File:018 独房の隣人
長谷部は、もはや感覚の失せた指先を動かし、無機質な刑務作業を繰り返していた。
人間とは恐ろしいもので、あんなに拒絶反応を示していた強制労働の疼きにも、身体は次第に順応し始めていた。
かつての市役所勤めでは考えられなかった肉体労働の苦しさが、現実逃避する頭を今では彼を辛うじて現実に繋ぎ止める唯一の錨となっていた。
だがプライドは崩れ去っていった。
そんな彼が現在一心不乱になっているものがあった。
一冊のノートと、一本のボールペンだ。
「バカが……!抜け抜けとこんなものを寄こしやがって!!」
最初は、これがどれほどの価値を持つのか自分でも判然としていなかった。
だが今では確信している。
この筆致こそが、腐りきったこの場所の真実を後世に叩きつけるための「唯一の法的証拠」になると。
「いじめや不正を暴く際、最も有効なのは『改竄の余地のない記録』だ」
それはかつて彼が役所の窓口で学んだ、自己防衛の極意だった。
日記形式で綴られた克明な記録。
あえて修正テープを使わず、インクの乾き具合や掠れで「いつ、その瞬間に書かれたか」を証明する。
これを一つずつ、教師、教育委員会、警察、メディア……と、解決の兆しが見えるまで告発のランクを上げていく。
彼は知っていた。正義感で動く人間など、この世にはほとんど存在しないことを。
だが、「自分に火の粉が降りかかる恐怖」で動く人間なら掃いて捨てるほどいる。
誰かが怯えて動くまで、このノートを弾丸として撃ち続ける。
その世論の砲撃で、このふざけた制度を根底から粉砕する。
それだけが、今の長谷部を突き動かす昏い情熱だった。
報酬としてもらったものだが、冷静になってこういう使い方をするべきだと自然に思った。
感情的に何かを判断すると碌なことがない。
この状況では無理があることかもしれないが。
……もうかなり書き込んだ。
余すことなくすべて。
ノートの余白はもう、風前の灯火だ。
だが、そこには市役所時代に鍛えた端正な文字が、怨念のようにびっしりと、それでいて誰が読んでも明白なほど綺麗に並んでいた。
その時、静寂を破るように独房の小窓がノックされた。
「Hound」の紋章を胸にも刻んだ刑務官の冷ややかな目が、覗き窓から差し込む。
「独房の静けさにも飽きただろう?
明日からは集団作業に回ってもらう」
「……断る。私の権利だ。
国の弁護士と接見し、正式な抗議を行うまではな」
長谷部はノートを隠しながら、精一杯の拒絶を口にした。
だが、刑務官の口元に浮かんだのは嘲笑だった。
「残念だったな。
お前の弁護を申請したリスト……全員から拒絶の回答が来た。
お前を助けようとする奇特な法律家は、この国には一人もいないらしい」
「……そんな、馬鹿な! 全員だと!? 誰の差し金だッ!!」
長谷部の絶叫が、冷たいコンクリートの壁に跳ね返る。
希望という名の細い糸が、音を立てて断ち切られた瞬間だった。
だが、その時。
刑務官の腰に下げられた旧式のトランシーバーが、耳障りなノイズと共に声を上げた。
『――こちらゲート。
独房102番の長谷部についてだ。
緊急の面会希望者が到着した。
……特例だ、直ちに会わせろ』
刑務官の表情から余裕が消える。
彼は眉をひそめ、信じられないといった様子で通信に応じた。
「……何だと? 相手は誰だ。
……分かった、すぐに連れていく」
刑務官は不機嫌そうにキー束を鳴らし、重い鉄扉を開放した。
「運がいいな、長谷部。お前に客だそうだ」
「……客だと?」
弁護士からも見捨てられた自分に、誰が?
