File:015 龍門
香港をルーツとするマフィア、張の一族。
彼ら『龍門』がその版図を広げるための拠点として選んだのは、活気に沸く南の広州や深圳ではなく、北の冷たい海風が吹き荒れる都市、天津であった。
一般的に中国の影響力ある四大都市といえば、北京、上海、広州、深圳の名が挙がるが、行政的な序列に目を向ければその貌は一変する。
北京、上海、重慶、そして天津。
中央政府の直轄下にあるこれら四市は、他とは一線を画す特権的な権限を握っている。
その中でも、天津という土地が持つ意味は龍門にとって極めて特殊であった。
最大の利点は、政治の中枢である北京との絶妙な距離感にある。
高速鉄道に飛び乗れば、わずか30分で首都の心臓部へ到達できるその近さは、中央政界へ無言の圧力をかけ続ける「最前線基地」として、これ以上ない戦略的価値を有していた。
徹底的な監視下に置かれ、呼吸一つさえままならない北京に対し、天津にはまだ裏社会の人間が潜り込めるだけの、ほどよい「隙」が残されている。
権力の階段を駆け上がろうとする野心家たちにとって、ここは影から帝都を睨み据えるための玉座に等しかった。
さらに、北中国最大を誇る天津港の存在が龍門の資金源を盤石なものにしている。
上海や広州といった南方の巨大勢力に対抗し、独自の物流網を掌握することで、彼らは検閲の目を逃れた大規模な密輸ルートを確立した。
また、この地は日本の大手自動車メーカーが数多く工場を構える産業の要衝でもある。
日系企業のサプライヤーがひしめき、多くの日本人が行き交うこの街で、龍門は表向きの経済活動にも深く根を張っている。
日本の技術力と、天津という土地が持つ行政の力、そして龍門の暴力。
これらが複雑に絡み合う利権の温床こそが、彼らが北の地に築き上げた揺るぎない牙城の正体であった。
天津の中心地、その喧騒から隔絶された人工湖——渤龍湖。
凍てつく水面に浮かぶ小島には、三つの桟橋からのみ繋がる、外界から切り離された巨塔がそびえ立っていた。
6つ星ホテル『Longmen』。
それは表向きの顔に過ぎない。
その実態は、香港から北の地へ根を張った巨大マフィア『龍門』の不落の城塞である。
地下駐車場には、防弾仕様のロールスロイスやフェラーリといった億単位の名車が、呼吸を潜める怪獣のようにひしめき合っている。
京都の祇園をも凌ぐ「完全紹介制」を貫くこの場所は、金を積めば入れるような下俗な社交場ではなかった。
ここは、世界の命運を左右する裏社会で「選ばれし者」のみに許された聖域である。
さらに最上階は大家姐のプライベートルームとなっている。
ホテルの最深部、数千人を収容可能な大ホールは、今や異様な熱気に包まれていた。
円卓の上には、広東料理の粋を尽くした極致が並ぶ。
大ぶりのツバメの巣、最高級の干しナマコ、金箔をあしらったフカヒレの姿煮。
人間の胃袋の限界など端から無視したような、暴力的なまでの美食の山。
それらは富の象徴であり、龍門の圧倒的な「余裕」の誇示でもあった。
その喧騒を、一筋の鋭い声が断ち切った。
「——皆の者、注目。大家姐、お入りだ!」
重厚な黒檀の扉が、音もなく左右に開かれた。
現れたのは、深紅のイブニングドレスを纏った一人の貴婦人。
だが、その背後に漂うのは、華やかな社交界の香りではなく、硝煙と血の匂いだ。
彼女が歩を進めるたび、大陸を動かす大物たちが、吸い殻を消し、背筋を伸ばし、一斉に首を垂れる。
その様は、まさに現代に蘇った三国志の猛将、あるいは清朝の女帝のようであった。
彼女は一番奥、龍の彫刻が施された玉座に腰を下ろすと、扇を閉じるような音で場を制した。
「皆さん、よく集まってくれました。
龍門がこの北の地で、未だに天を衝く勢力を保っていられるのは、ひとえにここにいる『家族』のおかげです」
その穏やかな声には、逃れられない呪縛のような響きがあった。
「家族」——それは龍門において、裏切りが「死」と同義であることを指す。
今日、この場に招かれて欠席することは、自らの墓穴を掘るのと同義だった。
集った顔ぶれは、まさに現代中国の裏の縮図である。
中央政府と太いパイプを持つ政界の怪物、龍門と癒着し情報を流す公安の局長、ハイテクを掌握する電気街の取締役、そして莫大な献金を積み上げた各地の若頭たち。
彼らの資産を合算すれば、中規模の国家予算など容易く凌駕するだろう。
その視線を一身に浴びながら、大家姐の瞳に冷たい炎が宿った。
「さて、今日は大切な話をしましょう。
四年前に亡くなった、我が最愛の息子のことです」
