File20:フィレンツェ国際平和会議(FIPC)
国家を担う獅子たちの円卓はフィレンツェ国際平和会議(FIPC)と名付けられた。
フィレンツェの象徴、パラッツォ・ヴェッキオ(ヴェッキオ宮殿)。
その心臓部である『五百人大広間』が、今回の歴史的会合の舞台となった。
見上げるほど高い天井、そして壁一面を埋め尽くすジョルジョ・ヴァザーリの巨大壁画『マルチャーノ・デッラ・キアナの戦い』。
凄まじい騎馬隊の衝突を描いたその傑作は、これから始まる外交という名の「流血なき戦争」を予見し、冷徹に嘲笑っているかのようであった。
円卓を囲むのは、世界の命運を握る首脳たちだ。
アメリカ、中国、イギリス、フランス、ドイツ、イタリアのG7諸国に加え、韓国、フィリピン、インドネシア、ベトナム、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、そしてインド。
特に東南アジア諸国は、日本の「サンフランシスコ条約脱退」という劇薬が、地域のパワーバランスをどう破壊するか、その行方に神経を尖らせ、一触即発の沈黙が場を支配していた。
だが、主役であるはずの日本が、現れない。
「……遅すぎる。開会から30分だぞ!」
アメリカのゴードン大統領が、苛立ちを隠さず机を叩いた。
「事務局、日本側からの連絡は?」
「……いえ。依然として、一切の通信が途絶えています」
「出発したという報告は受けている。
……暗殺か?
だったらホテルから即座に緊急通報が入るはずだが……?」
騒然とする議場の中で、イタリアのメイケン首相が、隣に座る中国の梁智衡に、声を潜めて語りかけた。
「時に梁主席。
……天津の一件、やはり日本が絡んでいるのではないか?」
「……否定はしませんが、確証もありません。
何をおっしゃりたいのです?」
「……うちのシチリアの連中、いわゆる『組織』が血眼になっていてね。
例の爆破事件の犯人に、ダークウェブ経由で天文学的な懸賞金を懸けた。
そのターゲットが……日本人だという情報がある」
梁智衡の眉がわずかに動いた。
(シュウたちのことか……。
マフィアが彼らを狙い、それが日本への攻撃に繋がっている?
だが、前崎がそれを知らないはずがない)
その時、議場の巨大な扉が、重々しい音を立てて開け放たれた。
「……日本のプレジデント、ミスター前崎が到着しました!」
近衛兵の悲鳴に近いアナウンス。
「やっとか……。
どんな見苦しい謝罪を聞かせてくれるのやら。
今回の議題に関してもね」
「日本人は謝るのだけは得意ですからね」
欧州の代表団が冷ややかなジョークを飛ばすが、彼らの言葉はすぐに喉の奥で凍りついた。
「し、しかし……そのまま入場させるのは、あまりに……!」
「何を言っているんだ君は!早く通せ!」
メイケン首相が、自国の近衛兵を睨みつけ、無理やり前崎を通させた。
「気にするな。……ありがとう」
前崎の声は、驚くほど静かだった。
だが、その姿は、およそ国際平和会議に相応しいものではなかった。
新調したばかりの、最高級ブリオーニのスーツ。
その美しいグレーの生地が、どす黒い返り血で無惨に染まっていた。
「おい……前崎……その格好は、なんだ……!?」
ゴードン大統領が絶句する。
それは怒りではなく、本能的な恐怖だった。
「いやぁ、申し訳ない。
来る途中でマフィアの端くれに襲われましてね。
住民を安全圏へ避難させたのち、少々掃除をしてきました。
幸い、イタリアの法律が正当防衛に寛容で助かりましたよ」
返り血を拭いもせず、前崎は円卓の中央へと歩み寄る。
その足音が、静まり返った大広間に残酷に響く。