長谷部は混乱する思考を抱えたまま、重苦しい足取りで、光の届かない廊下の先にある面会室へと引き立てられていった。
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アクリル板越しに現れたのは、色褪せた記憶の中にある男の顔だった。
「……萩野……か?」
「久しぶりだな、長谷部。
……少し、痩せたんじゃないか?」
学生時代からの親友、萩野。
その変わらぬ落ち着いた声を聞いた瞬間、堪えていたものが決壊しそうになった。
ここに来たということは、萩野は自分が犯した醜い罪を知っているはずだ。
かつての同級生に、今の惨めな囚人服姿を見られている。
その事実に対する猛烈な羞恥心と、それでも会いに来てくれたことへの安堵が混ざり合い、視界が熱く、ぐしゃぐしゃに歪んだ。
「面会時間は20分だ。余計な接触は慎め」
背後に立つ看守の冷徹な声が、ここが現世ではなく「檻の中」であることを残酷に突きつける。
だが萩野は気にした様子もなく、目の前の長谷部と向き合う。
「……思うところがあるだろうが時間がない。
話してもいいか?」
「……なぜ、お前が。
俺はもう、社会から見捨てられただろう?
そんな俺になぜ……?」
「単刀直入に言う。弁護士を連れてきた」
掠れた声で問いかける長谷部に、萩野は真っ直ぐに視線を合わせて断言した。
それは、暗闇を漂っていた長谷部にとって、あまりに眩しい救いの手だった。
「弁護士だと!?
……だが、どの事務所からも『この件は引き受けられない』と拒絶されたと聞いた。
前崎政権の顔色を窺って……」
「その通りだ。
というより現在弁護士は動こうにも動けない。
今の日本は、前崎の手によって法そのものが歪められてしまった。
彼の胸三寸で、加害者と被害者の立場がひっくり返ることもある、狂った時代だ。
だが……その独裁も、もうすぐ終わるかもしれない」
「終わる……? 冗談だろ、奴の支持率は盤石だろう?」
「幸いだったのは、奴があらゆる悪法を『一括法案』として一気に提出し、成立させたことだ。
おそらく国民の混乱を避けるためだろう。
しかも厄介なことに相当考えられている。
とても一人では考えられないほどにはな。
だがそのおかげで後出しジャンケンで法律を逐一変えられる隙を、奴自ら埋めてしまった。
今、その法の『穴』を突くために動いている連中がいる」
萩野の言葉は熱を帯びていく。
「可能性はゼロじゃない。
もちろん、相手は巨大な権力と軍拡を進める現首相だ。
だがな、長谷部。
奴のやり方は人権を無視している。そこを突く」
「人権……か」
長谷部は、市役所時代に何度も唱えた言葉を反芻した。
公務員として守るべきだった、しかし今の社会では半ば無視されて扱われている概念。
【自然権】
人が生まれた瞬間から、剥奪されることなく保有している絶対的な権利。
自由権: 居住、信仰、表現の自由。誰にも縛られない権利。
社会権: 人間らしい生活を営む権利。教育を受け、労働の対価を得る権利。
参政権: 政治に参加し、自らの意思を反映させる権利。
平等権: 人種、性別、信条によって差別されない権利。
「……確かに。
たとえ超監視社会になったとしても、これだけは土足で踏みにじっていい領域じゃないはずなのはわかる。
だが、萩野……俺は罪を犯したんだぞ。
酒に酔っていたとはいえ、取り返しのつかないことをした。
それだけで、俺に権利を主張する資格なんて……」
「出所できると言っているわけじゃない。
お前の犯した罪は、お前自身が一生背負っていくものだ」
萩野の突き放すような、しかし誠実な言葉に長谷部は肩を落とした。
「だが、お前の扱いが不当である事実は別だ。
俺は、お前という事例を使って、今の政府に「NO」を叩きつけてやる。
圧倒的に不利な戦いだがな」
「……待て。萩野、お前、一体何の仕事をしてるんだ?」
「政治家だよ」
「……政治家?」
あの萩野が……随分立派になったものだ。
どうしてそういう人生を歩むようになったのだろう……。
「地方議員に過ぎないがね。
だが、公務員時代のお前の実直さを知っている身として、今のこの騒動を黙って見過ごすことはできなかった。
抵抗してやるさ、とことんな」
「……ありがとう、萩野。本当に……」
「礼を言われる筋合いはない。
まだ、やろうと決めただけだ」
その時、背後の看守が時計を叩き、鋭い声を浴びせた。
「20分経過だ。面会終了、速やかに退室しろ」
「……いや、看守さん。言ったでしょう?
