File:016 ホテル『Longmen』掃討戦
最初の衝撃は、海を裂くような轟音と共に訪れた。
ホテル『Longmen』へと続く唯一の陸路である桟橋が、オレンジ色の猛火を上げて夜の海へと崩落したのだ。
「何事だ! 爆発か!?」
「窓を見ろ、道が消えているぞ!」
大ホールの煌びやかな静寂は、一瞬にして断末魔のような怒号へと塗り替えられた。
それだけではない。
地響きのような震動が建物の深部から這い上がり、最高級のクリスタル・シャンデリアが悲鳴を上げて床に砕け散った。
「落ち着きなさい!
龍門の人間が、この程度の不測の事態で取り乱すなど恥を知りなさい!」
大家姐の峻烈な叱咤がホールに響き渡る。
その老齢を感じさせぬ鋭い眼光に、浮き足立っていた幹部たちが一瞬だけ動きを止めた。
「報告を! 何者が仕掛けたのですか!」
「不明です! ですが、すでに桟橋は消失、退路を断たれました。
……大家姐、すぐに緊急避難を開始します! 予備の船を!」
「馬鹿を言え、船など狙い撃ちにされるだけだ! ヘリだろ!
屋上に待機させていたH160を出せ!」
一族の若頭たちが、我先にと屋上への階段へ駆け出していく。
その醜態を、大家姐は氷のような眼差しで見送った。
視線を窓の外、階下へと落とせば、すでに一階部分は激しい火の手に包まれている。
ここは4階。
上昇気流に乗った熱と煙が、建物を巨大な煙突へと変えようとしていた。
「教養のない馬鹿はこれだから困る。
火は上に昇るもの。
逃げ場のない屋上へ向かうなど、自ら窒息死を選びに行くようなものよ」
彼女は冷淡に吐き捨てると、傍らに控える屈強な男たちを振り返った。
「ついてきなさい。我々は正面から押し通るわ」
「YES, 大家姐」
答えたのは、彫りの深い顔立ちに冷徹な意志を湛えた男たち。
ロシアの血を引く混血の精鋭部隊――『カラマゾフの男たち』だ。
香港発祥のマフィアである龍門だが、その源流は国家安全部(MSS)にある。
かつてロシアのKGBから直接指導を受けたその技術は、暴力の質を異次元のレベルへと押し上げていた。
中でもこの『カラマゾフ』は、一族の中でも殺戮と護衛に特化した、大家姐直属の「牙」である。
カラマゾフが重厚な大ホールの扉を蹴り開け、周囲を警戒する。
すでに一階の反対側には、龍門が独自に手配した救急高速艇が接岸しているはずだった。
あとは、この火の海を最短距離で突破するだけだ。
だが、正面玄関のホールに辿り着いた彼らは、その足を止めざるを得なかった。
黒煙の向こう側。ゆらゆらと揺れる炎の中に、異様な影が立っていたからだ。
耐火スーツに身を包み、酸素ボンベを背負ったガスマスクの男。
男は手にした大型の火炎放射器から、容赦なく周囲の調度品に火を放っている。
退路を断つためではない。
逃げようとする獲物を、炙り出すためだ。
「敵だ! 殺せ!」
カラマゾフたちが瞬時に判断し、サブマシンガンの銃口を向けた。
躊躇のない掃射。
だが、放たれた弾丸は男に届く直前、空間に現れたハニカム状の青白い光に弾かれた。
「……バリアだと? 神経外骨格の偏向シールドか!」
男は一歩も引かない。
それどころか、炎を操る悪魔のように着実に距離を詰めてくる。
カラマゾフのリーダーが歯噛みした。正面突破は不可能。
この火力と防御を前に、大家姐を連れて進むのは自殺行為だ。
「裏口へ転進しろ! 厨房を抜けるんだ!」
「だめだ、すでにダクトから火が回っている!」
「窓はどうだ!? 飛び降りるしかないのか!」
逃げ道を塞ぐように、業火が壁を這い、天井を舐める。
酸素が薄れ、意識が混濁し始める中、大家姐たちはついに、閉ざされた防火扉の奥へと追い詰められた。
「くっそ……! 防火扉を閉めろ! 少しでも時間を稼ぐんだ!」
重い金属音が響き、炎の熱気が一時的に遮断される。
だが、それは同時に、自分たちが「巨大なオーブン」の中に閉じ込められたことを意味していた。
扉の向こう側。
炎の中に立つ男――ジュウシロウは、役目を終えた火炎放射器を無造作に投げ捨てた。
無線機を起動し、低く、冷徹な声で告げる。
『ネズミ共は、予定通り最奥の死角に追い込んだ。
……あとはシュウ、お前次第だ』
彼は腰から新たな獲物を取り出した。
炎に照らされ、神経外骨格が不気味に明滅する。
一族の命運を断ち切るための、終焉の時間が始まろうとしていた。
