第29話 八千年のリセット
神殿の前には、五人とトールがいた。
全員、ぼろぼろだった。マックスのたてがみには灰が絡み、翼の羽根が何枚か抜けていた。コレーティアは、神殿の周りに張った結界の内側で、膝をついて肩で息をしていた。結界の外では、白い円の旗を掲げた人々が、何重にも取り囲んでいた。
クゥーは、白い巫女の衣を着ていた。再誕派に潜りこむための姿なのだろう。その袖口から、第三中の制服の袖がのぞいていた。
フルーリアが、俺たちに気づいた。
「……おっそいよ」
声が、かすれていた。
「装置は、もう核に火が入ってる。夜明けには、起動する。……止め方が、分かんないんだ。止めようとした瞬間に、暴発する作りになってる。うちの自爆と同じだよ。一度火が入ったら、もう、止まらない」
雪葉が、一歩前に出た。
五人の視線が、雪葉に集まった。最後に見たときと、同じように。
雪葉は、逃げなかった。
「……ただいま。遅くなって、ごめんなさい」
コレーティアが、結界の内側から転がるように駆けてきて、雪葉に抱きついた。雪葉は、よろけながら、それを受け止めた。
「期待しても、いいわよ。……少しだけなら」
雪葉が言うと、フルーリアが、ようやく笑った。
留守のあいだのことは、クレイの自由帳が教えてくれた。
ページをめくるたびに、二十日分の“今”があった。消しゴムの跡は、一つもなかった。
最初のページは、白い巫女の衣を着たクゥーだった。再誕派の集会の、いちばん後ろの列。前髪の奥の目だけが、クゥーのままだった。
「再誕派の巫女の名前も、アーシェっていうの」
クゥーが、小さな声で言った。
「八千年前の巫女さまの名前を、代々、継いでるんだって。……あたしと同じくらいの、女の子だった」
次のページには、フルーリアがいた。灯守の家の床いっぱいに、装置の模型を広げていた。模型店で鍛えた手つきで、部品を一つずつ外している。外すたびに、顔が険しくなっていくのが、線だけで分かった。
その次には、マックスがいた。神殿の階段の上で、翼を広げていた。石を投げる群衆の前に立ちはだかって、背中で灯守と男の子をかばっている。その足元に、コレーティアがいた。両手を広げて、光の壁を張っていた。唇が動いていた。何かを叫んでいるらしかった。
「……ずっと、言ってたんだよ」
コレーティアが、雪葉に抱きついたまま、照れくさそうに言った。
「いやだ、って。帰って、って。この人たちに手を出すのは、いやだって。……二十日間、ずっと」
トールのページもあった。神殿の裏の路地で、子どもたちに果物を配っていた。白い円の旗を持った子も、持たない子もいた。どちらの子どもか、トールは気にしていないようだった。
最後のページは、夜の神殿だった。
灯守の老人が、いつものようにランプに火をともしている。その横で、あの男の子が、小さなランプを両手で抱えていた。男の子は、石像を見上げていた。すり減った顔の、真ん中の像を。
コップを持った、神さまの像を。
そのとき、クレイが、一歩前に出た。
胸に抱えていた自由帳を、開いていた。この世界で起きたことを、全部描きつけた、あの自由帳だ。ページの端が、二十日分の鉛筆の粉で、黒く汚れていた。
「……七人、そろったね」
クレイは、笑っていなかった。
「巻き戻そう。放っておく前まで。二十三日目の夜。アーシェさんが、また来てくださいますかって聞いた、あのときまで」
自由帳の薄くなったページが、夜風にめくれた。
「今度は、ちゃんと答えられるよ」
誰も、すぐには答えなかった。
夜風が、神殿の柱のあいだを抜けていった。結界の外では、白い円の旗が揺れている。幾重にも取り囲む人々の声が、波のように寄せては引いていた。嫌になったら、リセットすりゃいい。嫌になったら、リセットすりゃいい。
「……八千年分よ」
最初に口を開いたのは、雪葉だった。懐中時計を握ったままだった。
