File:054 経験機械
前崎は、アレイスターとは異なり、直接その手をこちらへ伸ばしてくることはなかった。
だが、彼が従える『Hound』という兵士たちの物量は、自分たちの戦力とは比べ物にならないほどに絶望的だった。
そしてカオリたちはまた新たな場所で、管理科の監視下に置かれることになった。
作られた施設の名前は『アンカー・ハウス』。
文字通り、自分たちをこの地に繋ぎ止め、二度と浮上させないための重りとして。
だが、エルマーだけは違った。
彼は前崎と共に、かつての我々の聖域、SGへと戻っていったのだ。
そこで彼一人だけが、特権的な扱いを受けていた。
それがカオリがことのまとめだった。
「……だからユーリは、あいつのことを『裏切り者』と呼んでいたのか」
ジュウシロウが、重い得心のいった表情で呟く。
「まあ、それだけじゃないけどね」
カオリの表情に、昏い影が落ちる。
「ある時、戻ってきたエルマーに聞いたの。向こうで何をしていたのかって。
そしたら、あいつは事も無げにこう言ったわ」
――『バックアップを取った人間の、兵器転用に関する協力をしろ』って言われたんだ。
「……バックアップを取った人間の、兵器転用?」
ジュウシロウが言葉を繰り返す。その響きの不気味さに、背筋に冷たいものが走った。
「ええ。私も実物は見ていないけれど、前崎はロシアと戦ったんでしょ?
その時に、新型の人型兵器を投入したはずよ。
あんたは覚えているでしょ?」
カオリの鋭い視線が一ノ瀬に向けられる。
「……球体関節を数珠繋ぎにしたような異形の腕に顔には無数の空洞が穿たれた兵器だな?
確か、開発コードは『ペルディータ』だったか」
一ノ瀬の声に感情はなかった。
「そう。その中身、つまり中枢ユニットは、アダルトレジスタンスの殺されたメンバーたちだったのよ。
肉体的なバックアップが取れず、意識のデータだけが残った……ね?」
一ノ瀬は微動だにしなかった。沈黙が肯定を意味している。
「……知っていたのね」
「初運用の時に報告を受けた。
だが、前崎さんは『肉体の再生技術が完成すれば、彼らを元の姿に戻す』と言っていた。
だから、それは一時的な措置であり、問題はないと判断した」
「問題大ありよ!」
カオリが激昂し、アクリル板を叩く。
「簡単に言えば、死者を弄んで兵器を作っていたことが証明されたの。
ここに来てから、日本の現状は粗方聞いたわ。
日本人ではない移民や浮浪者を、片っ端から拉致しているそうじゃない。
その意味がわかる?」
「……彼らも殺して、兵器の頭にしたというのか?」
「おそらくね。ただ、肉体そのものは生かされていると思う。
意識だけを、別の場所に『移されて』いるのよ」
「兵器の演算ユニットとしてか?」
「いいえ、それだけじゃないわ。
Houndというクローン人間たちも、そのシステムの一部。
彼ら自身の体に、最初から自我なんてものは存在しない。
肉体を作って後から人間をインストールすることだってできる」
「それはつまり……」
「前崎の少子化対策はバラバラのクローンの人間に個別にそれぞれ人格をコピーして無理矢理解決するというやり方なのよ」
ジュウシロウは唸るように息を吐き出した。
一ノ瀬も口を閉ざしたままだった。
「なるほどな……だが、お前はそれで前崎に反旗を翻したのか?」
「いいえ。それもあるけど私がどうしても許せなかったのは、マスミから聞いたことよ」
「マスミ……?」
久しぶりに聞く名前だった。
森田首相の娘でありながら、皮肉にもアダルトレジスタンスに身を寄せ、最後はカオリと行動を共にしていた少女。
「マスミは前崎のことが好きだった。
実の父親を殺した男だというのに、彼女はあいつに救いを見出していたのよ」
「……ああ、覚えてる。妙に懐いていたな」
「ねえ、Houndに報酬が存在しない理由を知っている?」
「……報酬がない? 給料が支払われていないということか」
「そう。金も、名誉も、彼らには与えられない。
その代わりに、彼らが何を得ていると思う?」
「……美味い飯か? いや、睡眠とか?」
「全然違うわ。ねえ、そこの副総統。
あなたなら心当たりがあるんじゃない?」
再び、カオリの目が一ノ瀬を射抜く。
予想はしていたが前崎には最後まで聞けなかった。
人間の3大欲求以外でなると……。
「多幸感の付与か?……だったら麻薬とかになると思うが……」
「惜しいわね」
「ま、麻薬だと!?」
ジュウシロウが驚愕の声を上げる。
「もっと質が悪いわよ。
一言で言えば、独立したインターネット上の『仮想空間』よ。
Houndたちの肉体的な脳は、常にその空間に接続されている状態なの」
「植物人間というわけか!? なんて非人道的な……!」
「いいえ、最悪なのは、そこにいる誰一人として、そこから抜け出す気がないことよ」
「なんだって!?」
「自分にとって最も居心地が良く、全ての欲望が満たされる夢を、死ぬまで見続けられる世界。
それが、家畜であるHoundに与えられた唯一の報酬。
彼らはその『夢の維持費』のために、現実の体を提供して働いているの。
それもタダに近い金額で。
唯一の例外は電気料金ぐらいなものよ」
「……そんなことが」
「しかも、彼らの知識や経験はネットワークを通じてリアルタイムで共有される。
だからこそ、並の人間よりも遥かに効率的に、冷徹に仕事をこなすわ。