巨大スクリーンに、かつて日本で命を落とした、張の姿が映し出された。
「あの子は日本でのビジネスを任していた。
だが、志半ばで殺された。
……あの、学芸会もどきの青二才どもに」
彼女の声が、わずかに湿り気を帯びる。
だが、それは悲しみではなく、獲物を追い詰めた猟犬の歓喜に近かった。
「主犯のガキ共は、海の藻屑になったと聞いていたけれど。
……ようやく、見つけたわ」
スライドが切り替わり、荒い画質の偵察画像が映し出される。
そこには、中国人民共和国の紋章が入ったヘリに乗り込もうとする、シュウとジュウシロウの姿が鮮明に捉えられていた。
「この細い方のガキだ。
奴には死よりも重い鉄槌を下さなければならない。
……どうやら、あの梁智衡の小童が匿っているようだけれど、もう私の我慢も限界よ」
彼女はドレスの懐から、彫金が施された冷徹な銀色の銃を取り出し、卓の上に音を立てて置いた。
「このガキの居場所を炙り出しなさい。
生け捕りにして連れてきた者には、相応の謝礼を約束するわ。
具体的には……次期、日本における全利権の統括を任せましょう」
その瞬間、ホールにどよめきが走った。
日本という巨大な市場、その利権の全て。
野心に燃える男たちにとって、それはこれ以上ない劇薬だった。
「さあ、仕事の話はここまでよ。
今夜は家族として、存分に食べ明かしましょう。
次のビジネスに備えて。……飲勝!」
「飲勝!!」
何百というクリスタルグラスが弾け、火薬に火がついたような怒号が響き渡る。
天津の夜空の下、龍の一族による「報復の宴」が、静かに、そして苛烈に幕を開けた。
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ホテル『Longmen』の地下。
そこは豪華絢爛なロビーとは対極にある、コンクリートと冷気に支配された底層だ。
正確には、桟橋の基礎が深く突き刺さる人工湖の底。
かつてこの地が広大な塩田であった歴史を物語るように、ひどく塩分濃度の高い水の中を、二つの影が音もなく進んでいた。
見上げれば、三つの桟橋はすべて跳ね上げられ、外界との物理的な接触は断たれている。
それはまるで、中にいる獲物を守るためではなく、侵入者を一人残らず絞め殺すために設計された巨大な「檻」のようだった。
護岸の壁面には、わずかな振動をも感知するレーザーセンサーが網の目のように張り巡らされ、さらに防壁には高電圧の電流が絶え間なく流れている。
「人っ子一人、潜入させる余地などない」
設計者が誇らしげに語る声が聞こえてきそうな、完璧な拒絶。
(……まあ、理屈の上では、だがな)
厚いウェットスーツの奥で、男の一人が自嘲気味に口角を上げた。
ある小説の一節だったか。
『誰も侵入できない絶対的な要塞を作るのは容易だ。出入り口をすべて排除してしまえばいい』
なるほど、一理ある。
だが、現代の建築においてそれは空論に過ぎない。
人類がその中に留まる限り、要塞には必ず「呼吸」が必要になるからだ。
酸素を取り込むためのダクト、熱を逃がすための排気口、そして廃水を流し出すための排出口。
どれほど堅牢な壁を築こうとも、生命を維持するための「流れ」を止めることはできない。
流れが止まれば、中にいる人間は死ぬ。
そしてその「生命線」こそが、要塞における唯一にして最大の、致命的な欠陥となる。
重厚な鉄格子が、水中で激しい火花を散らした。
巨大な影の一つが、超小型の水中溶断機で格子の継ぎ目を焼き切っていく。
青白い光が濁った水を照らし出し、沈黙のまま鉄の門が崩れ落ちた。
二人の影は迷いなく内部へ滑り込み、垂直に切り立った壁を音もなく登り詰める。
辿り着いたのは、広大な地下駐車場の一角。
そこは万が一の浸水時に備え、急速排水を行うために設計された「盲点」だった。
数分前、ダイカーチェが豪語した『龍門』の牙城。
その心臓部へ繋がる最短ルートは、すでに二人の脳内に完璧な地図として刻まれている。
シュウと相棒の男は、重いダイビングスーツを淀みのない動作で脱ぎ捨てた。
滴り落ちる塩辛い水が、冷たい床に小さな水溜りを作る。
「ここからは別行動だ。しくじるなよ、シュウ」
相棒の低い声が、コンクリートの空間に微かに反響した。
シュウは、装備を点検しながら不敵な笑みを浮かべる。
「誰に言ってるんすか。
……そっちこそ、足を引っ張らないでくださいよ」
短い視線の交錯。
次の瞬間、二つの影はそれぞれの闇へと溶けるように消えた。
地上の宴が最高潮を迎える中、龍の喉元に、静かな刃が突き立てられようとしていた。




