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【☆5.0万PV】アダルトレジスタンス   作者: オレノマツ
第二章 国家騒乱編

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145/224

File:023 煽り

中国の大統領専用機が、嵐のような混乱を置き去りにしてフィレンツェの空へ消えていく。

その残滓を十分に見送った後、一ノ瀬は独り、滑走路の隅に佇む別の機体へと向かった。


日の丸を冠した、日本の大統領専用機。

本来であれば国の威信を乗せて飛ぶはずのその翼には、今や帰るべき主も、華やかな随行員もいない。

ただ、主を失った鉄の塊を本国へ返却するためだけに、静かにエンジンの咆哮を上げ始めていた。


だが、その機内には、公式記録には存在しない「特等席」が用意されていた。


空港職員に多額のユーロを握らせ、検閲を潜り抜けた一個の大型キャリーバッグ。

それは貨物室ではなく、一ノ瀬によって極秘裏に客席へと運び込まれた。


周囲に人の気配がないことを確認し、一ノ瀬がジッパーを下ろす。


「……プハッ!!

 おい、一ノ瀬。

 もう少しマシな詰め方はなかったのか。死ぬかと思ったぞ」


這い出してきたのは、数時間前に世界中に死亡の報告が(はし)った男、前崎英二だった。

彼は乱れた髪を掻きむしり、窮屈な姿勢で固まった身体を強引に伸ばす。


「歴代でも、キャリーバッグに詰められて国外脱出した国家元首は貴方くらいなものでしょうね。

 言われた時には耳を疑いましたよ」


「ふん。過去には楽器ケースに隠れて密出国した大手自動車会社のレバノン人の会長もいたと聞く。

 歴史に学ぶというのは、こういう時のためにある」


「……その学習能力を、もう少し平時の外交に活かせなかったんですか」


一ノ瀬の冷ややかなツッコミを無視し、前崎は広い機内を見渡した。

静寂が痛い。


「結局、Hound(ハウンド)は全滅か」


「はい。確認できた限りでは。

 瓦礫の下に埋まったか、さもなくば、あの少年の刃に。

 回収は絶望的です」


「とにかくお前が無事でよかったよ」


「ハウンドの一人が壁を切り裂いて脱出させてくれたので……。

 遺体は細切れになっていましたので回収すら……」


「あぁ。まあそれはいいさ。気にすることじゃない。

 尊い犠牲ってやつさ」


前崎は窓の外、遠ざかるフィレンツェの街並みを見つめ、声を低めた。


「今回の一件で、収穫もあった。

 奴らはどうやら中国の客分らしい」


「……客分にしては、あまりに制御が効いていないように見えましたが。

 あのような化け物を野放しにするメリットが中国にあるのでしょうか?」


「制御しているのではない。

 歯止めが利かないのだ。

 まあなんというか報酬に踊らされているだけだ。

 ……間近で観察して確信した。

 あのガキの肉体は、もはや我々と同じホモ・サピエンスの範疇を出ている。

 ドーピングやサイボーグ化というレベルではない……生物単位での変質だ」


「生物単位……。恐竜にでも進化しようとしている、と?」


「あるいは、それ以上の何かだ。

 あの反応速度、筋力、そして何より死を恐れぬ精神構造。

 人間という種が数万年かけて削ぎ落としてきた能力をハイエボリューション(超進化)したような……。

 Hound(ハウンド)とは比べ物にならないな」


一ノ瀬は、前崎の言葉を反芻しながら、ずっと喉に刺さっていた疑問を口にした。


「……ところで、一つ聞きそびれていました。

 何故、貴方は生きているんですか?

 シュウに首をねじ切られたのは、間違いなく貴方の顔をした人間でした」


前崎は薄く、残酷な笑みを浮かべた。


「簡単な話だ。

 ハウンドの隊員の中には、整形と教育によって俺とほぼ同一の容姿・挙動を叩き込まれた個体が数人いる。

 あの時、シュウが殺したのはその内の一人だ。

 影武者の役割を完遂したに過ぎん」


「……その影武者は、生きている人間ですよね。

 倫理的にどうなんですか、それは」


「本人の強い志願があり、なおかつその人間が()()()()()()()()のなら、何の問題もあるまい」


「……生きている?

  首をねじ切られたんですよ?」


「まあ、気にするな。じきに解る……。

 だが、今はそれどころではなくなったようだぞ」


前崎の視線が、不穏に歪んだ。


「……どうしたんです?」


「外を見てみろ。イタリアの連中、意外としつこいらしい」


離陸に向け、滑走路を滑り始めていた専用機の進路を遮るように、数台の装甲車とイタリア空軍の車両が強引に割り込んできた。


眩いばかりのサーチライトが機体を焼き、スピーカーからイタリア語と英語の警告が響き渡る。


「ストップ! エンジンを停止せよ!