知識の同期ができるからね。
……彼らはね、その偽物の天国に入り浸るためだけに、生かされているのよ」
「だが、そんな歪な状態で、正気でいられるのか? その、Houndとして現実で戻った世界で」
ジュウシロウの問いは、生理的な嫌悪感に裏打ちされていた。
しかし、カオリはアクリル板越しに冷徹な事実を突きつける。
「ジュウシロウ。脳が知覚する時間と、物理的な時間は等価じゃない。
死の間際に見る走馬灯と同じよ。
脳内の時間は、外部からの干渉で限りなく引き延ばせる。
外部のバックアップを含めるとその比率は、安定した状態で300対1ほど」
「300対1……?」
「そう。彼らが仮想空間の『夢』に300日間浸っている間、現実で身体を動かして働くのは、わずか1日だけ。
しかもその労働の記憶は、ログインの瞬間に心地よい疲れとして書き換えられる。
彼らにとって、現実はたまに訪れるメンテナンス期間で働いているに過ぎないのよ」
「……そんなことが」
「どう思う? 私はこれを聞いた時、吐き気がしたわ。
人間をただの演算資源として飼い慣らし、偽物の幸福で口封じをする。
そんなこと、絶対に許されるはずがない。
だから彼らはHoundと呼ばれているの」
カオリの声は震えていた。
その傍らで、一ノ瀬は彼女の話を聞きながら、ある思考実験を想起していた。
一ノ瀬の脳裏を過ったのは、かつて大学で繙いた哲学書に記されていた、ある不気味な思考実験の光景だった。
アメリカの哲学者ロバート・ノージックが、倫理の深淵を覗き込むようにして突きつけた問い。
それは『経験機械』と呼ばれ、人類がいつか到達するであろう、美しくも無機質な終着点を予言していた。
その機械は、接続された者の意識を、現実よりも鮮やかに精製された虚構の海へと沈める。
脳へ直接送り込まれる神経パルスは、あらゆる苦悩や退屈を完璧に濾過し、純粋な達成感と法悦だけを神経細胞に焼き付けていく。
そこでは、あなたが望むすべてが指先一つで現実となり、愛する者からは永遠に裏切られず、挫折さえもが後の成功を輝かせるための心憎いスパイスとして、緻密に計算され尽くしている。誰でも何一つ欠けることのない、黄金色に輝く無垢な人生を歩むことができるのだ。
具体的に説明するのであれば、ハーレムを作り妻が100人いようと一切の不和が起きない日常、自分だけが世界で最も強い異世界、自分がスポーツ選手として大成する世界、犯罪をしても自分だけが許される世界、最愛の人間がまだ生きている世界。
そんな人生を好きな数、好きなだけ、死ぬまで歩むことができる。
だが、その「天国」への入場チケットには、あまりに重い代償が書き添えられている。
一度プラグを差し込み、意識を仮想の深淵へと投げ出したなら、もう二度と、自分の意志でその装置を剥ぎ取ることは叶わない。
現実の世界に残されるのは、生命維持装置に繋がれ、ただ生かされているだけの「肉の塊」だ。
数週間に一度の定期的な洗浄と栄養補給、そして機械のメンテナンスを受ける間だけ、あなたは辛うじて現世に繋ぎ止められる。
だが、シミュレーションの中であなたが英雄として喝采を浴び、愛を語っているその時も、あなたの肉体は暗い部屋のタンクの中で、誰に看取られることもなくただ泥のように浮き続けているのだ。
ノージックは、逃げ場のない静寂の中で、読者にこう問いかけた。
「あなたは、残りの人生をこの機械に繋がれて過ごすことを選びますか?」
かつて、多くの哲学者や学生たちは「No」と答えた。
人は「ただ幸福を感じること」よりも、「実際に何かを成し遂げること」や「現実の他者と触れ合うこと」に価値を置くと信じられていたからだ。
だが、前崎総統が実現してしまった世界では、その前提が崩れ去っている。
明日の食事も、帰る場所も、自分を認めてくれる他者もいない社会的弱者たち。
彼らにとって、現実は「成し遂げる場所」ではなく、ただ「耐え忍ぶ場所」でしかなかった。
それは昨今のライトノベルやゲームの趣味趣向を見れば一瞬にして理解できる。
人間の価値観が変わったのだ。
そんな彼らに「300日の楽園」という餌を投げれば、答えは必然的に、圧倒的な「YES」に染まる。
「……とんでもない時代になったな」
一ノ瀬は独りごちた。
かつての哲学者が危惧した「機械への接続」は、今や強制ではなく、救済という名の甘い罠としてこの国を侵食している。
「それだけじゃないわ。
あいつは、ネットワークに繋がれた数千、数万という人間たちの脳を『並列プロセッサ』として利用し、そこから抽出された膨大な知性を結晶化させて、独自のAIを創り上げたの。
……数千人分のニューロンが同期し、一つの巨大な思考を紡ぎ出す。
もはや、あの男が手にした『神の如き知能』に太刀打ちできる人間なんて、この世界にはどこにも存在しない。
ねえ、答えてよ。
こんな、命の尊厳を根底から踏みにじるような行いが、本当に許されることだと思う?」
絶句という言葉すら、その時の重苦しい静寂の前にはあまりに無力だった。
前崎英二はかつて、冷徹なまでの確信を持って宣言した。
この日本を再生させ、世界の頂点へと再び君臨させると。
その誓いは、大衆を扇動するための安っぽい嘘などではなかった。
それは、あまたの同胞の魂を「演算資源」として捧げ、禁忌の炎で精錬された、狂気じみた策略だった。




