第1話 顔合わせ
しゃり、しゃり、しゃり。
深い水の底から浮かびあがるように、俺の意識は、その小さな音に引き寄せられた。
瞼を開けると、木の天井が見えた。窓から差しこむ光が、やわらかい。
「あ、起きた。おはよう〜。待ってたんだよ」
ベッドの脇に、少女が座っていた。片手にリンゴ、片手に果物ナイフ。剥かれた皮は途中で一度も切れずに、長いリボンになって床まで垂れている。
年は十五、六だろうか。腰まで届く金色の髪に、瑠璃色の瞳。どこからどう見ても、美少女だった。
「はい、どうぞ。剥きたてだよ〜」
押しつけられたリンゴを、断る理由もなくかじった。甘くて、少し酸っぱい。何かを美味いと感じたのは、ずいぶん久しぶりな気がした。
「……あんた、誰だ?」
「あ、そっか。まだ言ってなかったね。わたしはコレーティア。ソーマくんと同じ、異世界転生師だよ」
同じ、という言葉に、リンゴが喉につかえそうになった。
転生の常連が、俺のほかにもいる。考えてみれば当たり前の話だが、実際に会ったのは初めてだった。
「さ、行こう。みんな、ソーマくんのこと待ってるよ」
コレーティアに手を引かれて、小屋の外に出る。
外は森だった。木漏れ日が揺れ、どこかで小鳥が鳴いている。空気の手ざわりが、今まで渡り歩いてきたどの世界とも違っていた。
「ここはね、〈はじまりと終わりの分岐点〉っていうんだって。ロルちゃんが言ってた」
「ロルちゃん」
「うん。ロルちゃん」
あの女神を、ちゃん付けで呼ぶやつがいるとは思わなかった。
森の小道を一分ほど歩くと、すり鉢状の窪地に出た。真ん中で焚き火が燃えていて、その周りに、五つの人影が座っている。
「みんな〜、お待たせ! 最後のひとり、ソーマくんの到着です!」
五つの視線が、一斉に俺に突き刺さった。
「あ……どうも。ソーマです」
なんでこんな小声になってるんだ、俺。魔王の前でも、こんなに縮こまったことはないぞ。
最初に立ち上がったのは、俺と同い年くらいの少年だった。栗色の髪に、はしばみ色の瞳。人のよさそうな笑顔で、手を差し出してくる。
「よろしく、ソーマ。ぼくはクレイ。君で七人目だ。ここにいるのは全員、君と同じってことさ」
「転生の常連、ってことか」
「そういうこと。仲良くしよう」
握手をした手は、温かかった。
「ちっす! うちはフルーリア」
横から割りこんできたのは、十歳くらいに見える女の子だった。銀色の髪をツインテールにくくり、灰色の軍服を着ている。胸には、おもちゃみたいな勲章がじゃらじゃらと並んでいた。
「よろしくな、ソーマさん」
ぶんぶんと握手をされて、肩が外れるかと思った。見た目に反して、握力がおかしい。
「ガハハハハ! お主がソーマか!」
地鳴りのような声とともに、頭上に影が差した。
見上げる。さらに見上げる。
二メートルを優に超える巨体が、そこにいた。獅子に似た顔を豊かなたてがみが縁どり、背中には黒い翼が折りたたまれている。身につけているのは、腰に巻いた布一枚だけ。岩を削り出したような胸板が、焚き火に照らされていた。
「我の名はマックス。よろしく頼むぞい」
丸太のような腕が、俺の手をつかんで上下に振る。
数えきれない世界で「最強の勇者」と呼ばれてきたこの俺が、握手ひとつで膝が笑いそうになっていた。
「こ、こちらこそ……」
残りの二人は、座ったままだった。
白衣を着た眼鏡の少女は、あんず色の髪をしていた。焚き火を見つめたまま、唇だけを小さく動かしている。
「……薪一本で、あと十二分」
どうやら、火が燃え尽きるまでの時間を暗算していたらしい。俺のほうを見もしないで、彼女は言った。
「雪葉よ。よろしく」
それで、自己紹介は終わりらしかった。
最後のひとりは、小柄な少女だった。紺色のブレザーに、えんじ色のリボン。どこかの学校の制服だ。深い藍色の前髪が長く伸びて、目元をほとんど隠している。
制服なんて、最初の世界以来だ。思わずまじまじと見てしまうと、前髪の奥で、何かが揺れた。
「……クゥー」
名前だけをそこに置いて、彼女はうつむいた。
「さて!」
コレーティアが、ぱんと手を叩いた。
「これで七人そろったね。改めまして、よろしくお願いします。みんな仲間ってことで、一緒に頑張ろ〜!」
焚き火のまわりから、冷ややかな視線がコレーティアに注がれた。彼女だけが、それにまったく気づいていない。
ちょっと意地悪を言いたくなった。