「二十三日目の夜まで巻き戻せば、この八千年に生まれた人は、全員消える。灯守のおじいさんも、あの子も。……装置も、再誕派も、消えるけれど」
「でも、そうしなきゃ、この世界そのものが消えるんだよね」
クレイが言った。静かな声だった。
「装置が動けば、全部が白紙になる。巻き戻せば、八千年が消えて、四千年は残る。……どっちがましかは、計算しなくても分かるよね」
誰も、反論しなかった。
クレイは、自由帳を平らな石の上に置いた。そして、その表紙に、自分の手を載せた。
「……止め方がないなら、しかたねえっしょ」
フルーリアが、唇を噛みながら、手を重ねた。
マックスは、長いこと自分の手を見つめていた。それから、大きな手を、そっと重ねた。
雪葉が、無言で手を置いた。指先が、震えていた。
コレーティアは、灯守の老人と男の子を、一度だけ振り返った。それから、目をぎゅっと閉じて、手を重ねた。
最後に、クゥーが手を伸ばした。
巫女の衣の袖からのぞく、第三中の制服の袖口。小さな手が、宙で止まった。止まって、震えて、それでも、六人目の手として、そこに重なった。
「……ごめんなさい」
誰に謝ったのかは、分からなかった。
六つの手が、自由帳の上に重なっていた。
六人の目が、俺を見ていた。
◇
俺は、自分の手を見た。
緑の世界の美術室で、六人の手の上に載せた手だ。やり直せばいいだろ、と言いながら。軽い気持ちで。
あのとき、消えていったものがあった。
空へ昇っていく雪。ほどけるように消えた、えんじ色のマフラー。上着のポケットの中で、紙の重さごと消えた詩の冊子。一つになった、図書館の窓辺の背中。
それから、始業式の朝の、あの目。
――……どちらさま、ですか?
小春は、何も悪くなかった。消えた一年を覚えていないのは、小春のせいではない。俺たちが、消したのだ。クゥーはそれでも、はじめまして、からやり直した。やり直せたのは、小春が消えずに残っていたからだ。
ここで手を置けば、消えるのは一年ではない。八千年だ。はじめまして、と言う相手さえ、残らない。
俺は、神殿の階段の下を見た。
灯守の老人が、ランプを持って立っていた。その裾を、男の子がつかんでいた。二人とも、俺たちが何をしようとしているのか、分かっていない顔で、ただこちらを見上げていた。
八千年、一夜も絶やさなかった灯。
ムリゲーすぎない? と笑っていた子どもたち。仲良くしてね〜、と手を振りあっていた後ろ姿。聖タワシ。八腕さまのお守り。
俺たちが放っておいたせいで、生まれた八千年だ。でも、それでも、こいつらの八千年だ。
「……置かねえよ」
声は、思ったより静かだった。
六人が、息をのんだ。
「巻き戻したら、この八千年を生きたやつらが消える。小春のときと同じだ」
クゥーの肩が、びくりと震えた。
「あのとき、俺は、やり直せばいいだろって言った。ゲームなら何度でもやり直してきたって。転生だって同じだって。……やり直してきたから、こうなったんだ」
俺は、灰色の夜空を見上げた。高層の建物の灯りに消されて、星は一つも見えなかった。
「嫌になったら、リセットすりゃいい。……それを言ったのは俺だ。こいつらが今やろうとしてることを、俺たちが先にやったら、同じだろ。俺たちが、こいつらの装置になるだけだ」
言いながら、手のひらに汗がにじんでいた。これは、正しい答えじゃないかもしれない。巻き戻さなければ、この世界は、俺たちごと白紙になるのかもしれない。それでも、ここで手を置いたら、俺はまた、四十八回目のリセットをする。
「俺たちは、もうリセットしない」
夜風が、自由帳のページの端を、かさりと鳴らした。
「……じゃあ、どうすんだよ!」
フルーリアが叫んだ。
「止め方がないんだぞ! 夜明けには、全部白紙になるんだぞ!」
「分かんねえ」
正直に言った。
「分かんねえけど、リセットだけは、しない。……それだけは、決めた」
フルーリアは、何か言い返そうとして、口を開けたまま、黙った。




