File:055 願いを叶える
「どう? ……こんな狂った世界が、許されていいわけないでしょう?」
カオリの震える声が、アクリル板を越えてジュウシロウの鼓膜を打つ。
「……そうだな。到底、正気の沙汰じゃない」
ジュウシロウは深く顔を伏せ、絞り出すように同意した。
「だから、私も足掻いたの。……前崎に「SGに忘れ物がある」と取り入って、かつての拠点に同行させてもらった。
そこで、あの呪われた施設を完全にシステムごと破壊する算段だった。
……エルマーをナイフで脅してね」
「ああ……そういうことか」
点と点が繋がる。エルマーがカオリを前崎を裏切ったと話し、ユーリたちがエルマーを「裏切者」憎悪していた理由。
それぞれの正義が、あの地獄の中で決定的にすれ違っていたのだ。
「だけど、前崎の目を欺くために、何人かの子たちに囮になってもらった。
私の狙いがバレた瞬間……その子たちは、Houndにあっけなく制圧された。
殺された子もいるわ。
私のせいでね。今でも、夢に見るわ」
自嘲するカオリの瞳には、乾ききった罪悪感が張り付いていた。
「……じゃあ、なぜお前だけが生かされている? 重罪だろう」
「マスミよ」
「……マスミが?」
「あの時、マスミがなりふり構わず泣き叫んで、前崎の足にすがりついたの。
「お願いだから、カオリだけは殺さないで」って。
……彼女が、自分の全てを売り渡してくれたおかげよ」
「そのマスミは、今どこに……?」
「大学生をやってるわ。前崎の庇護下でね。
……『二度とアダルトレジスタンスに所属しない』という、契約と引き換えに」
「……そうだったのか」
ジュウシロウは短く息を吐いた。あの首相の娘が、そこまでして自分たちの仲間を救おうとしてくれていたとは。
「……会いたいの?」
カオリが、探るように目を細める。
「いや。……ただ、礼くらいは言いたいと思っただけだ」
「……そう」
カオリの表情が、一瞬だけ安堵に緩んだように見えた。だが、すぐに元の鋭い光を取り戻す。
「ねえ、ジュウシロウ。あんたは結局、前崎に付くの? あの異常な国造りに加担する気?」
「……分からないと答えさせてもらう」
「どういう意味?」
ジュウシロウは自身の巨大な両手をじっと見つめた。
「アレイスターの野郎が、俺やシュウの肉体を勝手に弄り回していたんだ。
……「超人計画」とやらでな。
どうやら癌が発生しているらしい。
その結果が、この規格外の体だ。
ろくなメンテナンスも受けていない。
俺の命はどうでもいいが、シュウをそのままにしておけない。」
「……なるほどね。あんたは、今の仲間を守らなきゃいけない。じゃあ、仕方ないわね」
カオリの瞳から、完全に温度が消え去った。
「私一人でも、前崎に反抗する」
「カオリッ!! お前、無茶を言うな!」
「無茶じゃない、もう止められないのよ! この狂った流れは!!」
カオリはアクリル板にすがりつき、泣き叫ぶように絶叫した。
「もう嫌なの……! 仮想の快楽に喜んで溺れていく人々も、それを演算資源として消費されるのも!!
狂気に満ちた、綺麗で醜いこの国が!!