「頑張るって、何をだよ。まだ何も分かってねえだろ。転生師同士で、殺し合いでもさせられるかもしれないぜ」
「バカね。そんなバトル・ロワイヤルみたいなこと、させるわけないでしょう」
「うおっ」
いつの間にか、焚き火の向こうにロルが立っていた。
「全員そろったわね。じゃあ、説明を始めます。一度しか言わないから、よく聞くこと」
ロルが指を鳴らした。
焚き火のそばに、音もなく八枚の扉が現れた。左から、青、黄色、緑、橙、紫、焦げ茶、灰色、白。壁もないのに、扉だけがぽつんと並んで立っている。
「あなたたちには、これから一年かけて、異世界を創ってもらいます」
「創る?」
クレイが聞き返した。
「そう。私たちが転生先を用意するから、文句が出るのよ。だったら、自分で創ればいい。扉の向こうは、どれも白紙の世界。好きに創ってちょうだい。そして一年後、自分が住む世界を一つ選ぶこと。選べなかったら」
ロルは、にっこりと笑った。
「成仏よ」
焚き火の爆ぜる音が、やけに大きく聞こえた。
「マジかよ……」
フルーリアが、ツインテールの先をぎゅっと握った。
「続けるわね。扉の向こうでは、この広場より時間が速く流れます。青は、広場と同じ。黄色は十倍、緑は百倍。右へ一枚行くごとに、十倍ずつ速くなる」
「灰色は、百万倍ね」
間髪入れずに、雪葉が言った。
「広場で一日過ごすあいだに、灰色の向こうでは百万日が過ぎる」
「……計算、早すぎない?」
「普通よ」
普通ではないと思う。
「世界を創るのは、この力。【創造術】よ」
ロルは人差し指を立てた。
「作りたいものを頭に思い描いて、出ろって強く念じるの。大きさは一戸建てくらいまで。はじめは無機物と植物だけ。慣れてきたら動物、そのうち知的生命体も創れるようにしてあげる」
「質問があるのだが」
マックスが、太い腕を挙げた。
「扉が八枚あるのはなぜだ? ここにいるのは七人であろう。まさか、デスゲームみたく八番目の参加者がいるのか?」
「いないわよ、そんなの。白い扉だけは、鍵がかかってるの。あれは、私にも開けられない」
「女神なのに?」
「女神なのに」
ロルは、なぜか少しだけ胸を張った。張るところではないと思う。
それからロルは、懐から鍵束を取り出して、コレーティアに放った。受け取った手のなかで、七本の鍵がじゃらりと鳴る。
「白以外の、七枚の扉の鍵。管理は、あなたたちに任せるわ。それから、クレイさん」
「なんだい?」
「あなたの時間遡行の力。今回は、七人全員が手を重ねたときだけ使えるようにしてあります。一人では巻き戻せない。いいわね」
「……へえ」
クレイは、少しだけ目を細めた。笑っているのか、そうでないのか、よく分からない顔だった。
「それから、期限は状況によって変わることもあるから、そのつもりで」
「状況って?」
「状況は状況よ」
答えになっていない。
「なあ。異世界ってことは、敵も出るのか?」
俺は聞いた。魔王や魔物が出るなら、話は早い。それなら俺の得意分野だ。
ロルは、少しだけ首をかしげた。
「敵? 出ないわよ。あなたたちが創らない限りはね」
それじゃ、と言い残して、ロルは消えた。
残された七人は、しばらく誰も口をきかなかった。
「……一年で世界を創れって。それ、無理ゲーだろ」
沈黙に耐えきれずに俺がつぶやくと、雪葉が眼鏡を押し上げた。
「一年は三百六十五日。灰色の扉の向こうなら、三億六千五百万日。時間だけなら、いくらでもあるわよ」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ」
たぶん、そういう問題ではないと思う。
整理すると、こういうことだ。
一、一年で異世界を創り、住む世界を一つ選ぶ。選べなければ成仏。
二、扉は八枚。向こうの時間は、右へ行くほど十倍ずつ速い。白い扉は開かない。
三、【創造術】で物が創れる。大きさは一戸建てまで。生き物は段階的に解禁。
四、時間の巻き戻しは、七人全員の手で。
五、敵は、創らなければ出ない。
つまり、倒すべき魔王はいない。
それが何を意味するのか、このときの俺は、まだ分かっていなかった。
◇
「で、どの扉から開ける?」
クレイの一言で、議論が始まった。
「左から順に開けるのが筋であろう」
「真ん中からにしない? 真ん中って、なんか縁起よさそう」
「白を除けば七つ。どこから始めても、条件は同じはずよ」