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大家姐は、目の前の光景にただ唖然とするほかなかった。
このホテル『龍門』は、不測の事態でも容易に占拠されぬよう、まるで要塞化されたテレビ局のように複雑な動線と無数の出入り口を備えている。
壁の一枚に至るまで、対戦車弾の直撃にも耐えうる特殊強化コンクリートで固められていたはずだった。
だが、その「絶対の壁」が、今、紙細工のように切り裂かれている。
噴き上がる火花と黒煙の向こうから、ガスマスクを装着した男が、血濡れのサムライソードを無造作に振り回しながら歩み寄ってくる。男の足元には、かつて「龍門」の誇りだった精鋭たちの、もはや原型を留めぬ肉塊が積み上がっていた。
「お、目標の獲物発見。ついてるね」
ガスマスクの奥から、緊張感の欠片もない軽薄な声が響く。
シュウは高周波ブレードに付着した脂を、掃除でもするかのような仕草で振り払った。
「――っ、殺せ! 殺しなさい!」
大家姐の悲鳴に応じ、生き残っていたカラマゾフの男が銃を構える。
だが、引き金に指がかかるよりも速く、シュウの腕が閃光となって奔った。
「あッ!?」
男の手首が、銃を握ったまま床に転がる。
悲鳴を上げる暇さえ与えず、シュウの剣は幾十、幾百の斬撃へと変貌した。
一瞬の後、そこに立っていた「最強の護衛」は、文字通りサイコロステーキのような細切れの肉片となって霧散した。
「……っ、ああ……っ!」
大家姐は腰を抜かし、崩れるように床に這いつくばった。
龍門の頂点として君臨してきた女のプライドは、理不尽なまでの暴力の前に、跡形もなく粉砕されていた。
足を踏みつぶされ逃げる手段を失う。
「あんま無抵抗な人間を切るのは趣味じゃねーんだけど。
まあ、仕事なんだ。
あんたも今まで散々、弱い奴らを弄んで悪いことやってきたんだろ?
お互い様さ」
シュウは事務的な口調で告げると、迷いなくブレードを突き出した。
鋭い切っ先が、大家姐の心臓を正確に貫く。
それを眺めるように持ち上げる。
だが、彼女はただでは死ななかった。
「あぁぁぁぁあぁぁぁぁッ!!!!」
執念だけで最後の一撃を繰り出す。
体に刃が刺さりながらも髪を結っていた簪を、至近距離からガスマスクの隙間に突き立てたのだ。
何かの偶然かそのガスマスクが粗悪品だったのか。
衝撃でマスクが弾け飛び、シュウの素顔が露わになる。
その顔を見た瞬間、大家姐の絶望に濁った瞳が、憎悪で真っ赤に燃え上がった。
「お……まえ……っ、貴様は……ッ!?」
それは、かつて自らの最愛の息子を、あのシンフォニアで冷酷に葬った写真の少年そのものだった。
「おまえぇぇぇぇぇぇ!!」
死に体の女が、喉をかきむしるような絶叫と共に再び簪を振りかざす。
だが、シュウの表情に動揺はなかった。
彼は無機質な目で女を見下ろすと、心臓を貫いた刃をそのまま横に薙ぎ払い、一気に彼女の生命活動を停止させた。
「会ったことあったっけ? ……まあ、いいや」
念押しと言わんばかりに、シュウは倒れた大家姐の眉間に再び刃を突き立て、脳を破壊した。
ターゲットの完全な絶命。
ミッション完了だった。
「くっそ。ガスマスクが外れちまった。
とんだ粗悪品だ。
最近の中国の物はいいっていうけど大したことないな」
シュウが通信を入れる。
『ジュウシロウさん。ボスクリアだ。離脱するか?』
通信機にシュウの声が乗る。
階下で残敵を掃討していたジュウシロウからの返信は冷徹だった。
『残党の処理がまだだ。徹底的に叩け。
一族の種を絶やすのが、今回の依頼の肝だからな』
『へーい』
乱暴に通信を切る。
(……めんどくさ)
シュウは正直、辟易していた。
屋上に上り、そこから下の階に向かってただ壁ごと敵を叩き切る作業。
不意を突き、リスクを最小限に抑えたこの作戦は、彼にとってあまりに「簡単」すぎたのだ。
強敵を相手に命を削り、自身の極限を超えてレベルアップすることを切望していたシュウにとって、この虐殺はただの単純作業でしかなかった。
それにガスマスクを外されて酸素が足りず敵を取り逃したというのを伝えるのがめんどくさい。
彼が深いため息をつき、ブレードを納めようとした、その時だった。
「おっ……!?」
脳の奥底、神経外骨格の深淵から、震えるような低い声が響いてきた。
――私にやらせろ。
「おっさん!?なんだよ!!珍しくやる気じゃねーの!!
