第18話 名前
校名と一緒に、戻ってきたものがあった。
名前だ。
出席簿の、答案用紙の、下駄箱の名札の。何年も呼ばれていなかった名前。
「……藤間、蒼真」
俺は言った。久しぶりに口にする名前は、自分のものなのに、少しだけよそよそしかった。
「ソーマは、そのまんまかよ」
フルーリアが言った。
「うちは……古宮、莉愛」
言ってから、フルーリアは頭を抱えた。
「ふるみや、りあ。……フル、リア。うち、ぜんぜん隠せてねえじゃん」
「わたしは、是家明莉」
コレーティアが、指で宙に字を書いた。
「是非の是に、家。これいえ、で、コレーティア。えへへ」
「土橋、黎」
クレイは、胸ポケットのペーパーナイフに触れた。
「土は、英語でクレイ。黎は、レイ。……自分で名前をつけるとき、何も残さないつもりだったんだけどね」
「……牧瀬、宏夢」
マックスが、小さな声で言った。
「マキセで、マックスだ。……安直であったな」
「澪野、雪葉」
雪葉は、それだけ言った。
「雪葉は、変えなかったのか」
「変える理由が、なかったから」
眼鏡の奥の目は、何も映していなかった。
六人が、名乗った。六人とも、異世界の名前のどこかに、本当の名前のかけらを残していた。捨てたつもりで、捨てきれなかったものが。
最後に、クゥーが口を開いた。
「……篠原、心菜」
クゥー、という名前のどこにも、その響きは残っていなかった。
「名前、嫌いだったの」
クゥーは、膝を抱えた。
「呼ばれるのが、怖かったから。教室でも、部室でも。……だから、転生するとき、何も残さなかった」
「でも、顔は」
コレーティアが、言いかけた。
「うん。顔だけは、変えなかった」
誰にでも変身できる力を選んだのに、クゥーは、自分の顔だけは日本のまま残していた。
「……顔まで変えたら、あたしが、どこにもいなくなる気がして」
六人は名前を残して、顔を変えた。クゥーだけが、名前を捨てて、顔を残した。
「この制服」
クゥーが、胸の校章に触れた。
「最後の日に、着てたの」
夕風が、屋上を吹き抜けた。
「一年くらい、学校に行ってなかった。でも、その日は、行こうと思ったの。朝、ちゃんと起きて、制服を着て。駅まで行けた。改札も、通れた」
クゥーの声は、静かだった。
「ホームに下りる階段で、足を踏み外したの。久しぶりに履いた靴で、足が、もつれて。……それだけ。事故、だよ」
誰も、何も言えなかった。
「だから、転生してから、一回も着なかった。この制服。……ずっと着てたのは、あたしが描いた、理想の制服。えんじ色のリボンの」
理想の学校の、理想の制服。クゥーはずっと、どこにもない学校の、どこにもない制服を着ていたのだ。
◇
俺は、坂の下の町を見ていた。
合格発表の日のことを、思い出していた。
掲示板の前で、自分の番号を見つけて、声をあげた。母親が泣いていた。帰りに、ファミレスでハンバーグを食べた。あの日が、人生でいちばん嬉しい日だった気がする。
そして、次の日から、どうでもよくなった。
入学式には、行った。授業にも、しばらくは出た。でも、何をしていても、ぴんとこなかった。エンディングを見たあとで、まだ同じマップを歩かされているような気分だった。友だちの作り方も、部活の選び方も、攻略本には載っていなかった。
気づいたら、行かなくなっていた。
「……俺さ」
口が、勝手に動いた。
「いじめられたわけじゃ、ないんだ。誰かに何かされたわけでもない。ずっと、なんで行けなくなったのか、分かんなかった」
六人が、こっちを見た。
「でも、今、分かった。俺は、合格した日に、あの学校をクリアしてたんだ」
スタッフロールは、掲示板の前で流れていた。
「受かった瞬間が、エンディングだった。そのあとの三年間なんて、クリア後のおまけだと思ってた。だから、二度と起動しなかった。……ゲームと、同じだ。転生と、同じだ」
クリアしたら、捨てる。
四十七回の転生の、いちばん最初は、あの校門だったのだ。
「どの世界線でも」
雪葉が、フェンスの向こうを見たまま言った。
「あの学校は、同じ種類の子どもを弾き出していた。文化部の男子。部活に入らない子。下手な子。……期待に、応えられない子」
最後の一言だけ、声が小さかった。
「そして俺たちは」
俺は言った。
「その空気を持ったまま、ここまで来たんだ」
何十回転生しても、あの校門の空気だけは、ずっと持ち歩いていた。だから、俺たちが理想の学校を創ったら、あの学校ができあがった。
夕日が、坂の向こうに沈みかけていた。
屋上から降りると、校門の前に、小春が立っていた。
誰かを待っていたらしい。クゥーの姿を見つけると、ぱっと顔を明るくして、それから、その制服に目を丸くした。
「クゥーちゃん、それ……新しい制服? もう着てるの?」
「……うん。ちょっと、早かった」
クゥーは、胸の校章を手で隠すようにして、笑った。上手な笑い方ではなかった。それでも、笑っていた。
「あのね、小春ちゃん」
「うん」
「あたし、今日は、もう帰るけど。……明日も、来るね」
小春は、少しだけ不思議そうな顔をした。それから、こくりと頷いた。
「うん。また、明日」
坂を下っていく小春の背中を、クゥーはずっと見送っていた。
明日も、来る。
あしたも来る? と聞かれて、俺は「たぶんな」と答えた。クゥーは、「たぶん」とは言わなかった。