「いやいや、時間の速さが違うんだから、同じじゃないっしょ」
喧々囂々《けんけんがくがく》の中で、マックスが俺に話を振ってきた。
「ソーマは、どう考える?」
「ん? あー……右から二番目とか、どうだ」
何も考えていなかった。
「理由は?」
「なんとなく」
雪葉が、無言で俺を見た。眼鏡の奥の目が、「この人は駄目だ」と言っていた。
「じゃあさ、じゃんけんで決めよ!」
コレーティアが、身も蓋もない提案をした。七人でのじゃんけんは四回あいこが続き、五回目にクレイが一人勝ちした。
「左から順番でいいんじゃないかな。まずは、時間の流れが同じ世界で練習しよう」
というわけで、青い扉を開けることになった。
金色のノブを回す。キイ、と小さく軋んで、扉が開いた。
その向こうは、真っ白だった。
上も下も、前も後ろも、ただ白い。何も描かれていない画用紙の上に、放り出されたような気分だった。自分が立っているのか浮いているのかも、よく分からなくなる。
「……ここに、世界を創れというのか」
マックスがつぶやいた。
「とりあえず、何か出してみよっか」
コレーティアが言い、七人はそれぞれ目を閉じた。
何を思い描けばいいのか、分からなかった。とっさに浮かんだのは、コップだった。金属製の、どこにでもある、何の変哲もないコップ。
カラン、と音がした。
足元に、想像したとおりのコップが転がっていた。
拾い上げると、ひんやりと重かった。何もなかった場所に、何かが生まれた。それだけのことなのに、心臓が少しだけ速くなった。
「おお……」
「すごーい、ほんとに出た!」
あちこちで声があがる。マックスの掌にはタワシ。コレーティアは手鏡。クゥーはテニスラケット。クレイは、装飾の彫られたペーパーナイフ。雪葉はフラスコ。
そして、フルーリアは――戦車の上に座っていた。
「……フルーリアさん、それは?」
聞いたのは、クレイだった。
「見りゃ分かるだろ。M4シャーマンだよ」
「えむふぉー……?」
「アメリカの中戦車! 第二次大戦の傑作! 常識っしょ!」
一戸建てくらいまで、というルールは、どうやら戦車にも適用されるらしい。
最初に創ったもの、というのは不思議なもので、誰もそれを手放そうとしなかった。コレーティアは手鏡で前髪を直し、クレイはペーパーナイフを胸ポケットに差し、雪葉はフラスコを白衣のポケットに入れた。クゥーはラケットを胸に抱えたまま、何も言わなかった。俺も、なんとなくコップを持って帰った。
マックスは、その日の夕方から、タワシで広場の石を磨きはじめた。
「何してんだ、それ」
「うむ。磨くと、落ち着くのだ」
それから毎日、マックスは広場の石を磨いた。
◇
その夜、俺は小屋のベッドに寝転がって、木の天井を眺めていた。
ベッドと机と椅子だけの、殺風景な部屋だ。女子たちは、【創造術】で出した小物で部屋を飾りはじめているらしい。俺も試しに観葉植物を出してみたが、どうにも落ち着かなくて、すぐに消した。机の上には、昼間のコップがひとつ。
目を閉じると、あの真っ白な世界が浮かんだ。
最初の世界――二十一世紀の日本で、俺はゲームばかりしていた。ジャンルはRPG一択。世界を救う物語が好きだった。ラスボスを倒して、エンディングを見る。スタッフロールが流れたら、そのソフトにはもう二度と触らない。すぐに次の箱を開ける。部屋の隅には、クリア済みのパッケージが塔みたいに積まれていた。
転生してからも、やっていることは同じだ。魔王を倒して、世界を救って、次の世界へ。
でも、今度の世界には魔王がいない。敵も、クエストも、エンディングもない。何を創ってもいいし、何も創らなくてもいい。
RPGしかやってこなかった人間が、いきなり『マインクラフト』に放りこまれたようなものだ。
正直に言う。怖かった。
ゴールのない世界で、俺はいったい何をすればいいんだ。
寝返りを打って、日本にいたころの記憶をたぐり寄せようとしてみる。
受験をして、中学に入った。それは覚えている。合格発表の日、掲示板の前で自分の受験番号を見つけて、声をあげたことも。
なのに、その中学の名前が、どうしても思い出せなかった。
何十回も転生を繰り返すうちに、最初の世界の記憶は、少しずつすり減っていくものなのかもしれない。
まあ、いいか。どうせ、ろくな思い出もない。
俺は、目を閉じた。




