File:021 襲撃
前崎を乗せたホテルが、重力に逆らうことをやめた。
一ノ瀬が「ビルが切断された」という絶望的な事実に辿り着く4時間前――その惨劇の種は、遥か彼方、北京の軍事拠点で既に蒔かれていた。
シュウの取った戦略は、あまりにも短絡的で、それゆえに防ぎようのない暴力だった。
彼は北京の軍需工場を襲撃し、そこで一機の音速機と、その「部品」となるパイロットを確保した。
音速で空を駆ける鉄の塊を御せる者を選び出し、その喉元に刃を突き立てて命じたのだ。
「フィレンツェまで飛ばせ。最短距離でな」
死の恐怖に支配されたパイロットは、国際法も領空侵犯の警告も無視し、機体の限界を無視してスロットルを押し込んだ。
複数の国境を串刺しにする最短ルート。
それはイタリアへと至る、死神の飛行となった。
フィレンツェ上空、機体が悲鳴を上げるほどの寒風の中、シュウは躊躇なく身を投げた。
パラシュートが夜風を孕み、彼という「凶器」を標的へと正確に導いていく。
着地など必要なかった。
空中で抜刀したシュウは、重力加速度をそのまま斬撃の威力に変換し、ホテルのビルディングを一刀のもとに叩き切った。
ただ、それだけのこと。
積み上げられた建築理論や物理法則を、個人の武勇が力技で塗り替えた結果が、この崩落だった。
当然、これは中国の軍用機が関与した未曾有の国際問題になりかねない事態である。
だが、中国側の指導者、梁智衡は即座にイタリアへ弁明した。
「我が国の軍用機が、日本の若者に強奪された。これは不可抗力である」
それは国家として日本の統治能力の欠如を批判すると同時に、日本人全体を「制御不能なテロリスト」として攻撃する狡猾な声明でもあった。
巨大な資本を背景に持つ中国の言い分に対し、イタリア側に反論の余地はなかった。
だが、これはあくまで表向きの理屈だ。
裏の真実として、イタリア政府は一ヶ月以上も前からこの事態を「受理」していた。
多額の裏金とともに。
飛来した戦闘機にミサイルが一つも搭載されていなかったのは、それが攻撃機ではなく、単にシュウを運ぶための「使い捨ての鞘」だったからに他ならない。
許可を得たのも元々中国が飛ばしてくる戦闘機の内容を知っていたからだ。
知らなかったのは不運なパイロット程度だ。
だが、前崎にとってそんな政治的決着はどうでもいいことだった。
傾き、滑り落ちる階層の中で、彼はただ迫り来る地面を見つめていた。
国家のプライドも、外交特権の壁も、シュウという名の天災の前では、切断されたコンクリートの破片ほどの価値もなかった。
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崩落したホテルの瓦礫が、巨大な墓標のようにフィレンツェの月夜を遮っている。
立ち込める土煙のなか、シュウは抜刀した刀の峰を肩に打ち付け、無造作に周囲を見渡した。
「……ま、こんなモンで死ぬわけねーよな、あいつが」
頭上を浮遊するのは、ハエのように群がる報道用のドローンカメラ。
そのレンズを睨みつけ、シュウは口角を吊り上げた。
全世界に生中継されているその画面の向こう側、自分に懸賞金をかけた「闇」の住人たちへ向けて、挑発的に自らの首を指差す。
「おい、聞いてるか。俺に賞金をかけたカスども。
……ここにお前らが欲しがっている首があるぞ。
取りに来れるもんなら、今すぐ来い」
その傲慢な宣言を切り裂くように、背後の影が爆ぜた。
瓦礫の隙間から這い出してきたのは、服こそボロボロだが眼光に一切の衰えがない男――前崎英二。
前崎の手元で鈍く光るタクティカルナイフが、シュウの延髄を狙って最短距離を走る。
だが、シュウは振り返りもせず、刀の鞘を背後に回してその一撃を火花と共に弾き飛ばした。
「よう。生きてたか、前崎のおっさん。
よくもあんな穴だらけにしてくれたな。
……あの時は痛かったぜ、カスが!」
「……日本の恥め。死に損ないが、いまさら何の用だ」
「恥が何言っているんだ。
やっていることは俺たちのパクリだろ?」
「ガキの癇癪と同じにするなっ!」
互いの殺気が衝突し、凄まじい風圧で周囲の塵が舞い上がる。
二人は一度距離を置き、獲物を狙う猛獣のように睨み合った。
「なぜ生きている……?」
「アレイスターとかいうおっさんが、バックアップを仕込んどいてくれたらしくてね。
おかげで死ぬに死ねねぇんだわ」
「潰しておいたはずだがな……!」
「目覚めたのはイラクだからな。
いくらあんたでも目が届かなかったようだな」
シュウが息を静かに吐くと、全身を覆う神経外骨格が青白い燐光を放ちながら起動した。
「特別性だぜ?こいつは!」
次の瞬間、シュウの姿が消えた。
「――速いッ!」
前崎の反射神経を遥かに凌駕する超加速。
シュウの斬撃が四方八方から同時に襲いかかる。
前崎はナイフ一本でそれを受け流そうとするが、金属音の余韻が消える前に次の刃が届く。
「そのスーツは神経外骨格には見えねぇが……。
なんで生身で対応できんの?意味わかんねぇ……」
シュウの連撃が加速する。
前崎は咄嗟に腕のデバイスを起動させ、電磁バリアを局所展開した。
斬撃の軌道がわずかに逸れ、火花が夜の闇を彩る。
だが、バリア越しでも伝わる震動が前崎の腕を確実に破壊し始めていた。
(強すぎる……! 才能やセンスなどという言葉では説明がつかん!