世界中の首脳が戦慄した。
この男は、暗殺者たちを「自らの手」で、文字通り屠ってきたのだ。
「すいませんが、この後イタリア警察に念のため事情聴取を受けに行かねばなりませんので。
……話は簡潔に済ませましょう」
前崎は、懐から血の付いていない真っ白な紙を取り出し、叩きつけるように置いた。
【大日本帝国継承宣言:要求項目】
米軍の完全撤退: 日本国内の全基地からの即時撤退。
駐留経費の支払いは本年度をもって終了とする。
サンフランシスコ条約の破棄、および再加入:
旧条約を破棄し、新たに『Nippon』として国際秩序に再定義する。
交戦権の回復: 国家としての「戦争を行う権利」の完全なる保有。
国軍の創設: 自衛隊を解体し、正規軍『日本国防軍』を組織する。
「……以上だ。異論は、私が取り調べを終えて戻るまでに賛成か反対か。
認めておいてくれ。
後のことは彼に任せてある」
一ノ瀬が頭を深々と下げる。
そう言い残すと、前崎は一ノ瀬すら置いて、悠然と議場を去っていった。
静寂。そして、爆発的な混乱。
ヴァザーリの壁画が見守る中で、世界秩序は一瞬にして崩壊した。
この日を境に、フィレンツェ国際平和会議は、不眠不休で5日間にわたる地獄の論争が計画されることとなる。
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「ハリウッドのアクションスターでも、ここまではやらんぞ……」
「香港の武術映画でもお目にかかれない代物ですね」
首脳会議の合間、わずか10分間の休憩。
張り詰めた緊張を解くはずのその時間は、全世界を駆け巡った「ある映像」の検証作業へと消えた。
大型モニターに映し出されているのは、フィレンツェの路地裏から見える道路の映像。
大統領専用車両に跨り、目的地へ急ぐ前崎の車列を、マフィアの重武装集団が強襲した瞬間のドライブレコーダー映像だ。
左右から防弾仕様のトラックが体当たりを仕掛け、逃げ場を失った前崎の車両に対し、近代化改修されたトンプソン短機関銃――通称「シカゴ・タイプライター」の銃火がハチの巣にせんばかりに浴びせられる。
だが、そこからの光景は物理法則を嘲笑っていた。
車両が横転する寸前、前崎はドアを蹴り破って脱出。
弾丸の雨を紙一重で掻い潜りながら、手にしたハンドガンで最寄りの暗殺者に肉薄。
ゼロ距離で脳幹を撃ち抜くと、崩れ落ちる敵から短機関銃を奪い取った。
そこからは一方的な「蹂躙」だった。
正確無比な射撃で敵を同士討ちへと誘い込み、増援の車両を爆発させ、わずか数分で現場を静寂へと変えたのだ。
特筆すべきは、彼の護衛官「Hound」たちが、前崎の指示によって一切の戦闘に参加せず、周辺住民の避難誘導にのみ専念していた点だ。
まるで、主の命を心配する必要など、微塵もないと分かっていたかのように。
結果、一般市民の死傷者はゼロ。
この映像は即座にSNSへ流出し、海外のネットユーザーからは「J-ActionSuper Star」と熱狂的に支持される一方で、あまりに非人間的な動きから「最新のAI生成によるフェイク動画だ」という疑念すら飛び交っていた。
「……確認する。これは現物の、未加工の動画なのだな?」
「はい。暗号化されたドライブレコーダーの生データ、および付近の監視カメラ数台の映像を照合済みです。
矛盾点は、何一つとして発見されませんでした」
「……化け物め」
アメリカのゴードン大統領が、吐き捨てるように言った。
傍に控えていた一ノ瀬を八つ当たりするかのように睨みつける。
それに一ノ瀬は笑顔で答える。
思わず舌打ちをしてしまう。
(イエローがッ……!)
