第23話 クレイとコレーティア
二十五日目の夕食に、クレイとコレーティアは戻ってこなかった。
焚き火を囲む椅子が、二つ空いていた。クレイが夕食に遅れるのは、初めてだった。
「紫は、一万倍」
雪葉が、懐中時計を見て言った。
「約束の時間から、二十分。向こうでは、百四十日よ」
百四十日。二人が夕食のことを忘れているのか、忘れたふりをしているのかは、分からなかった。
「……ちょっと、見てくる」
立ち上がると、フルーリアが目を丸くした。
「あんたが?」
「暇なんだよ」
自分でも、よく分からなかった。前の俺なら、腹が減ったら戻ってくるだろ、で済ませていたはずだ。
◇
紫の扉の向こうは、絵だった。
空に、大陸が浮かんでいた。岩の島がいくつも、雲の上に浮かび、そのあいだを巨大な橋がつないでいる。島の端からは滝が流れ落ち、橋の上では騎士たちが旗を掲げて行進している。空では、銀色の竜が翼を広げていた。
トールが暴露した、自由帳の三冊目。『蒼穹の聖戦記』の世界だと、すぐに分かった。
そして、何も動いていなかった。
滝の水は、ガラスの糸のように垂れ下がったまま止まっていた。騎士たちは、片足を上げたままだった。竜の翼は、振り下ろす途中で固まっていた。鳥が一羽、俺の目の高さで、空中に貼りついたように浮かんでいた。
音が、なかった。風も、吹いていなかった。
足元の岩をよく見ると、薄い線が何重にも重なっていた。消しゴムで消した跡。その上に描かれた線。また消した跡。見上げると、空の一角が、妙に白っぽかった。薄くなっているのだ。美術室の画用紙のように。その向こうに、何もない白紙が透けて見えていた。
浮かぶ島のいちばん高いところに、二つの影があった。
クレイが、岩に腰かけて自由帳を広げていた。鉛筆を走らせては、消しゴムで消す。また描く。また消す。そのたびに、遠くの島の形が、少しずつ変わった。変わるたびに、色が少しずつ薄くなった。
その隣に、コレーティアが座っていた。膝を抱えて、クレイの手元を見ている。
「……どうかな。この橋、もう少し高いほうがいいよね」
「うん、いいと思う〜」
「やっぱり、もとの高さに戻そうか」
「うん、それもいいと思う〜」
声をかけようとして、俺は足を止めた。騎士の像の陰で。
コレーティアの声が、いつもより低かったからだ。
「……ねえ、クレイくん」
「ん?」
「ここには、“今”がないね」
クレイの鉛筆が、止まった。
「……今?」
「うん。きれいだよ。すっごく、きれい。でも、全部、止まってる。風も、滝も、竜も。クレイくんが描き直すたびに、ちょっとずつ、止まっていくの」
「……止まってるほうが、いいこともあるよ。動くと、失敗するから」
クレイは、笑って言った。いつもの穏やかな笑顔だった。
コレーティアは、しばらく黙っていた。それから、膝を抱く腕に、力をこめた。
「わたしね。見てるだけの子だったんだ」
◇
「第三中の、二年生のとき。クラスに、一年生のときから仲良しの子がいたの。文芸部も一緒でさ。二人で、好きな小説の話ばっかりしてた」
浮かぶ島の上に、コレーティアの声だけが響いていた。
「ある日から、その子が、クラスでいないことにされはじめたの。話しかけても、みんな聞こえないふりをする。上履きが、なくなる。理由なんて、たぶんなかった。文化部で、地味で、ちょっと変わってた。それだけ」
小春の上履きが、頭に浮かんだ。中庭のゴミ箱。
「わたしは、笑ってたの。みんなと同じ顔で。その子に話しかけたら、次はわたしの番だって、分かってたから。教室の隣の席で、その子が一人でお弁当を食べてるのを、見てた。見てるだけだった」
コレーティアは、手鏡を取り出して、その裏を指でなぞった。
「その子は、冬には、学校に来なくなった。それからすぐ、わたしも行けなくなったの。あの教室で笑ってる自分が、どうしても、いやになっちゃって。それで、家で小説ばっかり読んでた」
全員一致にしよう、と言ったのは、コレーティアだった。みんなが同じ気持ちじゃないと、怖いんだ。――あのときの声が、ようやく、俺の中で形になった。