連れがいるんだ」
萩野が落ち着いた手つきで制すると、もう一人の人影が面会室へと足を踏み入れた。
「すみません、一般面会時間の後に少し手続きがありまして。
お待たせしました」
穏やかだが、一切の隙を感じさせない声。
現れた男の胸元には、天秤を象った十六八重表菊のバッジが鈍く光っていた。
「弁護士の剣持礼司です。
長谷部さん、よろしくお願いします」
「先生の剣持さんだ。
……じゃあな、長谷部。また会いに来る。
それまでは死ぬなよ」
萩野はそう言い残し、面会室を去っていった。
残された長谷部は、目の前の戦うための専門家を凝視した。
「看守さん、あんたもだ。
弁護士の接見は法で保障されている。
これ以上妨害すれば、職権濫用で即座に訴えることになるが、いいかな?」
「……分かった。だが場所を移す。
ここ(アクリル板越し)ではなく、特別面会室だ」
剣持の鋭い追及に、看守が舌打ちをしながら重い腰を上げた。
鉄格子とアクリル板に隔てられた面会が、権力に抗うための戦略会議に場所を移された。
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「さて、改めて。剣持礼司です。
よろしく、長谷部さん」
「……長谷部です。よろしくお願いします」
長谷部はまだ、自分の置かれた状況を飲み込めていなかった。
目の前の男は、絶望の淵にいた自分を「救出対象」だと断言している。
「私たちは萩野さんたちと連携し、現政権下で不当に拘束、あるいは非人道的な扱いを受けている人々の救済を目的としています。
もちろん、あなたもその一人です」
「……不当、なんですかね。
私は確かに罪を犯した。
法に従ってここにいるはずですが」
「少なくとも、この『Hound』が運営する収容施設の環境、
そしてあなたに課せられている刑務作業の実態を法に照らせば、明白な人権侵害です。
少しは調べさせてもらいましたよ」
「調べた……? 弁護士の接見すら拒否するような場所を、どうやって?」
「まあ、外周から建物の構造を観察した程度ですがね……。
不気味な建物ですよ。
ここは山を切り開き、公的な記録にも残らぬ速さで、一夜にして完成した。
まるで墨俣城ですよ。
作ってあったものをここに置いた方がまだ納得できる」
剣持の言葉に、長谷部は背筋が凍るのを感じた。
市役所に勤めていた彼にはわかる。
これほどの大規模施設が、正規の手続きを経て「一夜」で建つはずがないのだ。
「内部の視察も、行政への照会もすべて門前払いでした。
実態を暴くには、内側からの声が必要なんです。
唯一できたのはこの面会でした。
法廷にはまだ中々立てませんがね。
だからこそ、あなたの力を借りたい」
「……なぜ私なんですか?」
それが長谷部の中では一番の疑問だった。
「あなたが逮捕された中で一番経歴が高かった人物であり、
なおかつ萩野さんに協力する条件として弁護を頼まれました」
「あいつ、そこまで……
ですが、私にここからできることなんて……」
「いえ。これがあります」
手にあるのはレコーダー。
「これで録音して世間に公表します。
今からあなたの声を訴えてください」
「……そんなことで」
「多くの人間を巻き込むことが重要です。
まずは共感を得ます」
「わかりました……」
そこで思い出す。
あの存在を。
「ちょ……ちょっと待ってください!