スキャンダルや失言を突いて政治家を引きずり下ろすという既存の政治の椅子取りゲームにおいて、これほどまでに「個の武力」で大衆の支持を勝ち取る手法は、反則以外の何物でもない。
まるでアレクサンドロス大王だ。
「ですが大統領、たった一人の超人がいたところで、近代兵器を揃えた軍隊の前には無力ではありませんか?」
ゴードン大統領の側近が当然の声をあげる。
「……一人ではないだろ」
静かに口を開いたのは、中国の梁智衡だった。
「日本は、兵士の個体性能を極限まで引き上げる超人化計画、あるいは神経接続による肉体改造に手を染めていると見るべきです。
前崎は、その完成形に過ぎない。
……もし、ああいった個体がニューヨークや北京の街中に、数千人規模で解き放たれたらどうなるか。
もはや核兵器すら無意味な、最悪のゲリラ戦になる」
(ホログラム転送装置に、この個体戦力……。
にわかに信じがたいが、日本は我々の想像を絶する切り札を隠し持っている)
梁の脳裏には、天津でビルを切り裂いたあの化け物たちの影がよぎっていた。
「それに……世論の風向きが変わりました。
現時点の全世界投票では、日本の主権回復案に対する賛成が多数を占めています。
特にイスラム諸国が、日本の米軍撤退要求に同調し、強力な支持を表明しました」
「……何だと?」
「ゴードン大統領。……アメリカ軍は、日本から出ていくことになるでしょう」
梁の言葉に、ゴードンは思わずテーブルを拳で叩きつけた。
「ふざけるな! 世界の軍事バランスはどうなると思っている!?
日本が暴走すれば、アジアの秩序は……!」
「……私は、日本と組むことにしました」
冷徹な梁の宣言に、議場は再び凍りついた。
「梁! 貴様、何を言っている!?」
「最初は、ただの誇大妄想狂がトップに立っただけだと思っていました。
だが、前崎は違う。
あくまでサンフランシスコ条約の再加入を望んでいる。
ということは自立した国を作るつもりのようだ。
まだ話の通じる相手とみるべきでしょう。
……ただし、組むには条件はありますがね」
梁は、アメリカの大統領を宥めるように、しかしその瞳には蛇のような狡猾な笑みを浮かべて続けた。
「明日の朝、イタリア警察の取り調べを終えて、彼が無傷でこの議場に戻ってこれたなら……。
その時が、世界の勢力図が書き換わる瞬間になるでしょう」
その笑みの裏には底知れない悪意があった。
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マフィアを往来で殺したとは言え、前崎が逮捕されない理由は、大きく分けて三つある。
第一の理由。
それは「外交特権」という名の不可侵の鎧だ。
ウィーン外交関係条約に基づき、一国の首脳たる前崎は、訪問先の刑事裁判権から完全に免除される。
たとえ白昼堂々、現地の有力者を射殺したとしても、イタリア警察には彼を拘束する法的根拠がない。
彼の身体、滞在するホテル、移動に用いる車両――そのすべてが「不可侵」であり、手出しをすれば即座に国際紛争を意味する。
第二の理由。イタリア国内法における「正当防衛(Legittima difesa)」の成立だ。
仮に外交特権を脇に置いたとしても、イタリア刑法第52条が彼を守る。
マフィアが殺意を持って襲撃してきた以上、それに対抗して引き金を引くことは命を守るための「やむを得ない措置」として法的に認められる。
比例性の原則に照らしても、この流血は「正当な防衛」の範疇に収まるのだ。
第三の理由。政治的・外交的な「落としどころ」である。
法よりも優先されるのは常に国益だ。
イタリア政府にとって、サンフランシスコ条約の重要会議をホストしている今、自国の首都で首脳が襲撃されたという失態は、何としても隠蔽したい「恥」に他ならない。
相手は国にとっても癌であるマフィアだ。
死んでも誰も悲しまない。
公式記録は既に書き換えの準備が進んでいる。
「テロリストの襲撃を、警護官が未然に防いだ」