「それでね、ひさしぶりに外に出た日に、側溝で、子猫が流されてたの。大雨のあとで、水がすごく速くて。道には、何人も人がいた。みんな、見てた。見てるだけだった」
「……」
「気づいたら、飛びこんでた。水が思ってたよりずっと速くて、足を取られて。それで、おしまい」
コレーティアは、少しだけ笑った。
「子猫を助けたかったのも、ほんと。でも、それより、また見てるだけの自分でいるのが、どうしても、いやだったんだと思う。……あの子猫、どうなったのかな。わたし、知らないんだ」
クレイは、何も言わなかった。消しゴムを握ったまま、自由帳の薄くなったページを見つめていた。
「……ぼくは、見てるだけのほうが、まだよかったのかもしれないな」
しばらくして、クレイが言った。
「ぼくは、描き直してばっかりだったから。美術部で、窓の外を描けって言われても、描けなかった。教室も、廊下も、あの校門も。描いたら、それが本当になっちゃう気がして。だから、自由帳にだけ、ずっと描いてた。本当じゃない世界を」
クレイは、動かない竜を見上げた。
「転生してからも、同じだよ。失敗したら巻き戻して、描き直して。そのたびに、紙が薄くなった。……この世界も、そうなんだね」
それから、自由帳に向き直った。
「もう一回だけ、描き直させてくれないかな。今度こそ、ちゃんと動く世界に――」
消しゴムを持った手が、ページの上に上がった。
「いやだ」
浮かぶ島の上の空気が、ぴんと張りつめた。
コレーティアが、クレイの手首をつかんでいた。その手が、震えていた。
「……いやだ。もう、描き直さないで」
クレイは、動かなかった。消しゴムを宙に浮かせたまま、コレーティアを見ていた。
「わたし、この世界の続きが、見たい。失敗しても、いいから。滝が落ちて、竜が飛んで、もしかしたら橋が落ちちゃうかもしれないけど。それでも、続きが見たいの」
涙が、コレーティアの頬を流れていた。泣きながら、彼女は笑っていた。
「……いやだって、言えた。わたし、はじめて言えた」
クレイの手から、力が抜けた。
消しゴムが、岩の上に転がった。
「……うん」
クレイは、ゆっくりと自由帳のページをめくった。薄くなったページを越えて、まだ何も描かれていない、白いページまで。
「……何を描けばいいのか、分からないや」
「今、描きたいもの」
コレーティアが、鼻をすすりながら言った。
クレイは、しばらく目を閉じていた。それから、鉛筆を走らせはじめた。
丸い線。焚き火だ。そのまわりに、椅子。椅子に座る、人の形。
タワシを握った大きな背中。缶ジュースを傾ける眼鏡。勢いのある線で描かれた、ツインテール。ラケットを抱えた、制服の小さな肩。手鏡をのぞきこむ長い髪。胸にナイフを差した、自分自身。
そして、コップを持った一人。
クレイは、一度も消しゴムを使わなかった。線が歪んでも、そのまま描き続けた。
そのときだった。
風が吹いた。
コレーティアの長い髪が、ふわりと揺れた。遠くで、何かが轟いた。滝だった。ガラスの糸のように止まっていた水が、いっせいに落ちはじめていた。空中で固まっていた鳥が、羽ばたいた。銀色の竜が、大きく一度翼を打ち、高く、高く舞い上がっていった。
橋の上の騎士たちが、上げたままだった片足を、ようやく下ろした。
空の薄くなったところは、薄いままだった。その上を、雲が一つ、ゆっくりと横切っていった。
俺の隠れていた騎士の像も、動いた。ぎい、と首を回して俺を見下ろし、律儀に一礼して、橋のほうへ歩いていった。
隠れる場所がなくなった。
「……ソーマ?」
クレイが、顔を上げた。
「いつから、いたんだい」
「……夕飯だぞ」
他に言うことが思いつかなかった。コレーティアが、泣きながら吹き出した。
クレイは、自由帳を俺のほうに向けた。
「ぼくの、初めての“今”だよ」
焚き火の横で、コップを持った俺が、少しだけ口元を緩めていた。
「……俺、こんな顔してるか?」
「してるよ。最近は」
クレイは、鉛筆を持ち直した。
「あ、トールの椅子も、描き足さなきゃね」
焚き火の輪の外側に、背の低い椅子が一つ、描き足された。消すのではなく、描き足すのだ。
広場に戻ると、夕食の肉は、ほとんど冷めていなかった。




