第19話 ロル
広場に戻ると、まだ朝だった。
「……九時半」
雪葉が、懐中時計を見て言った。
緑の世界で三日近くを過ごしたのに、広場では、一時間も経っていなかった。
「ロルに、聞かなきゃ」
コレーティアが言った。
「偶然よ、って言ったよね。あのとき」
七人で、ロルを呼んだ。
定時内のはずだった。けれど、何度呼んでも、ロルは現れなかった。
かわりに、一枚の紙が、ひらひらと空から落ちてきた。
『ただいま会議中です。 ロル』
それきりだった。
ロルを待つあいだ、広場はしんと静かだった。
クゥーは、第三中の制服を着たまま、十五分おきに緑の扉をくぐった。向こうで一日を過ごして、小春に「また明日」と言い、広場に戻ってくる。ロルが来ていないのを確かめると、また扉をくぐる。広場の十五分は、緑の世界の一日だ。明日も来る、という約束を、クゥーはそうやって守っていた。
昼前、扉から戻ってきたクゥーに、コレーティアがおにぎりを差し出した。
「クゥーちゃん。ちょっとだけでも、食べよ?」
クゥーは、首を横に振って、また扉をくぐった。コレーティアは何も言わずに、扉の前に座った。おにぎりの包みは、扉の前に置かれたまま、夕方までそこにあった。
フルーリアは、何度か冗談を言おうとして、そのたびに途中でやめた。
雪葉は、焚き火からいちばん遠い岩の上で、懐中時計の蓋を開けたり閉めたりしていた。何を計算しているのかは、聞かなくても分かる気がした。あと何日。あと何時間。
クレイは、自由帳を開いては、閉じた。
俺は、何もしなかった。何をすればいいのか、分からなかった。
昼が過ぎ、夕方になった。誰も、どの扉も開けなかった。マックスは、朝からずっと、タワシで広場の石を磨いていた。夕食の肉は、誰も焼かなかった。
定時の六時を過ぎても、ロルは来なかった。
◇
夜更けだった。
焚き火の向こうの暗がりが、ふっと揺れた。
「……今日は、残業よ」
ロルだった。
ただし、いつもの深衣ではなかった。水色のパジャマに、カーディガンを一枚羽織っているだけ。髪はほどけて、あちこちが寝ぐせのように跳ねていた。手には、もう湯気の立っていないマグカップ。
「ロルちゃん、その格好……」
「着替える気力が、なかったの」
ロルは、空いている椅子に、どさりと腰を下ろした。背の低い、トールの椅子だった。膝が、ずいぶん高い位置にきた。
「会議だったのよ。朝から、ずっと。上層部と」
ロルは、マグカップを両手で包んだ。
「まず、謝らせて。……偶然よ、って言ったわね。あれは、嘘」
焚き火が、ぱちりと爆ぜた。
「あなたたちが、別々の世界線で、同じ中学から逃げ出したことは、知っていたわ。最初から。……だから、わざと、一つの班に集めたの」
「わざと?」
フルーリアが、身を乗り出した。
「同じ場所から逃げた子たちなら、一緒にいれば、何かが変わるかもしれない。そう思ったのよ。私が、上に掛け合った」
ロルは、目を伏せた。
「黙っていたのは、先入観を持ってほしくなかったから。……結局、いちばんつらいところを、あなたたちに自分で掘り起こさせることになったわね」
「それだけじゃ、ないんでしょう」
雪葉が言った。
「会議が一日かかったのは、別の理由」
ロルは、少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。
「察しがいいわね」
それから、マグカップを足元に置いた。
「緑の扉での、巻き戻し。上層部は、あれを『リセットの再発』とみなしたわ。更生の見込みが薄い、って」
誰かが、息をのんだ。
「期限を、縮めるそうよ」
ロルは、七人の顔を、一人ずつ見た。
「あと、三十日」
――期限は状況によって変わることもあるから、そのつもりで。
最初の日に、ロルはそう言っていた。状況は状況よ、と。
「……一年が、五十一日になったのね」
雪葉が、すぐに言った。
「一日でも多く、と粘ってはみたのよ」
ロルは、膝の上で拳を握った。
「私の力不足よ。……ごめんなさい」
女神が、頭を下げた。水色のパジャマのまま、背の低い椅子の上で。
「……なんで、そこまでしてくれるんだよ」
気づくと、俺は聞いていた。
「上に掛け合ったり、粘ったり。俺たちなんて、クリアしたらポイの常連だろ」
ロルは、少しだけ顔を上げた。
「……仕事よ」
それだけ言って、ロルは足元のマグカップを拾い上げた。
それから、ロルは立ち上がった。
「定時は、とっくに過ぎてるの。……おやすみなさい」
ロルが消えたあとも、しばらく、誰も口をきかなかった。
最初に口を開いたのは、雪葉だった。
「……関係ないわ」
冷たい声だった。
「昔の学校なんて、今の私たちには関係ない。名前を思い出したからって、何が変わるの。あと三十日。やるべきことを、やるだけよ」
「関係なくは、ねえだろ」
フルーリアが、笑った。
「なあ、いっそさ、第三中を創って、ぶっ壊そうぜ。こっちで。校舎も、横断幕も、あの校章も。うちが戦車になって、全部まとめて吹っ飛ばしてやるよ」
笑っていた。目だけが、笑っていなかった。
クレイは、何も言わなかった。自由帳を膝に載せたまま、表紙を開こうとはしなかった。
マックスは、黙って、タワシで広場の石を磨いていた。ごし、ごし。朝からずっと磨いている石は、もう、焚き火の光を映すほどになっていた。
クゥーは、第三中の制服のまま、膝を抱えていた。
俺は、何も言えなかった。放っておけばいい、とは、もう言えなかった。けれど、ほかに何を言えばいいのかも、分からなかった。
「……全員一致なんて」
ぽつりと、声がした。
コレーティアだった。膝の上で、手鏡を握っていた。
「ただの、怖がりのルールだった」
顔を上げずに、コレーティアは続けた。
「みんなが同じ気持ちじゃないと怖いって、わたし、言ったよね。……ほんとは、誰かに反対されるのが、怖かっただけなんだ。反対されないように、みんなに合わせて。合わせられないときは、何も決めない。それって、逃げてるのと同じだよね」
手鏡に、焚き火が映っていた。
しばらくして、コレーティアは顔を上げた。
「……ねえ」
六人の顔を、一人ずつ見た。
「みんなで住める世界を、創ろうよ」
声が、少しだけ震えていた。
「学校じゃない場所。誰か一人の理想じゃなくて、七人で、最初から。……灰色の扉で」
灰色の扉。最初の日に、俺が何も考えずに指さした、右から二番目の扉だった。
雪葉が、すぐに計算した。
「灰色は、百万倍」
眼鏡の奥で、瞳が焚き火を映していた。
「広場の一日で、二千七百四十年」




