第26話 願い
灯守の家は、高層の建物の谷間にあった。
神殿の裏手から、細い路地を下っていく。道は古い石畳のままで、両側には小さな店が軒を連ねていた。高い建物に見下ろされながら、そこだけが、八千年前の街の形を残しているようだった。
歩きながら、俺たちは、自分たちの痕跡をいくつも見つけた。
雑貨屋の店先に、タワシが山のように積まれていた。札には、『聖タワシ 家内安全』とあった。マックスが、黙ってその一つを手に取り、しばらく見つめてから、そっと戻した。
路地の角の看板には、八本の腕を広げた、丸い生き物の絵が描かれていた。『八腕さまのお守り』。雪葉が、眼鏡を押し上げて、目をそらした。
学校帰りらしい子どもたちが、すれ違いざまにしゃべっていた。
「明日の試験、ムリゲーすぎない?」
「ムリゲーは神さまの試練なんだから、越えられるって、うちの婆ちゃんが言ってた」
「古っ。そんなの信じてるの、年寄りだけだよ」
子どもたちは笑いながら、高い建物のほうへ走っていった。
別れ際に、一人がもう一人に手を振った。
「じゃあね。仲良くしてね〜」
コレーティアが、足を止めた。口元を手で押さえていた。笑っているのか、泣いているのか、分からなかった。
八千年。俺たちが何気なくこぼした言葉が、タワシが、タコが、この世界では、朝の挨拶になり、守り札になり、子どもの口ぐせになっていた。それだけ大事にされていたのに、俺たちは一度も、ここに来なかった。
◇
灯守の家の居間で、俺たちは小さな画面を囲んだ。
画面の中では、再誕派の指導者たちが、装置の説明をしていた。首都の外れに建てられた、白い塔。その地下に、巨大な球体の核が埋めこまれている。完成の式典は、二十日後。式典の日、核が起動し、世界は白紙に戻る。
「……こいつ、本物だ」
フルーリアが、画面に顎を近づけて言った。設計図らしきものが、一瞬だけ映ったのだ。
「中心に全部の力を集めて、いっぺんに解き放つ。……うちが自爆するときと、同じ理屈だよ。誰かに教わったんじゃない。最初から、知ってたみたいな作り方だ」
最初から、知っていた。――創られたものは、創ったひとの当たり前を受け継ぐ。フルーリアが百回くり返した、美しい終わり方も。
「二十日」
雪葉が、懐中時計の蓋を開けた。
「この世界の二十日は、広場の二秒にも満たない。……逆に言えば、もし私たちがこの世界を出たら、広場の一分ごとに、ここでは二年が過ぎる。少しでも出たら、戻ってきたときにはもう、何も残っていないわ」
誰も、何も言わなかった。
雪葉は、懐中時計の蓋を閉じた。そして、静かに言った。
「……損切りしましょう」
居間の空気が、止まった。
「この世界は、八千年分の空気でできている。私たちが今さら何を言っても、変わらない。装置を止めても、また誰かが作る。……緑の世界と同じよ。空気は、消えない」
雪葉の声は、冷たかった。冷たすぎた。
「扉を閉めて、鍵をかけて、二度と開けない。あとは、この世界の人たちが決めることよ。白紙に戻るなら、それもいい。残りの二十五日で、私たちは別の世界を――」
「この人たちは、損じゃない!」
居間が、震えた。
コレーティアだった。立ち上がって、拳を握りしめていた。彼女が声を荒らげるのを、俺は初めて聞いた。
「灯守のおじいさんも、あの男の子も、さっきの子どもたちも。八千年、ずっと、わたしたちを待ってたんだよ。損とか、得とかじゃない。……わたしたちが、来なかっただけじゃない!」
雪葉は、何も言い返さなかった。
「……雪葉よ」
マックスが、低い声で言った。
「お主の計算なら、手が見つかるのではないか。装置を止める手が」
「そうだよ。雪葉ちゃんの重力なら、あの核だって持ち上げられるかもしれない」
クレイが続けた。
「雪葉なら、できるっしょ」
フルーリアが言った。
六人の視線が、一人に集まった。トールの視線も。灯守の老人の視線も。
雪葉の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「……やめて」
かすれた声だった。雪葉は、一歩、後ろに下がった。椅子が倒れて、大きな音を立てた。
「私に、期待しないで」
次の瞬間、雪葉の体がふわりと浮いた。重力を消したのだ。そのまま窓から夜空へ飛び出し、神殿のほうへ一直線に飛んでいく。神殿の階段の上には、俺たちが入ってきた灰色の扉がある。
「雪葉ちゃん!」
窓に駆け寄ったときには、白衣の背中は、扉の向こうへ消えていた。
扉の向こうは、広場だ。広場の、焦げ茶の扉の隣だ。
◇
「……逃げた、のか」
マックスが、呻くように言った。
「逃げたんじゃないよ」
クレイが言った。いつもの穏やかな声ではなかった。
「……ぼくたちが、追い詰めたんだ」
雪葉ならできる。――俺たちは、五人がかりでそう言った。一人に、八千年分の重さを載せようとした。
沈黙を破ったのは、クゥーだった。
「……あたし、再誕派の中に入る」
制服の胸の校章を、手で押さえていた。
「誰にでも、化けられるから。再誕派の巫女になって、装置のそばまで行ける。……たぶん」
「装置は、うちが見る」
フルーリアが、拳で自分の胸を叩いた。
「あれは、うちの兵器だ。うちが一番よく知ってる」
「我とコレーティアは、神殿を守ろう」
マックスが言った。
「灯守殿たちを。待ち続けた者たちを。……再誕派の中には、荒っぽい連中もおろう」
コレーティアが、黙って頷いた。手鏡を握る手に、力がこもっていた。
「ぼくは、記録するよ」
クレイが、自由帳を開いた。
「この世界で、今、起きてることを。全部。……消さずに、描く」
「ぼくも、手伝います」
トールが、小さな身体で胸を張った。
全員の持ち場が、決まっていった。誰も、全員一致だとは言わなかった。決める前に、もう動きはじめていた。
残ったのは、俺だけだった。
「……雪葉は、俺が行く」
口に出してから、自分で驚いた。
「あんたが?」
フルーリアが、また目を丸くした。紫の扉のときと、同じ顔だった。
「一番、暇だろ」
俺には、持ち場がなかった。剣を抜いて、装置を叩き壊すことならできる。でも、それをしたら、この世界の半分の人間にとって、俺は魔王になる。八千年放っておいた神さまが、いきなり来て、彼らの願いを叩き壊す。そんなものは、勇者でも何でもない。
だから、行く。逃げたやつのところへ。俺がいちばん、よく知っている場所へ。
「……行っておいで、ソーマ」
クレイが、自由帳から顔を上げずに言った。
「こっちは、もたせる。……急がなくていいよ」
急がなくていい。装置の完成まで、あと二十日しかないというのに。
俺は、灯守の家を飛び出した。夜の路地を駆け抜け、神殿の階段を駆け上がり、灰色の扉を開けた。
広場は、夜だった。焚き火が、さっきと変わらずに燃えていた。
隣の焦げ茶の扉が、わずかに開いていた。
俺は、迷わずにその扉をくぐった。広場での一歩は、灰色の世界の何日分にもなる。だから、ためらわなかった。十五分もためらった、緑の扉のときとは、違った。