――それが明日、世界が共有する唯一の真実となる。
「っていうことですか。
……全部、狙い通りだったってわけですね?」
ホテルの自室。
一ノ瀬が恐る恐る尋ねると、前崎はネクタイを緩めながら短く答えた。
「あぁ。だが、これほどすんなり帰されるとは思わなかったな。
証拠をしっかり取り揃えていてよかった」
「今、会議は大変なことになっていますよ。
各国の代表が五日間も徹夜で協議を続ける予定だそうですよ。
僕はある程度休んでいるので平気ですが」
「気の毒にな。その分、我々は休ませてもらおう」
前崎はそう言って、重たい体をベッドに投げ出した。
一ノ瀬はその背中を見つめながら、底知れぬ恐怖に近い疑問を抱く。
この男は、これほどの知識をどこで蓄えたのか。
なぜ、ここまで躊躇なく行動を起こせるのか。
失敗したときはどうするのか。
外を見れば、ホテルの周囲を埋め尽くすほどのパトランプが回っている。
イタリア政府の意地か、あるいは罪滅ぼしか、尋常ではない数の警備が固められていた。
しかし、一ノ瀬の胸騒ぎは収まらない。
「襲撃が……この程度で終わるとは思えない」
そう思わざるを得なかった。
だが不安を消すために話しかける。
「あ、前崎さん。寝る前に一ついいですか?」
「なんだ」
「昨日、シチリアのマフィアと会談していたじゃないですか?
話はまとまったはずです。
なぜ我々襲われたんですか?」
一ノ瀬が部外者として締め出された、密室の会合。
一定の不安があったが相手側の武装解除により前崎は話し合いに臨んだ。
「いや、破綻した」
「まあ、そうですよね……反社会組織ですもんね」
「違う。お前たちでは足手まといだと断っただけだ」
「何が、です?」
前崎は無造作に電子デバイスを一ノ瀬に向けた。
画面には、中国のとある高層ビルが、まるで豆腐でも切るかのように斜めに滑り落ちていく映像が流れていた。
「こいつを殺したいそうだ。だから協力しろと言われた。
しかも呼び出せとも言われた。
それを断っただけだ。
そこから腕のある若者が舐められたと暴走した結果らしいがな。
というより、なぜかヨーロッパでは俺の部下となっているらしいこいつは。
世論の統制か誘導か。傍迷惑な話だ」
前崎の話は一ノ瀬の耳に入ってこなかった。
なぜなら前崎に渡された動画がそれほどまでに目を釘付けにしたからだ。
「……人間に、これができるんですか?」
「主犯はお前も知っている人間だぞ。
『アダルトレジスタンス』のシュウだ」
「あの子どもが!?」
生きていることは知っていた。
前崎に伝えたのは自分だ。
だがこんな尋常ではない力を持っているとは思わなかった。
「4年たってあいつも20歳だ。
化け物になったな」
「確認ですが、本当に人間にこれができるのですか……?!」
「できるらしい。
SNSでも同様のものが流れている。
生きているどころか、随分と景気がいいらしい。
こいつに巨額の懸賞金がかかっている。
ダークウェブで流れてきた。
ちなみに俺らもその手のリストに載っているぞ」
「被害は?」
「そこにいた中華マフィア1800人全滅だそうだ。
まあホテルの営業の人間も全員な。
殲滅するつもりだったとみるべきだろうな」
「……ここを襲ってくる可能性は?」
「このホテルではあり得ん。
流石に騒ぎが大きすぎる。
やるなら帰路、飛行場が狙い目だろうな」
「なるほど……」
「というわけで寝るぞ。明日に備えろ」
「わかりました。電気を消します」
パチン、と暗闇が部屋を支配した。
その直後だった。
腹の底に響くような、巨大な破砕音。
突如として、平衡感覚が消失した。
足元から床が、いや、建物そのものが傾いていく。
制御不能の浮遊感。
一ノ瀬が窓の外に目をやったとき、そこにあったのは夜景ではない。
猛スピードでせり上がってくる「地面」だった。
(ビルが、切られた――)
その事実を脳が理解するまでに、あまりに長い五秒間を要した。




