょう?」
「証拠って……誰に見せるつもりだ?」
「習慣のようなものです。
前崎政権下の施設で、私たちがどんな扱いを受けてきたのか。
いつか、この狂った時代が裁かれる時、これが役に立つと信じて書いていたのですが……。
あの騒動でこれまで書いていたノートを失くしてしまいましてね。
今は記憶を掘り起こして復元しているところです」
「……証拠、か」
ジュウシロウが呟く。その言葉の重みに、車内の空気がわずかに引き締まった。
「おい、おっさん! 書くなら俺のことも最高にかっこよく書けよな!!」
小室が空気を変えるように割って入った。
「あの副総統の一ノ瀬って野郎、マジで最悪なんだぜ?
俺を尋問したとき、液体窒素を持ってきやがってさ。
俺の片腕を凍らせて、ハンマーで叩き割ろうとしたんだ。
サイコパスだろ、あいつ!」
ジュウシロウの眉がピクリと動いた。
「……お前、一ノ瀬を知っているのか?」
「え? ああ、あいつに捕まったんだよ。沖縄でな」
「……どういうことだ。お前、あの場所にいたのか?」
「ああ、そうだよ。
ロシアンマフィアとメキシコのカルテルを手引きした容疑だってさ。
俺はただの運び屋の元締めだったんだが、連中にしてみりゃ格好の生贄だったわけだ。
くっそ!!恩を忘れやがってよぉぉぉ!!」
「……お前の組織だったのか。
なんというか、偶然を通り越して因縁じみているな」
ジュウシロウは、点と線が繋がっていく感覚に、皮肉な笑みを漏らした。
「そういや、ジュウシロウさんもあの格闘大会に出てましたよね。
スクリーン越しでしたけど観ましたよ、圧倒的だったじゃないですか。
あの力があれば、一ノ瀬なんて一捻りだ」
「……。……まあな」
「大会? 何の話? ジュウシロウ」
カオリが身を乗り出す。
施設に隔離されていた彼女にとって、外の世界の「ジュウシロウ」は未知の存在だ。
「ああ、順を追って説明するとだな……」
ジュウシロウが重い口を開こうとした、その時だった。
「あー、割り込んですんません。
俺が話を出したのに申し訳ないんすけど……」
小室が困り果てた顔で燃料計を指差した。
「ガソリンが、もう限界っす。
結構飛ばしたんで。
このままだと歩いて移動しなきゃいけない羽目になるっす。
どこか、心当たりないっすか?」
静寂が支配する車内に、警告灯の虚しい電子音が規則正しく響く。
カオリはカーナビと連動したタブレットを素早く操作し、暗い画面に浮かぶ地図を指でなぞった。
「五百メートル先にガソリンスタンドがあるわ。
営業時間はとっくに過ぎているけれど、セルフ式の什器は生きているみたい」
フロントガラスの向こう、夜の闇に溶けかけるようにして、ガソリンスタンドの無機質なシルエットが姿を現した。
街灯もまばらなその場所は、まるで世界の終わりに置き去りにされた廃墟のような佇まいだった。
「……給油は私がやりましょう」
長谷部が静かに、だが確かな口調で名乗り出た。
「助かる。こういう時の判断や作法は、やはり年長者に頼るのが一番だ」
助手席からかけられたジュウシロウの言葉に、長谷部は年甲斐もなく胸が熱くなるのを感じた。
過酷な施設での日々や、家族との訣別に翻弄されるなかで、初めて自分の「積み重ねてきた当たり前の経験」が肯定されたような気がしたのだ。
車を停め、三人は外の冷気に身を晒した。
本来、夜間のセルフ給油には従業員による遠隔監視が必要だが、この非常事態にそんな法規を待つ余裕はない。
小室が裏口の制御盤をいじり、ロックがかかっている給油ノズルのホルダーをジュウシロウが指先一本で強引に引き剥がした。
「いやぁ、いい仕事したっすね。さすが兄貴、パワーが違うぜ。
小室が満足げに頷き、一息つこうとポケットからタバコを取り出した。
久々の一服。
ライターの火を近づけようとした、その瞬間。
「小室君ッッッ!!!」
長谷部が、これまでの人生で出したこともないような怒号を張り上げた。
その声量は、深夜のスタンドの静寂を木霊し、小室の手を凍りつかせた。
「ガソリンスタンドで火を扱うな!
何を考えているんだ!
蒸発したガソリンに引火したら、私たち全員、跡形もなく吹き飛ぶんだぞ!!」
「わ……悪かったよ! 分かった、分かったからそんな怒るなよ……!」
小室は長谷部の剣幕に完全に気圧され、タバコをポケットに押し込むと、十メートル以上離れた場所まで退散してようやく火を消した。
その様子を少し離れた場所で見ていたカオリが、ジュウシロウにそっと囁いた。
「ねぇ、ジュウシロウ……私、初めて知ったわ。
ガソリンスタンドでタバコを吸っちゃいけないなんて」
「……奇遇だ。俺も、今知った」
「私たち、戦い方は知っていても、世の中のことはまだ子どもなのね」
「……。長谷部さんがいてくれて、正解だったのかもしれないな」
「ええ、本当にね!」
カオリはいたずらっぽく微笑んだ。
ジュウシロウは、彼女が年上の長谷部に向ける信頼の眼差しに、ほんの少しだけ割り切れない感情を覚えたが、それを表に出すことはなかった。
「給油、完了しました。……長谷部、そろそろ出発しましょうか」
「そうですね。ですがジュウシロウさん、あなた方も限界でしょう。そろそろ、人目を避けて休める場所が必要です」
「確かにそうだが、追っ手がいつ現れるか分からん」
「それなら、私に運転を代わらせてください。もうすぐ夜が明けます。
市役所勤めとはいえ、長時間運転することはありましたから。
皆さんは、今のうちに少しでも目を閉じていてください」
「いいのか? ……恩に着る」
「ハハッ! おっさん、体力すげぇな。やっぱりあそこの労働施設で鍛えられたおかげか?」
小室が助手席に転がり込みながら茶化す。
「どうでしょうね。
ただ、誰かのために走るというのは、期限が決められている仕事よりもずっと気合が入るものですよ」
長谷部は穏やかに笑い、運転席のシートを調整した。夜明け前の薄明かりが差し込み始めた国道を、セダンは滑るように走り出した。
それを遠くから眺める影があった。
「あれは小室怜?なぜあいつが……?」
銀次が双眼鏡越しに見ていた。




