第30話 やりなおし
最初に手を引いたのは、コレーティアだった。
自由帳から、そっと手を離して、胸の前で握りしめた。それから、顔を上げた。泣きそうな顔で、笑っていた。
「……一人でも反対なら、やらない」
小さな声だった。けれど、はっきりと聞こえた。
「それが、わたしたちのルールだよ」
全員一致。黄色の密林から帰った夜、コレーティアが決めたルール。誰も「いやだ」と言わずにすむように、彼女が作ったルールだった。緑の世界の美術室で、俺たちは全員一致で巻き戻した。反対する者が、一人もいなかったからだ。
そのルールが、今、俺たちを止めていた。
一人が「いやだ」と言えば、何もしない。一人が手を置かなければ、巻き戻しは起きない。弱いもののための、怖がりのルール。それが、いちばん大事なところで、歯止めになっていた。
「……全員一致って、こういうときのためのルールだったんだね」
コレーティアが言った。涙が、ひとつぶだけ落ちた。
クゥーが、手を引いた。最後に手を置いた手が、最初に離れた。その手で、制服の胸の校章を、ぎゅっと握っていた。
雪葉が、引いた。マックスが、引いた。フルーリアが、舌打ちをして、乱暴に手を引っこめた。その舌打ちは、俺に向けたものではない気がした。
自由帳の上には、クレイの手だけが残っていた。
クレイは、しばらくそのまま動かなかった。それから、ゆっくりと手を引いて、自由帳を閉じた。表紙の角のすり切れたところを、指でそっと撫でた。
「……ありがとう」
俺を見ずに、クレイは言った。
「……礼を言われることじゃねえよ」
「言うことだよ。ぼく一人じゃ、止まれなかった。また、紙を破るところだった」
クレイは、ようやく俺のほうを見た。いつもの穏やかな笑顔ではなかった。もっと不格好で、泣き出しそうな、本当の笑顔だった。
「君はどうして、異世界転生師になっているんだいって、前に聞いたよね」
「……ああ」
「あの質問、取り消すよ。……今の君は、転生師の顔じゃない」
俺は、何も言えなかった。言えば、たぶん声が震えた。
「……計算し直すわ」
雪葉が、懐中時計の蓋を開けた。指先の震えは、止まっていた。
「巻き戻さずに、止める方法を。……夜明けまで、あと五時間。七人もいれば、十分よ」
七人、と雪葉は言った。数えまちがいではなかった。
◇
灯守の家の居間に、もう一度、七人とトールが集まった。
床には、フルーリアが二十日かけて組み上げた、装置の模型が広がっていた。白い塔。その地下に埋めこまれた、球体の核。核からは何百本もの管が伸びて、塔の内側を血管のように這い上がっている。
「装置は、止められない」
雪葉が、模型の核を指さした。
「止めようとした瞬間に、暴発する。……なら、止めない。放たせるのよ。ただし、放つ場所と、放つものを変える」
「放つものって……白紙に戻す力を、何に変えるんだよ」
フルーリアが言った。
雪葉は、答えなかった。かわりに、フルーリアをじっと見ていた。クレイも、コレーティアも、マックスも。
フルーリアは、しばらく模型の核を見下ろしていた。それから、ツインテールの先を指に巻きつけて、長い息を吐いた。
「……うちが、あの装置になればいいんだな」
居間が、静まり返った。
「うちの変身は、兵器なら何にでもなれる。あれは兵器だ。うちの作り方で作られた、うちの兵器だ。……中に入って、あれそのものになれば、中から作り変えられる」
「作り変えるって、何に?」
コレーティアが言った。
フルーリアは、俺のほうをちらりと見た。橙色の塔の上で、彼女がにらんだのと同じ目だった。
「……爆発して、誰も死なないやつ」
橙色の空いっぱいに広がった、赤と金の菊を思い出した。
「でも、それって……」
コレーティアの声が、震えた。
「装置になって、爆発するんでしょ? それって、自爆と、何が違うの?」
「違うよ」
フルーリアは、すぐに答えた。
「……帰ってくる。今度は」
言ってから、自分でも、その言葉を確かめるように、もう一度言った。
「帰ってくるよ。……うち、橙の世界に、花、植えっぱなしだし」
「……我が、手を離さぬ」
マックスが、低い声で言った。
「お主が装置になっているあいだ、ずっとだ。お主がどこかへ行こうとしたら、引っ張り戻す。……この体は、そのためにあったのかもしれぬ」
フルーリアは、目を丸くしてマックスを見上げた。それから、ふいとそっぽを向いた。
「……勝手にしろよ」
耳が、赤かった。
◇
そこから先は、早かった。
「核は、塔の地下深くにあるわ。街の真ん中で花火にしたら、街ごと焼ける」
雪葉が、模型の塔を指で弾いた。
「だから、私が核を持ち上げる。塔を突き抜けて、雲の上まで。……重くても」
最後の一言だけ、雪葉は俺を見た。
「塔の中は、あたしが案内する」
クゥーが、巫女の衣の裾を握った。
「この姿なら、いちばん奥まで入れる。……アーシェちゃんも、たぶん、そこにいる」
「街の人たちは、わたしが守る」
コレーティアが、手鏡を握りしめた。
「結界で。……花火の火の粉が、誰にも当たらないように」
「核が暴れたら、我が押さえる」
マックスが、拳を握った。
「ぼくは、描くよ」
クレイが、自由帳の新しいページを開いた。
「装置の中の、今を。フルーリアが迷わないように、全部。……描き直さずに」
「ぼくは、街の人たちを、神殿に集めます」
トールが言った。
「それから……もし、装置がなくなって、帰るところがなくなる人たちがいたら。その人たちのことも、考えています」
全員の持ち場が、また決まっていった。
俺の番は、来なかった。
「……俺は?」
言ってみると、居間が少しだけ静かになった。
剣なら、呼べばいつでも手の中に来る。塔を根こそぎ切り倒すことも、塔を守る兵士を蹴散らすことも、俺にはできる。レベル無限の勇者なんだから。でも、それは、この世界にとって、魔王がやることだった。
「君は、いちばん大事なことをするんだよ」
クレイが、自由帳から顔を上げた。
「……何だよ、それ」
「来たって、言うんだ。この世界の人たちに。八千年ぶりに、神さまが来たって」
「……神さまなんかじゃねえよ、俺は」
「じゃあ、それを言えばいい」
クレイは、少しだけ笑った。
「再誕派は、式典を世界中に中継するつもりだよ。塔の前の舞台に、映像の機械が何十台も並んでた。……君の声は、世界中に届く」