  繰り返す、機体を停止させ、直ちにハッチを開けろ!」


「……バレましたね。

 どうやら、イタリア政府は貴方を生きたまま日本へ帰すつもりはないようです」


「やれやれ。せっかく楽器ケースの教訓を活かしたというのに。

 ……一ノ瀬、プランBだ。

 ここからは場合によっては、荒っぽくなるぞ」


離陸直前の機体。包囲する軍隊。

死んだはずの独裁者の「再来」を、世界はまだ許してはくれなかった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


イタリアの太陽の光に抵抗するかのように、赤と青のパトランプの明滅が滑走路を焼き、日の丸を冠した大統領専用機の白亜の機体を不気味に照らし出していた。


重々しく開いたハッチから姿を現したのは、混乱の極みにある空港にはあまりに不釣り合いな、燕尾服に身を包んだ優雅な執事だった。


「……何の真似ですか、これは。離陸許可は既に得ているはずですが」


執事が静かに、しかしよく通る声で問いかける。

対峙するイタリア国家警察の指揮官は、腰のホルスターに手をかけたまま一歩前へ踏み出した。


「乗組員、および乗客全員に降りてもらう。直ちに……だ」


「ご理由は?」


「言えない。上の命令だ」


「それは通りませんよ。

 これは日本国の主権が及ぶ大統領専用機です。

 正当な理由なき拘束は、国際問題に直結しますが?」


執事の毅然とした態度に、指揮官は鼻で笑った。


「主権、か。

 だがお前たちの総理は、昨日死亡が確認されただろう?

 顔は無かったらしいがな。

 今、こっちで死体解剖中だ。

 亡霊を運ぶのに主権もへったくれもあるか。

……さあ、降りろ」


「……なるほど。承知いたしました」


執事が一歩下がると、機内から一ノ瀬がゆっくりと姿を現した。

その表情は鉄仮面のように冷徹だったが、その内心では毒を吐いていた。


(……チッ、これなら検問を強行突破(ゴリ押し)してでも離陸させるべきだったでしょうね)


滑走路のコンクリートの上で、無慈悲な人員照合が始まった。


「パイロット、貴様はこの機に密航者が紛れ込んでいる心当たりは?」


「……いえ、ないです。

 なんのことかさっぱり。

 我々はただ、離陸許可に従って本国へ帰還する準備をしていただけですが」


パイロットは正直に答えたつもりだった。

だが、警察側の空気は一向に緩まない。

一人の警官が無線機に耳を傾けた後、一ノ瀬を冷たく睨みつけた。


「現在、Uターンした中国の梁主席がこちらに向かっているそうだ」


一ノ瀬の眉が僅かに動く。


「それが、我々を拘束する理由になると?」


「……命令だ。お前たちを逃がすなとな。

 解釈は勝手にするがいい」


一ノ瀬は奥歯を噛み締めた。梁智衡が戻ってくる。

それは「偽物の首」の正体が発覚したか、あるいはそれ以上の不測の事態が起きたことを意味していた。


警官はメンバーリストをなぞり、執事――イケザキの前で足を止める。


「……イケザキ・ハヤト?」


「ええ。そうですよ。

 本来であれば、前崎様……総理の身の回りの世話を担当する予定でした」


「……そうか。確かにリストに名前はあるが……」


警官の目が、執事の全身を舐めるように走る。


(……執事にしては、体付きが良すぎる。

 隙のない立ち振る舞い、服の上からでもわかる鍛え上げられた筋肉……。

 特殊部隊の出身か?

 まあ、この規模の要人の執事がSPを兼ねているのは珍しくないが……)


警官は僅かな違和感を覚えたが、リストの顔写真と、今目の前で恭しく頭を下げる執事の姿に矛盾は見つけられなかった。


「……すみません、一ノ瀬様が極度の緊張で体調を崩されています。

 トイレにお連れしてもよろしいですか?」


執事の申し出に、警官は眉をひそめた。


「どうした、一人で行けないのか?」


「私は護衛の役割も仰せつかっております。

万が一の事態から一ノ瀬様をお守りするのが私の職務。

何卒、ご理解を」


「……わかった。だが監視を数人つけるぞ。

 扉の扉の前までだ」


「感謝いたします」


そうして空港方面に向かおうとする。

だが警察の一人が疑問に思う。


「……飛行機内でやらないのか?」


「中に密航者がいないか確かめるのでしょう?

