File:024 巡り合わせ
フィレンツェ・ペレトラ空港。
かつてアメリゴ・ヴェスプッチと呼ばれたその空の玄関口は、来航客の急増に伴い、かつての面影がないほどに拡張されていた。
滑走路は増設され、今や極東の島国への直行便さえもが、日常の風景として溶け込んでいる。
日本国内が未曾有のパニックに揺れている最中、空路が閉ざされないのは皮肉な話だった。
海外から見れば、暴動はまだ「想定の範囲内」に収まっており、何よりフィレンツェ国際会議という外交的重圧が、物理的な鎖を辛うじて繋ぎ止めている。
前崎英二は、その喧騒の只中にいた。
執事の服を脱ぎ捨て、一般客に紛れて乗り込んだのは、皮肉にも自国のフラッグ・キャリアである民間機だ。
真夜中の便。午後0時前だ。
チケット代は法外な高値に跳ね上がっていたが、一ノ瀬が用意した偽造名義の電子通貨アプリでは、何の問題もなく買うことができた。
「……とはいえ、エコノミーとはな。随分と久しい」
前崎は手荷物を頭上の棚に押し込み、自分の席を確認する。
窓側のR-16。
そこには、既に一人の先客が腰を下ろしていた。
白髪混じりの、枯れ木のような老人だ。
彼はこのデジタルの過渡期のこの時代にも関わらず、黄ばんだ紙の小説に目を落としていた。
「すまない。そこは私の席なんだ。通らせてもらえるかな」
「ああ、これは失敬。物語に没頭してしまっていてね……」
老人は穏やかに微笑み、本を閉じゆっくりと立ち上がって道を譲った。
閉じた本を見た。
『オメラスを歩み去る人々』
随分と古い本を読んでいる。
あんまり見てもいけないと思い、視線を下にする。
前崎はその狭い窓側の席に身を沈める。
午前0時すぎ、飛行機が離陸した。
機体が安定してシートベルトのロックが外れる。
暇つぶしに何かしようと思った時だった。
隣り合った老人が前崎の横顔を見ていた。
「……何か?」
「あんた、日本人か」
「そりゃそうでしょう。日本行きの直行便なんですから」
「いや、今この便に乗っているのは、日本人以外のほうが多いぞ」
前崎は周囲を見渡した。
確かに、機内を満たしているのは圧倒的な数の中国語だ。
日本の富を吸い上げ、あるいは混乱を商機と捉えて乗り込む大陸の熱気。
前崎は喉の奥で苛立ちを覚えたが、それを表に出すほど愚かではない。
……ただなぜ苛立ちが起こったのかは言語化できなかった。
「……以前、一人の日本人の少年と話をしたことがある。
テロリスト、だったよ。その子は」
老人の言葉に、前崎の思考が止まった。
「テロリストと、お話を?」
「ああ。不法に入国して住み着き、国籍という名の生存権を子供に取らせて、自分たちも生き延びる……。
貧乏とは、いやはや、悲しいものだと思わないかね。
彼らにはそれしか道がなかったのだから」
「……それを、何とかしようと今の日本は独裁的な体制を敷いている。
それについてはどう思いますか?」
前崎は試すように訊ねた。
老人は、窓の外に流れるフィレンツェの雲を眺め、深く息を吐いた。
「どう思うか、か。難しいことを訊きますな」
「そうですか? 自分の中にある、心の言葉を口にするだけでしょう。
それが例え、偏見であろうとも」
「まあ、そうなのだがね。
彼らのやっていることは、間違っているとも、正しいとも言えないのだよ。
経済的な合理性で見れば『正解』。
だが、倫理の天秤にかければ『間違い』。
見る角度で、世界なんてものはいくらでも形を変えるさ」
「……では、日本の繁栄という点で見れば?」
「あれしかなかった……という点が大きいだろう。
制度は形骸化し、法案は利権で固められ、税金は増え続ける。
限界だったのだよ。
若者が暴徒化するのも、無理はない」
「……あれを暴動、と言っていいのかは分かりませんがね」
前崎の脳裏に、かつて自らが引き鉄を引いた平和記念公園の光景がよぎった。
海外の、あるいは市井の老人の認識などその程度なのか。
前崎は、この老人の正体に興味を抱いた。
「おじいさん。あなた、何者だ? 妙に日本に詳しい。
それに、今の日本の状況を理解していながら、あえて渡航しようとしている。
なぜだ?」
「ただの歴史と哲学の研究者だ。
もう引退した身だがな。
渡航したのは日本に行ける、最後のチャンスだと思ったからだ。
……昔の、な」
「昔の……?」
「今の日本は大きく、そして急速に変わっている。
特に貧しい者、弱き者には、酷く厳しい社会だ。
だからこそ、日本人もまた、大きく変わらざるを得ない。
あの優しい国はなくなるだろう。
それが目で実際に見れる最後のチャンスだと言ったのだよ」
「日本が変わるから、日本人が変わる……。
逆ではないのですか?」
「私は昔、人が国を作るのだと考えていた。
地政学的に土地が人を変えることはあっても、基本は人が根底にあると。
……だが、あの『総統』という男は、国民を遥かに凌駕する武力を手にしてしまった。
聞けばクローンの人間を大量生産できるそうじゃないか。
それ以前にもインターネットで文化が壊れた例などいくらでもある。
国というより企業かもしれないが、まるであの日本の統治は企業にしか見えない。
行政とくっついた……な」
前崎は沈黙した。
「無理矢理にでも日本は変わるだろう。
ここにいる中国の民たちも、おそらくは……。
だから、変わり果てる前の日本を見る、最後の機会だと思ったのだ」
「なるほど。興味深い。
……であれば、その先に、より良くなる日本の可能性はありますか?」
老人は一瞬だけ、悲しげに目を細めた。
「……可能性は低い、と言わざるを得ないな」
「どうして」
「人は、自由を求めるだろう?」
その至極当然の問いに、前崎は言葉を失った。
「あそこまで圧政を敷いて人が大人しくするとは思えない。
誰も協力はしてくれないだろう。
国外に多くが逃げるだろう。
少なくとも実力のある人間はな。
もしかしたら日本人という人種はもう無くなるかもしれない。
そんな未来さえ予想できてしまうのが怖い所だ」
老人の言葉は、鋭い針のように前崎の核心を突き刺していた。
待ち針で突っつかれた程度だ。
前崎は自分の手を見た。
震えていた。
老人に対する怒りか?
いや、この何も知らない老人に結果で反証してみたいという興味だ。
圧政を敷いた日本で手に入れた秩序。
先進的技術力で日本を牛耳った暴力。
象徴的として存在する自らのカリスマ性。
そのためにすべてを犠牲にしてきたのだ。
今更引き下がれるか。
「……そんなこと、ないですよ。おじいさん」
前崎は、老人の枯れ枝のような手を、力強く握りしめた。
「私が、日本を変えますから」
老人は、その手の熱に驚いたように目を見開いた。
話していた男の顔を見る。
それは先ほどとは別人だった。
「あなたは……!?」
だが、それ以上の会話はなかった。
老人が痺れたように一瞬痙攣したかと思えば、眠るように椅子にもたれかかったからだ。
成田空港。着陸と同時に、機内には喧騒が激しくなった。
隣の老人は座席から立ち上がることができなかった。
老衰と判断されたようだ。
救急隊員が機内に駆け込み、老人はストレッチャーで運ばれていった。
前崎英二は、一度も振り返らなかった。
かつての日本を知る老人の背中を見送ることなく、迎えの車を寄越した。
彼の国が、彼の統治を待っていた。