……どこまで経済が豊かになったって、人間の尊厳がこんな風に消費されるなら、全部おしまいよ!!」
「……」
ジュウシロウは何も言えなかった。彼女の魂の叫びは、圧倒的な正論だった。
そして、その悲痛な声が、ジュウシロウの中で燻っていた「何か」を完全に決壊させた。
「……分かった。分かったよ、カオリ」
ジュウシロウは静かに顔を上げた。
そして、背後に立つ一ノ瀬に一切の殺気を悟らせぬまま、腰の「神経外骨格」のジェネレーターに限界突破の負荷をかける。
「――一緒にお前の望みを叶えてやる」
振り返りざま、ジュウシロウの太い腕が空気を引き裂いた。
放たれた裏拳。圧縮された運動エネルギーの塊が、一ノ瀬の顔面を無慈悲に捉える。
「がはっ……!!!」
防ぐ間もなく、副総統の身体が紙屑のように後方へと吹き飛び、壁に激突して崩れ落ちた。
「おい貴様!! 何をしている!!」
カオリの監視に付いていた向かい側のHoundたちが、即座にアサルトライフルを構える。
だが、ジュウシロウの動きは彼らの反射速度を遥かに凌駕していた。
「邪魔だ!!」
ジュウシロウは前方に踏み込み、分厚い強化アクリルガラスに向かってフルパワーの正拳突きを叩き込んだ。
爆音。
防弾仕様のアクリル板が粉々に砕け散り、その衝撃波はガラスのみならず、背後にいたHoundたちの肉体をも壁ごとミンチに変えた。
もうもうと立ち込める粉塵の中、ジュウシロウは瓦礫を掻き分け、唖然とするカオリの手を強引に掴み取る。
「逃げるぞ!!」
「いいの……? 本当に、これで……!」
「――惚れた女の願いくらい、命張って叶えてやるさ」
ジュウシロウが不敵に笑ったその瞬間、警報サイレンが施設の静寂を切り裂いた。
鉄壁を誇る「国立更生労働施設」が、たった一人の男の暴走によって、今、未曾有の大混乱へと叩き落とされた。
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ジュウシロウの行動は、あまりに短絡的で原始的だった。
それゆえに絶対的だった。
カオリを背負ったまま、彼は施設の深部から出口へと向かって最短距離を突き進む。
立ち塞がるHoundたちは、彼が放つ拳のエネルギー波によって肉体を分子レベルで粉砕され、あるいは強固な装甲ごと壁に埋め込まれていった。
「どけ……邪魔だッ!!」
怒号と共に振るわれた一撃が、通路を封鎖していた自動防衛ターレットを土台ごと吹き飛ばす。
その衝撃の余波で、通路の両脇に並ぶ独房の電子ロックが次々とショートし、強制労働という名の鎖に繋がれていた囚人たちが、困惑と共に解放されていった。
施設全体を揺るがす地鳴りは、もはや警報などという生易しいものではなく、抗いようのない「自然災害」の接近を告げていた。
独房の中で、長谷部はいつものように日記を綴っていた。
ペンを走らせることでしか、この削り取られていく日常に抗う術がなかったからだ。
しかし、不意に耳を打ったのは、聞き慣れた警報音を掻き消すほどの絶叫と、金属が拉げる不気味な音だった。
「なんだ……? 何が起きている」
音は悲鳴を伴って、急速にこちらへ近づいてくる。
そして次の瞬間、長谷部の世界は白い粉塵と爆風に包まれた。
数センチ厚の強化コンクリートの壁が、巨大な鉄球に打たれたかのように内側へ向かって弾け飛ぶ。
爆圧によって日記帳は宙を舞い、書き溜めた文字が虚空に散った。
だが、咳き込みながら顔を上げた長谷部の視線は、粉塵の向こう側に立つ「彼女」の姿を、決して逃さなかった。
「カオリさんッ……!?」
裏返った声で、この暗闇の独房における唯一の希望――女神の名を呼ぶ。
その声に、猛進していた戦車の如き大男の動きが、ぴたりと止まった。
「あ、みっくん!!」
背負われたカオリが、顔を輝かせて声を上げる。
「みっくん」と呼ばれたのは初めてだったが、それが自分を指していることは直感で分かった。
悪い気はしなかった。
どころか、魂が震えるほどの歓喜が脳を焼いた。
だが、彼女を背負う男の視線が向けられた瞬間、長谷部は心臓が凍りつくような殺気を感じた。
男は明らかに、不機嫌を隠そうともしていなかった。
「……知り合いか?」
地を這うようなジュウシロウの問いに、カオリは屈託のない、それでいてどこか誇らしげな笑みを浮かべる。
「うん、独房で知り合っただけだけど、凄くいい人なの」
カオリが見せたその無防備な笑顔は、長谷部に対して一度も向けられたことのないものだった。
その事実に胸を締め付けられながらも、カオリは矢継ぎ早に問いかける。
「ねえ、みっくん。車、運転できる?」
「え、あ、はい……。ずっとゴールド免許ですけど……?」
「決まりね! みっくん、付いてきて!!
ここから、この地獄から出るわよ!!」
その言葉は、長谷部の停滞していた血を一気に沸騰させた。
ここから出られる。
その言葉が真実かどうかなんて、どうでもよかった。
カオリの瞳に宿る確かな光を信じ、長谷部は何かに取り憑かれたように、あれほど大事にしていた日記を顧みることなくその場を後にした。




