File:031 第1回戦②
『な、なんだぁぁぁ!? ケンの姿が……変異していくッ!?
四足歩行!? まるで飢えた獣だ!!
誇り高き人類の直立歩行をかなぐり捨て、奴は今、捕食者へと成り果てたァァァ!!』
スピットファイアの絶叫がスタジアムの熱狂をさらに煽る。
ケンは両手と両足をコンクリートに吸い付かせ、重心を極限まで低く保ちながら、音もなく位置を変える。
それは猫というより、密林で獲物の喉笛を狙う漆黒の虎のようだった。
指先に嵌められたメリケンサックからは、指向性を歪ませた高周波の「爪」が赤黒い光を放ちながら不気味に伸長している。
坂上は手首を返し、予備のナイフを逆手に構え直した。
その瞳に油断の二文字はない。目の前の存在を、単なる格闘の相手ではなく、自らの生命を根こそぎ奪い去る確実な災害として再定義していた。
「……醜いでしょう?」
猿の仮面の下から、冷え切った、それでいて艶めかしいケンの声が響く。
「誰がどう見ても4足歩行という事実をいっただけだ。
というか自覚あるんじゃねーか」
「地を這う獣の姿。
人間としての尊厳など微塵もない、まるで奴隷のような気分ですよ」
「……嫌なら立てばいいだろう。不気味な真似をしやがって」
「いいえ。対人戦闘の極致に君臨する貴方を屠るには、これしかない。
二本足で立つ"人間"の動きに特化した貴方の反射神経では、この三次元的な機動力には決して付いてこれない」
坂上の頬を冷や汗が伝う。
確かにその通りだ。
虎と対峙して、ボクシングや空手で勝とうと考える愚か者はいない。
野生の、あるいは野生を模した超自然的な暴力は、技術を容易く蹂躙する。
「それに……見せ場はこれだけではありませんよ」
ケンの纏う「圧」が、物理的な衝撃波となって周囲の空気を歪ませた。
皮膚の下で筋肉がまるで別の生き物のように蠢き、全身の血管が浮き上がる。
神経外骨格のラインが、赤黒い光を脈動させ始めた。
出力を引き上げる。
「――さあ。貴方の命を、我が最高指導者への供物としましょう。
偉大なる中国の繁栄を支える贄となれ、坂上」
言葉と共に、ケンの体格がわずかに膨れ上がったように見えた。
発せられる殺気はもはや物理的な質量を持ち、坂上の肺を圧迫する。
(……ッ!? なんだ、このプレッシャーは!? 完全に別人だぞ!)
本能的な恐怖に突き動かされ、坂上は大きくバックステップを取りながら、腰の予備銃に手を伸ばした。
だが、彼の手がグリップに触れるよりも早く――。
その手首を、鋼鉄の万力のような力が掴み取っていた。
「メタトロンを通じて得た、中国人民解放軍のエリートから抽出した30人の戦闘データ、その叡智をこの四年間で完全に咀嚼しました。
貴方が今目にしているのは、その究極形です。
……かつて、不完全な同期の状態で前崎と戦った時とは違う。
私の意識は、今、かつてないほどに澄み渡っている。
負ける要素など、万に一つも存在しない」
握られた坂上の手首が、ミシミシと悲鳴を上げる。
坂上は渾身の力で手首を支点に蹴りを放ち、拘束を外そうとした。
ケンはあっさりと手を離すが、坂上の蹴りは虚空を裂くだけに終わる。
(速い……! 視界から消えた!?)
次の瞬間、坂上の視界の「死角」、地を這うような低い位置から、高周波の爪を構えた異形が跳躍した。
「破ッ!!」
「ぐ、あァァァッ!!」
背中に走る激痛。
電磁バリアを格闘戦用に最適化し、防御膜を瞬時に背面に集中させたことで致命傷こそ免れたが、それでも衝撃を殺しきれない。
坂上の巨躯が、木の葉のように前方へ弾き飛ばされる。
片膝をつき、必死に体勢を立て直そうとする坂上。
だが、そこに慈悲はない。
ケンは猫科の猛獣のようなしなやかさで、着地と同時に次の一撃を繰り出す。
フェイント、牽制、そして刺突。
坂上はナイフで迎撃を試みるが、ケンの動きは三次元的な軌道を描き、坂上の斬撃の「外側」を常にすり抜けていく。
攻守は完全に逆転した。
フィールドには、坂上の苦悶の声と、空気を引き裂く赤黒い閃光だけが、残酷に響き続けていた。
『おおっ……とォォォ!? 形成逆転、今度は逆にケンが主導権を完全に掌握だァ!!