これは――生物としての階層が違う!)
前崎の脳裏に「敗北」の二文字がよぎる。
指先を切り飛ばされる寸前、前崎は強引にナイフを捨ててガードに転じたが、その代償として愛用のナイフが夜空に舞った。
その隙をシュウは見逃さない。
「終わりだ」
空中で体を反転させたシュウの膝が、大気を切り裂いて前崎の腹部へ突き刺さった。
コンクリートを粉砕するほどの衝撃。
前崎の身体はくの字に折れ曲がり、瓦礫の山へと弾丸のように吹き飛ばされた。
「ぐはっ……! げほっ、ごほっ……!」
ボロ雑巾のように転がった前崎が、吐血しながら這い上がる。
シュウは冷めた目でそれを見下ろし、ゆっくりと刀を正眼に構えた。
「……初めて会った時を思い出すぜ。
国会議事堂だったな。
あん時はバックアップがあったとはいえ、顔面を膝蹴りで粉々にされたからな。
……今のんで、チャラにしてやるよ」
冷徹な宣告。
シュウがトドメの一撃を放とうとしたその時、瓦礫を押し退けて武装集団が姿を現した。
「Houndとかいうボスのコピーもどきか……。
まだ生きてたのかよ」
それにしては警察が見えない。
だが敵ではない。
生き残ったのは6人。
身体能力は一般人を優に超えている。
だが、シュウの瞳にはそれらがただの「障害物」にしか映っていない。
「めんどくせぇ。
久々に、本物の剣術ってやつを見せてやるよ」
シュウの立ち姿が変わった。
重心が消え、刀身が月の光を吸い込んで透明に透ける。
全方位、88もの絶技から構成される対集団殲滅型。
「天津風」
放たれたのは、光の屈折と見紛うほどの神速の円舞。
一歩、踏み込むごとにハウンドたちの首が、腕が、胴体が、重力から解き放たれたように宙を舞う。
抵抗する隙も、防御する時間も与えない。
前崎は腕がないどころか肩から腰を切断されていた。
わずか数秒。
静寂が戻ったとき、立っているのはシュウただ一人だった。
「こんな天津風っていうサブい名前にする意味ってあるか?
おっさんよ。不動流剣術だっけ?
技術はともかくネーミングセンスはいまいちだな」
前崎には何を言っているかわからない。
正確にはそんなことに意識を割いている余裕はない。
いやもう意識がもたない。
そんな前崎の前にシュウは立った。
「……じゃあな。クソ総理」
返り血を浴びたシュウが、地面に伏した前崎の髪を掴み、無理やり引きずり起こす。
命乞いの言葉を挟む間もなく、シュウの強靭な腕が前崎の首にかけられた。
――メキッ、と。
不快な破壊音と共に、日本の絶大な権力を握っていた男の首が、不自然な方向にねじ切られた。
崩壊したフィレンツェの廃墟に、独裁者の終わりを告げる断末魔すら響かない。
シュウは無造作にその顔を持ってその場を去った。
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フィレンツェの歴史を刻む石造りの別のホテルに、重苦しい沈黙と深夜の冷気が忍び込んでいた。
梁智衡は、最悪の予感と共に微睡みの底から引きずり出された。
扉を叩く音ではない。
部屋の中に「異物」が入り込んだという生物学的な危惧が、彼の意識を覚醒させたのだ。
枕元に立つ影。
月光を背負ったその男――シュウは、返り血を拭うことすら忘れたような、酷く退屈そうな顔をしていた。
「……何の用だ、こんな時間に」
梁が声を絞り出すより早く、シュウの右腕が無造作に振られた。
ボトッ、という、生暖かい肉塊が絨毯に落ちる鈍い音が寝室に響く。
「――ほい。約束のブツだ」
転がったのは、数時間前まで日本の中心で「新秩序」を叫んでいた男の成れの果てだった。
日本の内閣総理大臣、前崎英二。
その首は、断末魔の驚愕を張り付かせたまま、虚ろな瞳で梁を凝視している。
「……もう終わったのか」
東洋の独裁者、時代の寵児、そして国際社会を震撼させた狂気の王。
その命が、今や安物のボウリングの球のように、自分の足元に転がっている。
死体には慣れていない分、梁は、こみ上げてくる眩暈を片手で押さえた。
それを直接持ってくるかよ。
「仕事は終わった。
……あとの報酬、きっちり振り込んどけよ。じゃあな」
シュウはそれ以上の言葉を交わす価値もないと言わぬばかりに、窓枠を蹴って夜の闇へと溶けていった。
厳重な警備も、ハウンドの残党も、彼にとってはただの「書き割り」に過ぎなかったのだ。
残された梁智衡は、しばしの間、冷たくなりゆく「日本の首」を見つめていた。
明日――いや、数時間後には、全世界の首脳が集まるパラッツォ・ヴェッキオでこの事態を説明しなければならない。
「どうやって奴らのせいにして誤魔化そうか」
こめかみを激しい拍動が襲う。
前崎が提示した無茶な要求、それに対する各国の反発、そして「暗殺」という最悪の決着。
明日、世界中にどのような「嘘」を吐けば、このフィレンツェが火の海にならずに済むのか。
梁智衡の指先は、止まらない偏頭痛を抑えるように激しく震えていた。
独裁者の死は、平和の訪れではなく、さらに巨大な混乱への序曲でしかなかった。