 ついでにお土産も買ってきますよ」


そういって一ノ瀬はその場を執事を連れて出て行った。


「……自国の長がやられたのにのんきなもんだ」


数人のイタリア人警官に囲まれながら、二人は空港内のレストルームへと向かう。

二人ともが入ろうとした時に止められる。


「一人ずつだ」


執事のイケザキと一ノ瀬が顔を見合わせる。


「イケザキさんいいですよ」


「おおっ!すみません!

 歳を重ねると近くていけませんな」


そういって先にイケザキがレストルームに入った。


扉が閉まり、施錠された瞬間。

執事の「仮面」が剥がれ落ち、独裁者・前崎英二の鋭い眼光が戻った。


テレパシーカフスで声を発せずに会話する。


『……一ノ瀬、梁が戻ってくる。

 あいつのことだ、あの首が偽物であることに気づいたか。

 思ったより早かったな。

 腐敗が遅かったか』


『どちらにせよ、最悪ですね。

 ここはイタリアの地、梁とイタリア政府が手を組めば、我々に逃げ場はありません』


『仕方ない。総統のプライドを捨てるとするかね』


前崎は仕方なく電子端末にアクセスを開始した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


あれから10時間だ。

もう夜も遅くである。

ちょうど0時を回った所だ。


着陸の許可に手間取った。

イタリア人は応用の利いた仕事ができないらしい。


深夜の滑走路に、再び重低音が響き渡った。

一度は離陸したはずの中国大統領専用機が、急旋回してフィレンツェの空港へ舞い戻ってきたのだ。

タラップが降りるや否や、梁智衡(リャン・ジーフォン)を先頭にした一団が、暴力的なまでの圧を伴って降り立つ。

中国の軍隊の人間が銃をいつでも撃てるように構えている。

その後ろには、フルフェイスのヘルメットで素顔を隠した三人の影――シュウ、ジュウシロウ、ケンが、死神のような沈黙を連れて控えていた。


「……指示通り、日本行きの専用機は足止めしましたよ。

 中にいたのは、一ノ瀬という副総統一人と、執事の男だけだ。

 あとは最低限のパイロットとCAだけだ」


待ち構えていたイタリア国家警察の指揮官が、不機嫌そうに吐き捨てた。

梁の背後に立つフルフェイスの一人――シュウが、ヘルメット越しに低く、刺すような声で詰め寄る。


「……本当か? 隅々まで調べたんだろうな」


「ああ。一ノ瀬は今、トイレに立っている。

 気になるなら自分で行けばいい」


「時間は?」


「1時間ほどだ」


「たかがトイレに1時間だと……? ふざけるな、おかしいだろ!」


シュウの殺気が膨れ上がり、周囲の警官たちが反射的に銃に手をかける。

指揮官はそれを鼻で笑った。


「……10時間だぞ。

 待ち時間が長いから、ついでにお土産でも買ってくると言っていたよ。

 いいか、離陸を止めろと言ったのは貴様らだ。

 人を拘束しろとは言われていない。

 これ以上遅れれば国際的なスケジュールに穴が開く。

 我々は仕事を果たした。

 文句を言われる筋合いはない」


「……この、野郎ッ!!」


「よせ、シュウ君」


梁が短く制した。


「そのくらいであれば、こちらから探しに行こう。

 ……一ノ瀬の顔は覚えているな?」


「……地味すぎて、印象に残ってねえよ」


シュウが毒づき、空港ビルへ向かって踏み出そうとした、その時だった。


「あれ。……皆さん、お揃いでどうされたんです?」


ロビーの自動ドアから、のんびりとした足取りで現れたのは、両手に溢れんばかりの紙袋を抱えた一ノ瀬だった。

その口には、フィレンツェ伝統の硬い菓子、カントゥッチが一本咥えられている。

