File:042 符宵
「崩ッ!!」
鋭い叫びとともに、符宵が短い踏み込みから掌を突き出した。
もう一方の手には、朱色の墨で不気味な紋様が書かれた古びた呪符(お札)が握られている。
(あのお札、ただの飾りじゃないな。
……動きは素人同然、威力だけに全てを振ったような大振りな突き。
だが、この隙の多さは明らかにカウンターを誘っている)
ソウは冷静だった。
天才ピアニストとして、そして修羅場を潜り抜けたテロリストとして、彼は肉体の「音」を聴く。
「どうしたんすか! どうしたんすか! 来ないんすか!?
ボサッとして何しに来たんすか!?
天才ピアニスト殿ォ!!」
符宵はいら立った子供のように地団駄を踏み、挑発を繰り返す。
その足元で弾けるコンクリートの音が、彼女の脚力が既に生物の域を超えていることを告げていた。
だが、ソウは動かない。
彼は今、聴覚の感度を脳内で極限まで拡張し、相手の呼吸を解析していたのだ。
そこで、旋律の欠落した譜面を見るような、致命的な違和感に突き当たる。
心音の欠落
「……君、心臓は?」
「あ? どういうことっすかっ?」
「君の胸から、鼓動の音が聞こえない。
……呼吸の音も、血液が流れる摩擦音もだ。
君は一体、どうやってその肉体を維持しているんだ?」
符宵は一瞬だけ目を丸くすると、心底面倒くさそうに、大きく溜息を吐いた。
「なんだ、そんなことっすか。
……いいっすよ、見せてやるっす。ホイッ!」
符宵は、着ていた漢服の合わせを無造作に解き、脱ぎ捨てた。
白日の下に晒された、一糸纏わぬその肢体。
ソウは戦士として、また一人の男として、女性の裸体を見ることには慣れている。
だが、眼前の光景に対して「興奮」や「羞恥」が入り込む余地はなかった。
そこに刻まれていたのは、あまりに残酷なものだったからだ。
「……何だ、その体は……?」
彼女の体中には、継ぎ接ぎのような醜い縫い目が走り、その隙間からは人工的なプラグや、生身の肉体とは明らかに異なる合成繊維の「異物」が覗いていた。
それは、一人の少女を無理やり「化け物」へと造り替えた、狂気の実験の痕跡そのものだった。
「アイヤー。そこは女の子の裸を見て、素直に喜ぶべきっすよ」
「……喜ぶ? 君の人生をその体から想像して、悲しくなっただけだよ」
「そうっすか? それなら、あんたは符宵の人生を何一つ分かってないっすね。
……符宵は、今が一番幸せっすよ。
だって、気に入らねぇ奴を、遠慮なくぶっ殺せるっすからね!!
符宵が全裸のまま、再び踏み込む。
今度は直接的な打撃ではない。
空気を掌で叩き、特定の周波数を叩きつけるような変則的な「発勁」だ。
――ビリビリビリッ!!
「!? 体が……」
ソウが回避行動に移ろうとした瞬間、全身の神経を未知の痺れが駆け抜けた。
発勁による振動が、神経外骨格の制御信号と共鳴し、一時的なオーバーロードを引き起こしている。
(物理的な衝撃じゃない……高周波による神経外骨格のエラーか!)
完全な神経外骨格へのメタ。
一瞬の硬直。
符宵はその千載一遇の隙を見逃さず、獲物を屠る獣の速度でソウの懐へと肉薄する。
だが、その時だった。
死闘の熱気が冷めやらぬ観客席の一角で、その「影」は突如として受肉した。
騒乱に紛れていた一人の観客が、吸い込まれるような予備動作のない動きで立ち上がり、ソウの得物と瓜二つの手斧を振りかざしたのだ。
「……ッ!?」
必殺の勢いでソウへ肉薄していた符宵は、真横から飛来したその銀光を回避しきれない。
肉を断つ鈍い衝撃。手斧の刃は符宵の浅黒い二の腕を深く裂いた。
だが、彼女の肉体はもはや生身の摂理を超えている。
致命傷には至らず、彼女は独楽のように回転して距離を取ると、溢れ出したどす黒い血を指で拭い、それを舌先で舐めとった。
「……なんすか。横槍っすか? まさか、もう一人いたとはね」
符宵が昏い愉悦を瞳に宿し、影の正体を睨みつける。
そこに立っていたのは、ソウの恋人、アリアだった。
守るべき存在が最前線に、それも「化け物」の前に立ちはだかっている光景に、ソウは戦慄し、怒声を上げた。
「アリア! なぜ出てきた、下がれ!