獣へと成り果てたその異形の機動力で、日本最強の坂上を圧倒、蹂躙、粉砕中!!
だが、ケンの動きが良くなったのは一目瞭然だが……それ以上に、坂上の動きが鈍ってねぇか!?
どうした最強の自衛官! 身体が重いのか、それとも恐怖に足が竦んでるのかぁぁぁ?!』
『その疑問にお答えしましょう、スピットファイアさん』
『うぉわぁっ!? なんだぁ!? 俺の神聖な実況ブースを汚すノイズ野郎は誰だ!?』
『副総統の一ノ瀬です。以後、お見知りおきを』
『はぁ!? 副総統!? ……あ、そう。へー……。
で、なんでアンタみたいな「お偉いさん」がここに居座ってんだよ!』
『私のような"まともな"視点を持つ人間が解説にいた方が、よりこの戦いが引き立つと、前崎総統が仰いましてね』
『独裁者の気まぐれかよ、最高だぜ! で、解説サマよぉ!
どうして坂上の動きはあんなに”ブザマ”になっちまったんだ!?』
一ノ瀬の声は、スタジアムの喧騒とは対照的に、冷徹なまでに静かだった。
『理由は単純です。坂上が「対人戦」のスペシャリストだからですよ』
『対人のスペシャリスト……だぁ?』
『スピットファイアさん、よく見てください。
今、目の前で地を這っているアレが、果たして「人間」の動きに見えますか?』
『……確かに。関節の可動域も、重心の使い方も、生物学的にバグってやがる』
『その通り。坂上の身体に刻み込まれた数十万回の反復練習、武術、格闘技術……その全ては「二本足で立つ人間」を倒すためのロジックで構成されています。
対して、今のケン選手は野生の捕食者のフレームを借りている。
間合い、予備動作、急所の位置……坂上の「正解」が、全て「不正解」……とまではいかないですが「正解」とは言えない有効打になっているのです』
『なるほどな! 格闘技の教科書が通用しねぇってわけか!』
『ええ。しかも厄介なことに、あの獣は「フェイント」という高度な知性を維持したまま襲ってくる。
フェイントを織り交ぜる虎など、自然界には存在しません。
坂上さんの脳内はまさにパニックの状態でしょうね。
そんな訓練相手今までいなかったでしょうから』
『ということは、このまま坂上は、あの野良猫に噛み殺されて終わりかよぉぉぉ!!』
『いいえ。私はそうは思いません』
『あぁん!? どっちなんだよ、早く言えよ!』
『人間が、他のあらゆる野生生物を差し置いて頂点に立った理由は何だと思います?』
『……そんなもん、知るかよ! 脳みそがデカかったからだろ?』
『それも正解です。ですが、決定的な理由は別にあります。
……人間が”道具”を使いこなしたからですよ』
一ノ瀬が静かにフィールドを見下ろす。
その視線の先――。
一方的に打ちのめされ、膝をつき、血を流しているはずの坂上真司。
だが、その瞳だけは死んでいなかった。
猛獣に喉笛を狙われながらも、彼は冷徹に、獲物を罠にかける猟師の目をしていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ケンは自分が有利に戦いを進めているのにも関わらず攻めあぐねているように感じた。
単純に坂上のガードが堅いのだ。
だがそれだけではない。
目が死んでいない。
ならばガードの上から不可避の一撃を与えればいい。
すでに壁際まで追い詰めた。
奴は虫の息だ。
メリケンサックから共振装置を起動させる。
かつて前崎と手合わせした際に脳を揺らした代物。
(あなたが倒れないなら仕方がない。
正面からぶち抜いてやるのみです)
フェイントを使わず、正面の一撃。
それはただの右ストレート。
ただし勢いをつけた素人パンチのようなものだ。
だがそんなもの躱すのは苦でもない。
神経外骨格の出力が桁違いでもなければ。
足が地面にめり込むほどの最大出力で坂上に肉薄する。
(これで終わりだ!!)