あまりに緊張感のないその姿に、中国側の護衛たちが一斉に銃口を向けた。

イタリアの警官たちも、反射的に武器を構え、現場に一触即発の火花が散る。


「ステイ。……武器下げろ、全員」


梁の制止に、シュウたちが忌々しげに銃を下ろす。


「むやみに武器を構えないでくださいよ。

 国家間の不必要な火種になりかねません」


一ノ瀬はカントゥッチをバリバリと噛み砕き、困ったように肩をすくめた。


「すまないね。彼らは少々、警戒心が強くてね」


梁が歩み寄り、一ノ瀬の正面に立った。


「フィレンツェ国際平和会議では、実に見事な立ち回りだった。

 一ノ瀬副総統」


「こちらこそ。梁主席。

 大変貴重な経験をさせていただきました」


梁が右手を差し出し、一ノ瀬がそれに答える。

がっしりと固められた握手。

脈拍を測る。

そして一ノ瀬の僅かな動揺も見逃すまいと、その瞳を至近距離で覗き込んだ。

だが変化が一切ない。


「……気丈なものだ。

 前崎総統があのような惨劇に遭われたというのに、沈んだ様子もない。

 あなたの国では和を乱す人間はどれだけ有能でも意味がなかったのでしょうね」


梁が放った猛毒を含んだカマかけ。

だが、一ノ瀬の反応は、梁の予想を遥かに超えるものだった。


「……何のことですか?」


一ノ瀬は、心底不思議そうに小首を傾げた。

その瞳には一点の曇りも、偽りの色もない。

あまりの「無反応」に、百戦錬磨の梁智衡ですら、一瞬だけ内心の均衡を乱した。


「……ホテルで、崩御なされたのでは?」


「ああ、確かにホテルは襲撃されましたね。

 ()()()()()()()()は、皆、犠牲となりました。

 ……実に痛ましい。お悔やみ申し上げます」


ギリッとフルフェイスのシュウを睨みつける。

だがシュウは怒りに打ち震えており、一ノ瀬を睨みつけたまま梁とは視線が合わない。

視線をそこで切る。


「……であれば、前崎総統は今どこに?」


「とっくに帰っていますよ。日本に。

 ……このままイタリアに留まれば、更なる危害がこの街に及ぶ。そう仰ってね」


「……ッ! なんだと!?」


背後でシュウが、絶叫に近い驚愕の声を上げた。


「……一体、どうやってお帰りになったのかな?」


梁の声が、低く這うような威圧感を帯びる。

だが、一ノ瀬はどこ吹く風と、買ったばかりのお土産の袋を整えた。


「それは我が国の国家機密ですので、お教えできません。

 私はこの専用機を日本へ戻す任務を任されただけですので」


一ノ瀬が専用機のタラップへ足をかけようとした時、イタリア警察のリーダーがそれを遮った。


「待て。……執事はどうした? お前と一緒にいたはずの男だ」


「さあ……。お土産を選んでいる途中で、はぐれてしまいまして」


その言葉が、シュウの導火線に火をつけた。


「今すぐ、その執事を探せ!! 全員だ!!」


シュウの叫びが滑走路に響き渡る。

一ノ瀬は、面白そうに目を細めた。


「……お知り合いでしたか? 私の執事と」


「……舐めやがって、この野郎ッ!」


シュウが一ノ瀬の胸ぐらを掴まんばかりの距離まで詰め寄るが、一ノ瀬は眉一つ動かさない。


「……見張りは何をしていた!?」


警官の怒鳴り声に、一ノ瀬はふわりと笑った。


「そんなに怒らないでください。

 私が理由を説明します。彼らに非はありません」


一ノ瀬が軽い咳払いをする。


「あの執事の方の契約は日本に帰る0時までだったんですよ。

 だから、契約の解除がされました。

 予定通りなら今頃ついているはずですからね、日本。

 もしイタリアに残っているのであれば、独りでフィレンツェの夜を楽しまれているんじゃないですか?

