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異世界転生師たち ~転生し過ぎたら、女神様にブチ切れられた件~  作者: いおにあ


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第27話 白い世界


 焦げ茶の扉の向こうは、白だった。


 青の扉を初めて開けた日よりも、灰色の扉を初めて開けた日よりも、白かった。上も下もない。風もない。音もない。何十日も、誰にも触られてこなかった画用紙のような白だった。


 その白の真ん中に、自販機が一台だけ、立っていた。


 横に、ベンチが一つ。それだけだった。山も、川も、城も、空さえもない。自販機の白い明かりだけが、ベンチの上に、小さな光の輪を落としていた。ぶぅん、と低い音を立てているのは、冷却機だろう。この世界で、ただ一つの音だった。


 雪葉は、そのベンチに座っていた。


 白衣のまま、膝を抱えて。手には、缶ジュース。広場の隅で、夜ごとそうしていたのと、同じ姿勢だった。


 俺の足音にも、雪葉は振り向かなかった。


「……追ってくるとは、思わなかったわ」

「俺もだよ」


 正直に言った。雪葉は、少しだけ鼻で笑った。


「連れ戻しに来たのなら、無駄よ。計算なら、広場でもできるでしょう。灰色は百万倍、ここは十万倍。ここで一時間話せば、向こうでは十時間が過ぎるわ」

「連れ戻しに来たんじゃねえよ」

「じゃあ、何をしに来たの」


 答えられなかった。自分でも、分からなかったからだ。


 俺は、自販機を見た。


 見覚えのある形だった。赤い塗装の、どこにでもある、日本の自販機。横ひと列に並んだ見本の缶のラベルも、城の完成祝いの日にもらった缶と、緑の世界の校門の脇の自販機と、同じだった。


「……この自販機、日本のやつか」


 雪葉は、しばらく黙っていた。それから、缶のプルタブを指先で起こしては倒した。焚き火の前でも、よくそうしていた。


「……家の近くの、坂の下にあったの」


 その言葉と一緒に、白い地面に、灰色の色がにじんだ。


 アスファルトだった。白い線が引かれた、狭い道。道の端に、ガードレール。ベンチの背もたれには、色あせたバス停の時刻表が貼りついていた。道は、白い空間の奥へ、ゆるやかな上り坂になって続いている。


 焦げ茶の世界が、雪葉の言葉に合わせて、色を持ちはじめていた。


◇


「入試は、首席だったの」


 雪葉は、坂の上を見たまま言った。


「第三中の、四期生。入学式で、新入生代表の挨拶をしたわ。……それから、学校のパンフレットに載った」


 バス停の向かいに、大きな看板が浮かび上がった。


 駅のホームで見かけるような、長方形の広告だった。白い地に、墨で太く、四つの文字。


 ――文武両道。


 その下に、写真が二枚並んでいた。白衣を着て、フラスコを掲げた女の子。ゼッケンをつけて、ゴールテープを切る女の子。どちらも、眼鏡をかけていた。どちらも、笑っていた。その下に、小さく、あの校章。県立第三中学校。


「理科学部なのに、体育祭のリレーで一位になっちゃったのよ。ちょうどよかったんでしょうね。文化部の女子でも、こんなに走れる。勉強もできる。……文武両道の見本には、もってこいだったの」


 緑の世界の校門で、横断幕を見上げていた雪葉を思い出した。その手の中で、缶が小さくへこんでいた。


「それからは、何をしても、澪野さんなら、だった。澪野さんならできる。首席なんだから。学校の顔なんだから。先生は何でも私に任せたし、クラスの子は宿題を写しに来たし、親は親戚中に自慢した。誰も、悪いことなんてしてないのよ。みんな、私に期待してただけ」


「一年の秋に、学校説明会があったの。体育館いっぱいの、受験生と親。校長先生が私を壇上に呼んで、言ったわ。本校の文武両道を体現する生徒です、って。……私は、用意された原稿を、一字も間違えずに読んだ。拍手が、すごかった」


 雪葉の指が、缶のへこみをなぞっていた。


「終わってから、誰もいない理科室の流しで、吐いたの。……そのとき、初めて分かったのよ。私は、この重さが嫌いなんだって」


 雪葉は、缶を軽く振った。中身は、もう少ししか残っていないらしかった。


「期待って、重さがあるのよ。一つひとつは、軽いの。でも、降り積もる。雪みたいに。……二年の秋のある朝、玄関で靴を履こうとしたら、体が動かなかった。重くて。それきりよ」


 坂の上に、家々の影が浮かび上がった。窓の明かりが、いくつか。その上に、夜空が広がった。白い空間が、少しずつ夜になっていく。星が、ひとつ、またひとつと、灯った。


「夜になると、家を抜け出して、ここまで歩いたの。坂を下りて、五分。缶ジュースを一本買って、このベンチで飲んで、空を見る。毎晩」


 雪葉は、夜空を見上げた。


「夜の空って、何も期待してこないでしょう」


 城の完成祝いの日。城壁に背をあずけて、一人で缶を傾けていた雪葉の横顔を思い出した。ここではないどこかを見ているようだった、あの横顔。――彼女が缶ジュースを創るのが、なぜあんなに上手だったのか。ようやく、分かった。何百回も、この手で、この冷たさを握っていたのだ。


「重さのない場所に、行きたかったの」


 ぱら、と音がした。


 雨だった。


 夜空から、細い雨が降りはじめていた。アスファルトが濡れて、自販機の明かりを、にじんだ光の帯にして映していた。ベンチの上には屋根があって、雨は、俺たちの足元でだけ跳ねていた。


「……雨の夜だった」


 雪葉の声は、雨の音にまぎれそうなほど、小さかった。


「いつものようにここまで歩いて、自販機のボタンを押したとき。坂の上から、車が滑ってきたの。雨で、タイヤが滑ったんでしょうね。ヘッドライトが、すごく明るかった。……それで、おしまい」


 俺は、坂の上を見た。濡れたアスファルトの坂には、車は一台も見えなかった。そこまでは、この世界は描かなかったらしい。


「転生するとき、重力を操る力を選んだわ。なんでも軽くできる力。自分も、ほかのものも」


 雪葉は、空の缶を、指先にふわりと浮かべてみせた。


「どの世界でも、私は賢者だった。戦争を止めて、疫病を防いで、王様に相談されて。みんな、言うのよ。あなたがいなければ、って。……そう言われた次の日には、私はもう、その世界にいなかった」


 浮いていた缶が、ベンチの上に、軽い音を立てて落ちた。


「期待されるのが、怖かった。重いのは、嫌だった」


 雨の音だけがしていた。


「あの子どもたちの目、見たでしょう。灯守のおじいさんの目も。……八千年分の期待よ。そんなもの、私に持てるわけないじゃない」


 雪葉は、膝を抱く腕に、顔をうずめた。


「昔の学校なんて関係ないって、言ったでしょう。……関係ないって思わないと、立っていられなかったのよ」


 雨は、止まなかった。


 この世界には、自販機とベンチしかなかった。その理由も、分かった気がした。雪葉は、世界を創らなかったのではない。創れなかったのでもない。重さのあるものを、一つも置きたくなかったのだ。夜の道も、坂の上の家も、あの広告も。彼女が口にするまで、この世界は、ずっと白紙のままだった。


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