飽きてたところだ!任せてやる!」
シュウの意識が薄れ、主導権が内なる「何か」へと移行する。
そのまま近くの窓からフレームを粉々にするほど力を込めて飛ぶ。
『ジュウシロウさん! すぐにそこを離脱してくれ!
“やっこさん”が……本気でやる気になっちまった!』
通信機から聞こえるケンの焦燥しきった声に、ジュウシロウは瞬時に察した。
『……わかった。信じるぞ』
ジュウシロウは即座に壁を拳でぶち抜きながら地下駐車場へと駆け込み、あらかじめ確保していた水中脱出路へと身を投じた。
対照的に流れていく夜空に体を翻しビルに向きなおったのはシュウ。
「おいおいおいおい!!何する気だ!? おっさん!!」
いや、やろうとすることは何となくわかる。
だが信じられない。
今からやることを本気でやろうとする奴なんていない。
シュウの天津の夜空で叫んだ直後だった。
シュウの頬に、古傷のような赤黒い紋様が浮かび上がり、その表情は一変した。
若さゆえの軽薄さは消え失せ、そこには死線を幾千回と潜り抜けてきた、歴戦の怪物だけが持つ凄絶な貌があった。
「……何。切れそうなものがあれば叩き切るのが男の子だろう?」
シュウの肉体を使った「彼」は空中にも関わらず抜刀の構えを静かに取る。
空中に張り詰めるのは、物理的な熱量を超えた集中による殺意。
「せやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
振り抜かれた一撃は、もはや剣術と呼べる領域を超えていた。
それは、残酷なまでに美しい芸術。
高周波ブレードの出力が限界を超えて臨界に達し、放たれた斬撃の波がホテル『Longmen』の巨大な構造体を、横一文字に、完璧な水平で叩き切ったのだ。
だがわずかに斜めだったようだ。
切られたことに気づいた巨大なコンクリートの塊が、重力に従ってゆっくりと滑り出す。
断層から火花を散らしながら、ホテル全体が横へと倒壊するようにずれ込み――。
逃げ場を失い、屋上や上層階へと逃げ惑っていた龍門の構成員、その家族、そして関係者を含む1,800人の命を、文字通り生き埋めにして沈黙させた。
重力に身を任せ、シュウの身体が夜空を落ちていく。
背後では、水平に断ち切られたホテル『Longmen』の巨体が、断層から凄まじい火花と轟音を撒き散らしながら、ゆっくりと、だが不可逆的に地へとずり落ちていた。
空中、シュウは猫のようなしなやかさで身体を捻ると、予備の高周波ブレードを抜き放ち、眼下の運河へと突き立てた。
超振動する刃が護岸のコンクリートをバターのように裂き、それを支点に棒高跳びの要領で大きく跳躍する。
対岸の森林公園に着地した時、背後では数万トンの瓦礫が大地を叩き、人工的な地震が天津の街を揺らしていた。
壊れた高周波ブレードをその場で投げ捨てる。
それは黒焦げになり、跡形もなかった。
「……また、つまらぬものを切ってしまった、というやつかな。これは」
シュウの口から漏れたのは、時代錯誤なほど静かで、酷く煤けた老兵のような声だった。
直後、頬に浮き出た赤黒い紋様が砂のように崩れ落ち、その瞳に少年の光が戻る。
「くく……っ、あは、あはははははッ!!」
堰を切ったように、シュウは笑い出した。興奮で肺が焼けつくようだ。
「すげー……すげーな、あんた!
ビルをあんな豆腐みたいに!
あれ、俺がやったのか!?