――そいつは、君がどうにかできる相手じゃない!!」
だが、アリアはソウの制止を耳に留める様子もなかった。
彼女は俯き、ボソボソと何かを呟いている。
その白い肌は、戦闘の恐怖からではなく、別の理由で耳まで真っ赤に染まっていた。
「なんすか。よく聞こえねーっす。命乞いならもっと大きな声で……」
符宵が苛立ちを露わにした瞬間、アリアは意を決したように顔を上げ、肺のすべてを使い切るような大音声で叫んだ。
「服を……服を着てくださいましぃぃぃぃーーーーーッ!!!」
阿鼻叫喚のスタジアムに、一瞬の、完全な静寂が訪れた。
「プッ……ククッ、ハハハハハハハハハハッ!!」
符宵が堪えきれず、裂けた腕を抱えながら爆笑した。
「なんすか!? この可愛いお嬢さんは!!
ピュアピュアじゃないっすか!
殺し合いの最中に何言ってんすか!!」
「……アリア、流石に今は空気を読んでくれ」
ソウが絶望したように額を押さえる。
だが、アリアの勢いは止まらない。
「で、でも……風邪を引きますわよ!
女の子がそんな破廉恥な格好で外を歩くなんて、はしたないですわ!!」
「ハハハハハハッ!! 面白すぎるっす、あんた! 気に入ったっすよ。
わかった、そこまで言うなら服を着てやるっす!」
符宵が愉快そうに、脱ぎ捨てた漢服へ手を伸ばした、その刹那。
アリアの瞳から感情が消えた。
彼女は手斧を無造作に振り回し、無防備な符宵の細い首筋を刈り取りに走った。
(……なんだ。純粋なのは言葉だけっすか。気持ち悪い女っすね)
面白みの絶頂から、一気に冷淡な殺意の谷底へ。
符宵はこの女を「排除すべき害獣」と認識し、カウンターの態勢に入ろうとした。
だが、その間にソウが割って入る。
「なっ!?」
驚愕したのは、符宵とアリアの両者だった。
「……どういうつもりだい、アリア?」
「少女」の体から発せられたのは、声の高さは違えど先ほどの「少年」の声だった。
そして「少年」の声は「少女」の声だった。
「今、彼女が着替えているでしょう?そんなの卑怯よ!」
「……ッ!? アリア、君は一体何を言っているんだ!
平和ボケも大概にしてくれ……!」
符宵は、目の前の二人の会話が根本から噛み合っていないことに困惑し、攻撃の手を止めた。
「えーっと……っすね。まず、あんた誰っすか?」
目の前に立つ「少年」に問うと、彼は小首を傾げ、屈託のない笑顔で答えた。
「あ、私はアリア! よろしくね!!」
差し出された右手。
つい数秒前まで殺意の斧を振るっていたはずの少年の体なのに、その立ち振る舞いには陽光のような純真さが宿っている。
「えっと……なんで入れ替わってるんすか? その、人格とか、姿とか」
「私たち、人格を二人で自由に入れ替えられるの! すごいでしょ?」
自慢げにソウの体でアリアが鼻を鳴らす。
「……すごいっすけど、戦いの最中にやる意味、全くないっすよね?」
あんたが前線に出てどうするんだ、というツッコミを符宵は飲み込んだ。
「ねえ、ソウ。彼女、私たちで『保護』しましょうよ」
「何を言っているんだアリア! 彼女は敵だぞ!
それに、さっきまで君を殺そうとしていた」
「だって、かわいそうじゃない? こんな継ぎ接ぎの体にされて……独りぼっちは寂しいもの。
ねえ君、私たちと一緒に来ない?」
「……」
符宵は、あまりにも唐突で、あまりにも底抜けに「おめでたい」提案に、思考を停止させた。
だが、この女――アリアという存在は、天然の毒を吐きながらも、どこか自分の空虚な内側を見透かしているような気がした。
何より、これ以上戦うのが馬鹿馬鹿しくなるほど、この場の空気が弛緩している。
「……なんというか、もういいっすわ。
戦う気失せたっす。
符宵、別に誰か殺せとも言われてないっすし、幹部二人を釘づけにすればもうそれで仕事終わりっす。
それにお腹空いたっす」
「じゃあ、遊びに行きましょうよ!!」
「……しゃーねっすね。遊ぶっすか。
こんなテロが起きていると勘違いされてもおかしくない中吞気っすね」
「いいのいいの!
仲間さえ無事なら!」
かくして、血塗られた戦場での一戦は、あまりにもシュールな結末を迎えた。
未だに納得のいかない表情で「アリアの体」を揺らすソウを引き連れて、少女二人は手を取り合い、スタジアムの惨状をよそに近隣の避難した商業施設へとスキップで消えていった。




