File:019 フィレンツェ
アルノ川の水面は、沈みゆく陽光を吸い込んで溶けた金のように揺らめいている。
ヴェッキオ橋の上にひしめく宝石店の窓は、放たれた最後の残光を反射し、通り過ぎる人々の瞳をしばし眩ませた。
空を突くのは、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の巨大な円蓋。
その赤褐色のタイルが夕闇に沈む直前、一瞬だけ燃え上がるような紅蓮の輝きを見せる。
この圧倒的な静寂の塊は、ルネサンスの熱狂も、メディチ家の栄枯盛衰も、そして幾多の血塗られた陰謀も、すべてをその内に飲み込み、悠久の時を刻んできた。
路地を曲がれば、どこからか漂う伝統的なタンニン鞣しの革の匂いと、誰かが爪弾くチェロの切ない音色が重なり合う。
フィレンツェ――「花の都」の名を冠したこの街は、冷徹な石の感触と芸術の熱情が、奇跡的な均衡を保ったまま呼吸を続けている。
歴史という名の重厚なインクで綴られた、この街の物語へようこそ。
――ガリバー・E・タマクロー著『世界旅行記』より抜粋
「なるほど。これが世界を魅了する『花の都』ですか。
文化的価値の高さは、これまでのどの都市とも比較になりませんね」
一ノ瀬は手元の古びたパンフレットに目を落としながら、観光客らしい感嘆の声を漏らした。
カジュアルなチノパンにバックパックを背負ったその姿は、どこからどう見ても異国の地を愉しむ善良な日本人旅行者にしか見えない。
「ああ。ここを国際会議の場に選ばれたのには、相応の理由がある」
隣を歩く男――前崎英二が、サングラスの奥で古都の街並みを鋭く見据えた。
「……例えば、どのような?」
「抑止力だ。
これほどの歴史的価値を持つ都市が戦火に包まれれば、破壊者は国際的に永遠の文化の敵として認定される
この街そのものが、強力な人質というわけだ」
「なるほど。
相変わらずの徹底した政治的合理性への知見、恐れ入ります。
……それはそれとして、前崎さん。
さっきからずっと気になっているんですが、一ついいですか?」
「なんだ?」
一ノ瀬は足を止め、隣の男の全身を改めて、心底呆れたように眺めた。
「なんですか、その型落ちのロックスターみたいな格好は」
前崎の身を包んでいるのは、場違いなほど光沢のある黒のライダースジャケット。
指には大ぶりなシルバーリング、首元には重々しいネックレスが揺れている。
フィレンツェの洗練された街角で、そこだけが別の時間軸から迷い込んだかのような違和感を放っていた。
「……普段はスーツしか着ないから、私服というものを持っていない。
仕方がないだろう、この近くの露店でそれらしいものを買ったんだ」
「私服=派手な革ジャンという発想がすでに独裁者レベルでズレてるんですよ。
目立ちすぎて、隠密行動も台無しです。
着替えましょう」
一ノ瀬に半ば強引に引きずられ、前崎は高級ブティックが立ち並ぶ通りへと連行された。
数分後、比較的落ち着いたカジュアルウェアに着替えたものの、今度は逆に隠しきれない「権威」のオーラが服から浮き上がってしまう。
「……ダメだ。やっぱり、あなたにはスーツしか似合わない」
「言っただろう。勝手なことを……」
「待ってください。
この街なら、これ以上の選択肢はありませんから」
一ノ瀬が指差した先。そこにあったのは、『Brioni』の重厚な看板だった。
映画『007』のジェームズ・ボンドが愛用し、世界中のエグゼクティブを虜にしてきた、イタリアが誇る究極のテーラー。
「ここで一着、仕立てましょう。相応しいやつを」
入店すると、上質な香水の香りと、静謐な空気が二人を包み込んだ。
「いらっしゃいませ。どのような一着をお求めで?」
「彼にスーツを。……可能な限り、動きやすいものを」
一ノ瀬の注文に、老練な店員が恭しく頷き、テキパキと前崎の採寸を始めた。
前崎は憮然とした表情で、なすがままに腕を広げている。
その様子を、受付の若い女性スタッフが、どこか落ち着かない様子で窺っていた。
彼女の視線は、店内の二人ではなく、店の外に配置された人間に向いている。
明らかに堅気ではない。
「あの……失礼ですが、お客様はどういったお立場の方なのでしょうか?」
彼女が、一ノ瀬に控えめな声で尋ねた。
「どういった、とは?」
「その……外のガードマンの方々があまりに物々しいので。
あの方々の胸元の紋章を何かで見たことがございますし……」
一ノ瀬は苦笑し、店の外で周囲を威圧するように立つHoundを見た。
先ほどまでは影のように顔も姿も隠していたが前崎がこんな無防備な姿を晒す以上は警戒する必要がある。
独裁者の守りは、花の都の美観を持ってしても隠しきれるものではなかった。
「ああ、気になさらず。ただの有名人ですよ」
「有名……人?」
彼女はそれ以上問いかけるのをやめたが、会計のために提示されたクレジットカードの氏名を見た瞬間、その指先がわずかに震えた。
Eiji Maezaki.
いま、全世界のニュースを、そしてネットのトレンドを埋め尽くしている「東洋の独裁者」。
サンフランシスコ条約脱退を宣言し、世界秩序を揺るがしている張本人が、目の前で静かに袖を通している。
彼女はプロフェッショナルだった。
顔色一つ変えず、完璧な所作で決済を終え、最上級の礼で見送った。
だが、店が閉店時間を迎えたその夜。
彼女は震える手で電子デバイスを取り出し、恋人へのメッセージアプリを開いた。
『ねぇ、信じられない。
今日、あのアジアの独裁者がうちの店に来たの。
……そう、ニュースのあの人よ』
送信ボタンを押す。
そこには監視カメラの画面越しに撮った写真も載っていた。
その相手は、龍門と深い繋がりを持ち、フィレンツェの裏社会を牛耳るマフィアの下っ端だった。
黄金の都を照らしていた太陽は完全に沈み、血のように赤い夕闇が、死神たちの狂宴の始まりを告げようとしていた。
その夜。
とあるホテルで前崎とシチリアのマフィアが会話することになった。
「あの日本人の青年を殺すのに手をかしてくれないか?」
それがそのボスの第一声だった。