だがこれで終わる坂上ではなかった。
ナイフを突き立てカウンターを取ろうとする。
しかしそれも読んでいた。
関節を無理矢理捻り、拳の軌道を変える。
それは不規則なアッパー。
いや、スマッシュだろうか。
なにせ、人間を辞めたものが打つパンチだ。
分類できるわけがない。
そこで見た。
遅くなる時間の中で地面に落ちる一つの手榴弾を……。
(止まれない……!!)
両者の間で爆発が起こる。
『おおっとぉぉぉ!! 両者が至近距離で突然爆発したァァ!!
坂上が自爆覚悟で足元に手榴弾を落としやがったぞ!!
狂ってやがる、自分もタダじゃ済まねぇはずだ!!
どこだ!? 奴らはどこへ行った!?』
スピットファイアの絶叫が響く中、ケンは激しく咳き込みながら後退した。
猿の仮面は粉々に砕け散り、剥き出しになった素顔を爆風が焼く。
爆発の中心にいた右ストレート(正確にはアッパー)を放った腕は無惨に焼け爛れ、神経外骨格のフレームが歪んで火花を散らしている。
この試合、右腕はもう使い物にならない。
さらに最悪なのは、視界だ。
煙が晴れない。
いや、爆発の煙にしてはあまりに濃密だ。
サーモグラフィーなどの視覚センサーを狂わせる「粒子」が混じっているのだろう。
「……煙幕か」
坂上は手榴弾と共に煙幕弾を投擲していたのだ。
いくら獣の骨格を模倣しようと、ケンの肉体は本物の虎ではない。
臭跡を辿る能力も、赤外線視覚も持たない人間の脳のままだ。
ケンは背後を取られるのを恐れ、フィールドの隅へと後退し、角に背を預けた。
戦場の視界が回復するまで、ここで籠城するつもりだった。
煙の向こう側で、坂上がパニックに陥ったかのように、リボルバーを四方八方へ乱射する音が響く。
(弾の無駄だ。……焦っているのか? 坂上ともあろう男が)
ケンは流れ弾を避けるため、さらに姿勢を低くし、静かに牙を研ぐ。
だからこそ、気づかなかった。
その5秒後にバリアの壁面を蹴り飛んで「真上」から等加速直線落下してくる、死神の存在に。
「が、は……っ!?」
衝撃と共に、背中に熱い鉄の杭が打ち込まれた。
坂上のナイフだ。それも一回ではない。
肺を貫き、神経を断ち、あらゆるところを容赦なく抉る刃の雨。
坂上は煙幕の中で自らの位置をリボルバーの音で偽装し、垂直のバリア壁を駆け上がって死角から急降下したのだ。
滅多刺しにされたケンの身体が、至近距離で抵抗を試みるもサッカーボールのように無造作に蹴り飛ばされる。
フィールドに転がったケンの意識は、数秒の間だけ、奇跡的に繋ぎ止められていた。
(……そんな、バカな……。私の中国人民解放軍の叡智を持つ私が……!!)
だが、その思考さえも無慈悲に断たれた。
横たわるケンの脳幹に向かって、坂上の投げた高周波ナイフが、寸分の狂いもなく深々と突き刺さったからだ。
全身を血と火傷で真っ黒に染め上げた坂上真司が、荒い呼吸と共にそこに立っていた。
勝利の凱歌を上げる気力もなく、ただ冷徹に任務を遂行した猟師のような顔で。
ホログラムスクリーンに、冷たく無機質な文字が浮かび上がる。
『――勝負あり!』
第一試合、勝者:坂上真司。
数万人の観衆が、一瞬の静寂ののち、地鳴りのような咆哮を上げた。