 あとは自由にしていいとは伝えました。

 報酬は支払っていたのでね」


「……てめぇ、その執事が、前崎だったんだな?」


シュウの問いに、一ノ瀬は答えず、ただ上空を見上げた。


「さあ、どうでしょうね。

 ……だとしても、もう遅いと思いますよ」


「……何?」


「たった今、出発しましたので」


一ノ瀬が指差す先――漆黒の夜空を、数条のライトを明滅させながら、一機の巨大な旅客機が上昇していくところだった。

それは、日本行きの深夜便。

数百人の民間人を乗せた「盾」であると同時に、如何なる軍用機であっても、フィレンツェ市街地上空で撃墜することなど許されない。

さらにいえばもう離陸している。


「……民間機か。

 空港内に潜り込まれた時点で、奴に侵入できないルートなどなかったということか」


梁智衡(リャン・ジーフォン)は、天を仰いだ。

執念深く追い詰めたはずの獲物は、執事の服を脱ぎ捨て、民間人の群れに紛れて雲の彼方へと消えた。

あまりにも鮮やかな、そしてあざ笑うような幕引き。


「……阿呆らしい。帰るぞ」


梁はそれ以上一ノ瀬を顧みることなく、自らの機体へと背を向けた。

残されたシュウの拳は、やり場のない怒りに震え、夜の風に虚しく軋んでいた。


ーーーーーーーーーーーー


「これで勝ったと思うなよ。

 前崎の腰巾着野郎……」


シュウが吐き捨てた言葉は、離陸準備に入るエンジンの轟音にかき消されそうだった。

だが、目の前の一ノ瀬には、その憎悪の全てが明瞭に届いていた。

一ノ瀬の薄い唇が、ゆっくりと弧を描く。


「……ッ!! 何をヘラヘラしやがって!」


我慢の限界だった。

恥をかかされ、報酬を失い、感情を抑えられなかった。


シュウは一ノ瀬の胸倉を掴み上げ、その細い身体を強引に引き寄せる。

指先に力がこもり、高級なシャツの生地が悲鳴を上げるが、一ノ瀬の表情から余裕が消えることはない。

それどころか、その瞳には慈悲深い聖職者が愚かな子供を見るような、深い嘲笑が宿っていた。


「いや、失敬。君のことがあまりに面白くってね」


「……なんだと?」


「暴力しか能がないクソガキといったところかな。

 ……君じゃあ、前崎さんの足元にも及ばない。

 思考の深さが、生物としての階梯(かいそう)が違いすぎるんだよ」


「てめぇ……殺すぞ!!」


反射的だった。

シュウは懐から引き抜いた銃口を、一ノ瀬の額に力任せに突きつける。

金属の冷たさが一ノ瀬の肌に食い込む。

周囲のイタリア警察や中国側の随行員たちが、一斉に息を呑み、現場に凍りつくような緊張が走った。


「おい! シュウ止めろ!!」


ジュウシロウが慌てて制止に入ろうとするが、一ノ瀬はそれを片手で制した。

銃を突きつけられ、指一本で脳漿(のうしょう)をぶちまけられる状況にありながら、彼の呼吸は一切乱れていない。


「やるか? いいぜ。撃ってみろよ。

 ……それは君個人の暴走か?

  それとも、背後にいる中国の意向かな?

  自分の指が引き金にかかっている意味、理解できているかい?」


「……ッ!!」


「君がここで私を殺せば、君の大好きな仲間たちも、その主である梁主席も、

 まとめて国際テロリストの共犯者だ。

 ……さあ、どうした?

 暴力こそが君の数少ない言語(ボキャブラリー)であり自己同一性(アイデンティティ)なんだろう?」


シュウの指が震える。

ヤツは立場上殺せないのをわかっている。

だから暴力でいうことを聞かせることができないタイプの人種に何もできない自分に苛立った。


「……クソッ!!」


シュウは叩きつけるように一ノ瀬を突き飛ばすと、唾を吐き捨てて飛行機のタラップへと歩み出した。

その後ろ姿を、一ノ瀬は乱れた襟元を整えながら、依然として愉悦の混じった目で見送る。


「一ノ瀬様。あまり彼らを挑発されないようにお願いします。

 猛獣に近づいてケガするのはあなたの責任ですよ」


通り過ぎざま、肩に猿の面をつけたケンが静かに忠告した。


「久しぶりだね。覚えているよ。そのお面」


だが、一ノ瀬の返答は極めて冷淡だった。


「アドバイスの返答だ。

 嫌だ。だって君ら、敵だもん。

 飼育員なら躾ぐらいしてしろ。

 できないなら殺処分でもしろよ」


「――左様でございましたね。私の失言でした」


ケンはそれ以上何も語らず、感情を削ぎ落とした足取りで一ノ瀬の傍らを通り過ぎていった。

一ノ瀬はその影に向かって、思い出したように声をかけた。


「ああ、そうだ。一つ、重要な連絡を忘れていた」


その言葉の重みに、タラップを登りかけていたシュウが、そして最後尾にいたケンが振り返る。

一ノ瀬の顔から笑みが消え、底冷えするような「統治者」の眼差しが彼らを貫いた。


「日本の国民に一歩でも手を出してみろ。

 中国人を一匹残らず殺してやる」


カントゥッチを噛み砕くような乾いた響き。

それは外交的な警告ではなく、一ノ瀬という男が自らに課した絶対的な誓約だった。


「私はともかく彼らは日本国民なのですがね。

 ……覚えておきましょう」


ケンの低い声が夜風に溶け、彼らは機内へと消えていった。

ハッチが閉まり、静寂が戻る。

一ノ瀬は独り、闇に消えていく敵の翼を見つめながら、再びポケットから硬い菓子を取り出し、無造作に口へと運んだ。

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