第28話 雨の中で
俺は、上着のポケットに手を入れた。
指先に、冷たい金属が触れた。青の扉の白紙の上で、いちばん最初に創ったもの。金属製の、どこにでもある、何の変哲もないコップだ。あの日から、なんとなく持ち歩いていた。
自販機の前に立って、ボタンを押した。ごとん、と缶が落ちてきた。プルタブを引くと、懐かしい音がした。中身を、コップに注いだ。
それから、ベンチの、雪葉の隣に座った。すぐ隣ではなく、ひとり分だけ、あいだを空けて。
コップを傾けた。甘くて、少しだけ、鉄の味がした。
雨の音がしていた。
何も言わなかった。言うことが、なかったからだ。
魔王の倒し方なら、いくらでも知っている。姫の助け方も、王様の説得の仕方も。でも、一人で雨の夜のベンチに座っている誰かに掛ける言葉は、四十七回の転生で、一度も覚えなかった。
用もないのに、誰かのそばに居る。そのやり方も、俺は知らなかった。
だから、知っていることだけをした。座って、ジュースを飲んで、黙っていた。クリアの条件もない。いつ終わるのかも分からない。それでも、座っていた。
「……何も言わないの?」
しばらくして、雪葉が言った。膝に顔をうずめたままだった。
「言うこと、ねえから」
「……そう」
また、雨の音だけになった。
どれくらいそうしていたのかは、分からない。自販機が、ぶぅんと鳴っていた。コップが空になると、俺はまたボタンを押して、注いだ。二度、三度。
「……あなたが来てから、三時間よ」
雪葉が、懐中時計も見ずに言った。
「灰色では、三十時間。……急がないの?」
「急がなくていいって、クレイが言った」
「……馬鹿ね」
雪葉は、それきり黙った。
いつのまにか、雪葉は、ベンチの端で眠っていた。膝を抱いたまま、肩を小さく上下させて。
俺は、起こさなかった。
雨の音を聞きながら、俺は、自分の最後の日のことを考えていた。
中学三年の夏だった。もう半年以上、学校には行っていなかった。その日、俺は久しぶりに家を出た。前から予約していたゲームの、発売日だったからだ。シリーズの最新作。前作は、発売から三日でクリアして、それきり触っていなかった。
交差点の信号が、点滅していた。渡りきれると思った。店の開店時間のことしか、考えていなかった。
クラクションの音と、迫ってくる大きなフロントガラス。それが、最初の世界の、最後の記憶だ。
大型トラック召喚。最初の転生のとき、女神さまがくれた魔法。俺はそれを、四十七回、非常口として使ってきた。自分をはねたのと同じものを呼んで、次の世界へ逃げた。
俺は、次の箱を開けに行く途中で、死んだのだ。
笑えなかった。
雨は、降り続けていた。濡れたアスファルトの坂を、何も下りてこなかった。ヘッドライトも、タイヤの音も。俺は、ずっと坂の上を見ていた。見ていても何の役にも立たないことは、分かっていた。これは、もう終わった雨の夜だ。それでも、見ていた。
◇
雪葉が目を覚ましたとき、雨は小降りになっていた。
「……まだ、いたの」
「いたよ」
「用もないのに」
「用がないから、いるんだよ」
言ってから、自分でも少し驚いた。でも、たぶん、それが本当だった。用があれば、用が済んだら帰る。クリアしたら、次へ行く。俺はずっと、そうやってきた。
雪葉は、しばらく俺の顔を見ていた。それから、小さく息を吐いた。
「……変な人」
「お前に言われたくねえよ。タコの人に」
雪葉が、吹き出した。この世界に来てから、初めて聞く笑い声だった。
雨の音が、少しずつ小さくなっていった。
「……なあ、雪葉」
「何よ」
「重力ってさ、引っ張り合う力なんだろ」
雪葉は、きょとんとした顔をした。それから、反射的に、授業でもするような口調になった。
「……質量を持つものは、すべて互いに引き合うわ。万有引力。リンゴが地面に落ちるとき、地球のほうも、リンゴに向かって、ほんの少しだけ動いているのよ」
「じゃあさ。重いってのは、引っ張られてるってことだろ」
俺は、コップを見つめたまま言った。雪葉の顔は、見ないようにした。見たら、たぶん言えなくなる。
「お前が重いのは、みんながお前を引っ張ってるからだ。学校の連中も、灯守のじいさんも、俺たちも。……期待とか、俺にはよく分かんねえけどさ。でも、引っ張られるだけじゃなくて、引っ張り返していいんじゃねえの。地球だって、リンゴのほうに動くんだろ」
雨が、止んだ。
「重くていいんだよ。……俺たちは、互いに重くていい」
雪葉は、何も言わなかった。
横を見ると、眼鏡の奥で、涙がこぼれていた。声も立てずに、雪葉は泣いていた。俺は、また前を向いた。見なかったことにした。マックスに教わったやり方だ。
「……飲むか」
コップを差し出した。雪葉は、しばらくそれを見つめていた。それから、両手で受け取って、一口飲んだ。
「……ぬるい」
「ずっと持ってたからな」
「あなたに、物理を説かれるとは思わなかったわ」
「俺もだよ」
二人で、少しだけ笑った。
雲が切れて、夜空に星が戻ってきた。バス停の向かいの広告が、雨に濡れて、墨の文字がゆっくりと滲んでいくのが見えた。文武両道。四つの文字は、もう読めなかった。
自販機の横に、いつのまにか、もう一つベンチが増えていた。
◇
雪葉が、立ち上がった。
眼鏡を外して、白衣の袖で目元を拭い、かけ直した。それから、懐中時計の蓋を開けた。
「……計算するわ」
いつもの声だった。いや、いつもより、少しだけ重い声だった。
「ここに来てから、一日と十二時間。灰色では、十五日。扉をくぐるのにかかった時間を足すと……装置の起動まで、あと数時間しかないわ」
雪葉は、懐中時計を閉じた。
「急ぐわよ」
「今度は、急ぐのか」
「今度は、私が急ぎたいの」
雪葉は、灰色の扉のほうを――この世界にはないはずの、広場の方角を――まっすぐに見た。
「私の力が要るんでしょう。……重くても、いいわ」
俺たちは、焦げ茶の扉を出た。
広場の焚き火は、さっきと変わらずに燃えていた。雪葉の懐中時計では、俺が灰色の扉を出てから、二秒も経っていなかった。
一歩で、灰色の扉をくぐった。