自分の手なのに信じられねえよ!」
意識の深淵に沈んだ「老人」への賞賛。
神経外骨格を通じて伝わる腕の痺れ、脳を焼くような高揚感。
他人の力でありながら、間違いなく自分の肉体が成し遂げたという生々しい実感が、彼を狂喜させていた。
だが、その歓喜を切り裂くように、背後から猛烈な殺気が飛来する。
シュウは振り返ることなく、首をわずかに傾けてそれを避けた。
直後、彼がいた場所の空気を、大口径の弾丸が爆音と共に食い破る。
放たれたのは、歩兵が扱うレベルを逸脱した、火力特化型のアサルトライフルだ。
「……せっかく人が気分良く浸ってたんだ。
邪魔すんなよ」
シュウが冷ややかに向き直る。
そこにいたのは、重厚なフルアーマー式の神経外骨格を身に纏った二人の「兵士」だった。
後に軍事マニアの間で『暴徒鎮圧用神経外骨格』と呼ばれることになる、重装甲の怪物だ。
「……貴様か。あの惨劇を引き起こしたのは。
その罪、万死に値する。ここで償ってもらうぞ」
機械音声で加工された威圧的な声と共に、二門の銃口が再びシュウを捉えた。
「やってみろよ。鈍亀が」
シュウの姿が掻き消えた。
不規則な高速機動。
センサーが追いきれず、重火器の掃射は空虚に森林の木々をなぎ倒すだけだ。
「銃ってのはな、数に物を言わせて密度の壁を作るか、相手が油断してる時にブチ込むから強いんだよ。
わかってる相手がこの速度で動いてりゃ、そうそう当たらねえんだわ」
一瞬にして間合いを詰める。
シュウの刃が、重装甲の継ぎ目――膝の関節部分を正確に弾いた。
「それとお前ら、メーカーの口車に乗せられすぎだぜ。
そんなデカい図体は、軍隊が暴徒をまとめて踏み潰すのには向いてるかもしれねぇが、
俺みたいな『専門家』を相手にするにはノロすぎる」
流れるような一閃。
武器を保持していたマニピュレーターが火花を散らして宙を舞った。
「俺たちが重装甲を選ばない理由を教えてやるよ。
……関節が『ここを狙ってくれ』って叫んでるように見えるからだ!」
咆哮と共に放たれた横一文字の斬撃が、ライオット神経外骨格の胴体を、中の搭乗者もろとも真っ二つに両断した。
「まあ、関節とか関係なく俺の腕だったら何でも斬れるけどな。
というかさぁ、ジュウシロウさんはどこ行ったんだよ。
あの人、火を付けただけでサボってんじゃないの?」
シュウは納刀することなく、ブレードの峰で自分の肩をポンポンと叩きながら、残されたもう一人の敵を挑発した。
その、あまりに無防備で傲慢な態度が、相手の理性という名の安全装置を焼き切った。
「てめぇ……舐めるなぁッ!!」
重装甲の男が取り出したのは、中国の歴史を象徴する武骨な大刀――青龍刀だった。
油圧シリンダーが悲鳴を上げ、純粋な出力に物を言わせた突進がシュウへと迫る。
(出力なら、こちらが圧倒的に上だ! 負けるはずがない……ッ!)
その確信が、鋼鉄の刃と共にシュウの顔面に叩き込まれようとした、その時だった。
「誰が火を付けただけだ、シュウ。
人聞きが悪い」
「――が、はッ!?」
横合いから突き出された拳が、突進するライオット神経外骨格の胸部装甲を、紙細工のようにぶち抜いた。
その襲撃者を見て驚愕する。
「ば……馬鹿な、この重装甲を、素手で……ッ!?
どんな装備をしてやがる!!」
内部の搭乗者が血を吐きながら絶叫する。
その拳の主――ジュウシロウは、感情の消えた瞳で男を見下ろした。
「……装備だけじゃない。鍛錬したんだ」
死刑宣告。
ジュウシロウの拳がさらに深くめり込み、装甲の破片が中の男の心臓を粉砕した。
その腕は背中を飛び出していた。
ゆっくりと拳を引き抜くと、鋼鉄の巨躯は糸の切れた人形のように泥の上に崩れ落ちた。
「遅かったっすね、ジュウシロウさん。
なんかトラブルでもあったんですか?」
「……お前がビルを切り落とすからだ。
落下する瓦礫の直撃を警戒して、しばらく水中に潜伏していただけだ。
余計な手間を増やしやがって」
「だけど、敵を一掃する手間は省けたでしょ?」
「……まあ、それについては否定せん」
ジュウシロウは溜息をつき、返り血を拭った。
結果が良ければ全て良し――それが彼らの共通言語だ。
「10億ですよ、10億!
一人あたり、日本円にして10億円!
……何します?」
シュウの問いに、ジュウシロウは燃え盛るホテルの残骸を振り返り、少しだけ目を細めた。
「とりあえず、まともな飯を食おう。
あの大会場で見た、名前も知らぬ豪華な料理が忘れられん」
「いいっすね! 北京ダックでも何でも、腹がはち切れるまで食いましょう!」
遠くから無数のサイレンが鳴り響き、阿鼻叫喚に包まれる天津の街。
その混沌のど真ん中で、二人の死神は、今日明日の食事について語り合うのんきな足取りで、闇の中へと消えていった。