剣持さん!」
剣持の視線が、長谷部が大切そうに抱えていた、ボロボロのノートに向けられた。
「……これ。剣持さん、見ていただけますか。
今まで私がここで受けてきた仕打ち、監視役の発言、労働環境のすべてを記録しました。
役に立ちますか?」
剣持は受け取ったノートを、一頁ずつ丁寧に捲っていく。
長谷部の端正な、しかし執念の滲んだ文字が埋め尽くされているのを見て、剣持の口元に鋭い笑みが浮かんだ。
中には血の滲んだページもあった。
「……長谷部さん。これは素晴らしい。
グッドジョブなんて言葉じゃ足りない。
非の打ち所がない、完璧な証拠です。
さすがお役所の人間だ」
「ほ……本当ですか!? 役に立つんですか!」
「ええ。これだけの詳細な記録があれば、法廷で政権の非道を叩き潰す武器になります。
長谷部さん、これからも書き続けてください。
……ああ、でもノートがもう足りませんね」
剣持は鞄から、一冊のノートを取り出し、机の上に滑らせた。
それは長谷部が今まで使っていた安物とは違う。
重厚な革製の表紙に、万年筆でも裏写りしないような上質な紙が綴じられた、一種の「風格」すら漂うノートだった。
「い……いいんですか? こんなに立派なものを」
「構いません。これからは、より『こと細かく』お願いします。
感情ではなく、事実を。
カメラのように記録してください」
「こと細かく、とは……?」
「天気、正確な時間、場所、誰が、誰に対して、どんな言葉を使い、どんな暴力を振るったか。
あなたの役所的なまでの几帳面さが、この腐った制度を揺るがす最大の武器になる。
あなたにしかできない戦い方です」
「……わかりました。やります。やってみせます」
長谷部の瞳に、絶望ではない、暗く静かな反撃の火が灯った。
「では、本日はこれで。
一週間ごとに進捗の確認と、差し入れを持って参ります。
……一人ではありませんよ、長谷部さん」
「ありがとうございます。……お待ちしています」
看守が扉を開け、長谷部を連行しようとする。
だが、その背筋はかつての憔悴しきった囚人のものではなかった。
この日から、巨大な権力の歯車を逆回転させるための、長谷部の「静かなる執念」が始まったのである。
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鉄格子が重々しい音を立てて閉まり、看守の足音が遠ざかる。
独房という名の静寂に戻った瞬間、長谷部は胸の内で煮えたぎる歓喜を、声を殺して爆発させた。
「よし……っ! よし、よしッ!!」
小刻みに震える手で、剣持から手渡された革表紙のノートを強く抱きしめる。
これまで、自分はただ踏みつけられるだけの「哀れな犠牲者」だと思っていた。
だが、今は違う。
この一冊が、前崎政権という巨大な怪物の喉元を食い破るための「牙」になる。
かつて書類の山に埋もれていた一介の公務員が、その几帳面さを武器に国家へと反撃を仕掛ける――。
こんなに愉快な逆転劇が、他にあるだろうか。
「待ってろよ、前崎政権……!
貴様らの欺瞞、このノートで全て暴いてやる!」
高揚感に耐えきれず、彼は独房の分厚い扉を力任せに叩きつけた。
硬い金属音が冷たい廊下に反響する。
「……ちょっと。さっきからうるさいんだけど?」
突然、すぐ隣から降ってきた声に、長谷部は石のように固まった。
声は、隣の独房との仕切りにある通気孔か、あるいは影のように薄い壁の向こう側から聞こえてきた。
しかし、驚いたのはその距離ではない。
「……じょ、女性……?」
信じられない思いだった。
通常、刑務所は厳格に男女で分けられる。
ましてやこのような特殊な収容施設ならなおさらだ。
それなのに、隣の檻に女がいるというのか。
「女がいて何か悪い?」
「い、いえ、そんなことは……。
ただ、驚いただけです。
ここは男性専用の区画だと思っていたので」
「ここが『普通』の場所に見えるなら、あんたの目は節穴ね」
低く、しかし鈴が鳴るような冷ややかな声だった。
長谷部は、自分が今しがた「反撃だ」と息巻いていた羞恥心を忘れ、思わず壁の向こう側の「存在」に興味を抱いてしまった。
「あの……お名前をお聞きしてもいいですか?」
「なんで? あんたにそんなこと教えなきゃいけない義理、あったかしら」
「すみません……失礼しました。
隣人の名前は憶えてないといけないと思いまして……」
「……名乗るなら、自分から名乗りなさいよ。
それが礼儀でしょ?」
突き放すような言い草だったが、対話を拒絶しているわけではなさそうだった。
長谷部は姿勢を正し、見えない隣人に向かって頭を下げた。
「……長谷部です。長谷部満。
元、地方の市役所職員です」
沈黙が数秒流れたあと、吐息のような声が返ってきた。
「……カオリよ」
「へっ……あの、名字は? どのような漢字を……」
「ただの『カオリ』。カタカナの。
苗字なんて、もうないわ。
そんなもの、ここじゃ何の役にも立たないもの」
カオリ。
その名に名字がないという事実は、彼女がこの異常な施設「ハウンド」において、単なる犯罪者以上の「何か」であることを示唆していた。
長谷部はノートを握りしめ、冷たいコンクリートの壁を凝視した。
この地獄のような檻の中で、記録者である自分と、苗字を持たぬ女。
運命の歯車が、また一つ不穏な音を立てて噛み合い始めた。




