第16話 クゥー
「クゥーちゃん!」
コレーティアが叫んだ。けれど、扉のほうへは踏み出さなかった。
「……一人で行って、何ができるっていうのよ」
雪葉が、懐中時計を取り出した。
誰も、動かなかった。
俺も、動かなかった。
放っておけばいい。さっき、自分でそう言った。クゥーだって、子どもじゃない。気が済んだら、戻ってくるだろう。緑の世界は、広場より時間が速い。向こうで何日か過ごしたって、こっちでは、ほんの少しだ。
焚き火を見つめた。
ぱちり、と薪が爆ぜた。
その音が、なぜか、皿の割れる音に聞こえた。
――魔王がいなくなったら、あたしのことも見えなくなったの?
ミーニャンの声だった。
猫耳を伏せて、両腕をだらりと下げて。投げる物がなくなった手で、何もつかめずにいた、あの声。
俺は、答えなかった。答えないまま、トラックを呼んで、あの世界から逃げた。その前の四十六回も、たぶん同じだった。魔王を倒したら、そこにいる誰かが見えなくなる。見えなくなったら、次の世界へ行く。
今、緑の扉の向こうへ、クゥーが一人で走っていった。
俺はそれを、放っておこうとしている。
「……十五分」
雪葉の声で、我に返った。
懐中時計の蓋を開けたまま、雪葉は言った。
「クゥーが入ってから、十五分。向こうでは、丸一日よ」
丸一日。
俺が焚き火の前でぐずぐずしているあいだに、クゥーは、向こうで一日を過ごしている。一人で。
気づくと、立ち上がっていた。
「……ちょっと、行ってくる」
六人の目が、こっちを向いた。
クレイが、何か言いかけて、口を閉じた。
緑の扉のノブを握った。金色のノブは、ひんやりと冷たかった。
自分から誰かを追いかけるのは、四十七回の転生で、初めてだった。
◇
扉の向こうは、雨だった。
梅雨の走りの、細い雨だった。銀杏の葉を伝って、しずくが坂道に落ちていく。校舎の時計は、朝の八時を少し回ったところを指していた。
クゥーは、すぐに見つかった。
校門の脇、雪葉の自販機の横に、しゃがみこんでいた。庇の下にいるのに、肩が濡れていた。ラケットを胸に抱えたまま、膝に顔をうずめている。
登校してくる生徒たちが、ちらりと彼女を見て、通り過ぎていく。制服を着ているのは、彼女だけだった。
「……クゥー」
声をかけると、クゥーはゆっくり顔を上げた。前髪の奥の目が、赤かった。
「ソーマくん」
「昨日から、ずっとここにいたのか」
クゥーは、小さく頷いた。
「……入れなかった」
校門のほうを見て、クゥーは言った。
「ここまで来たら、足が動かなくなった。一日、ずっと。……日本でも、そうだったの。毎朝、制服を着て、駅まで行って。そこから先に、行けなかった」
校門の上で、横断幕が雨を吸って、重たげに垂れていた。
何か言わなきゃいけない気がした。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。魔王の倒し方なら、いくらでも知っている。落ちこんだ女の子に掛ける言葉は、一つも知らなかった。
俺は、自販機のボタンを二回押した。ごとん、ごとん、と缶が落ちてきた。一本を、クゥーの手に押しつけた。
「……なんで、来たの」
缶を両手で包んだまま、クゥーが聞いた。
「さあな」
俺は、自分の缶のプルタブを引いた。
「気づいたら、来てた」
本当は、分かっていた。でも、それを口に出すのは、まだ格好悪かった。
クゥーは、しばらく缶を見つめていた。それから、一口だけ飲んで、立ち上がった。
「……行ってくる」
「どこに」
「小春ちゃんの、ところ」
ラケットを握る手に、力がこもっていた。
「ソーマくんは、来ないで。……一人で、行きたいの」
クゥーは、校門をくぐった。
一歩目は、震えていた。二歩目も、震えていた。それでも、止まらなかった。
◇
俺は、少し遅れて図書館に入った。
来ないで、と言われた。だから、近くには行かなかった。書架の陰から、見ているだけだ。
あの日と同じように、窓辺の読書席に、小春が座っていた。
肩までの髪を二つに結んで、背中を丸めて、ノートに何かを描いている。テニスの絵だろう、と俺は思った。見なくても、分かった。
クゥーが、その隣に立った。
「……それ、なに描いてるの」
あの日と、同じ言葉だった。
小春が、びくりと肩をすくめた。
「え、あ……ごめんなさい、ただの落書きで」
それから、顔を上げて、クゥーを見た。少しだけ、目を丸くした。
「あ……始業式の日の」
クゥーの肩が、揺れた。
始業式の日。ラケットを抱えて立ちつくし、「どちらさま」と聞かれて、何も言えずに逃げ出した転校生。小春の中のクゥーは、それだけだ。
「あのときは、ごめんね」
クゥーは言った。声は小さかったが、震えてはいなかった。
「急に、話しかけて。びっくりしたよね」
「あ、いえ……」
「あたし、クゥー。二年の、転校生」
クゥーは、小春のノートをのぞきこんだ。
「ラケット。……上手」
小春が、耳まで赤くなった。
「テニス、したいの?」
「……部活は、ちょっと。上手な人ばっかりだし」
一言一句、あの日と同じだった。
クゥーは、胸に抱えていたラケットを、そっと差し出した。
「部活じゃなくて、いい。……あたしも、下手だから」
小春は、ラケットとクゥーの顔を、交互に見た。それから、不思議そうに首をかしげた。
「あの……前に、どこかで会いました?」
書架の陰で、俺は息を止めた。
クゥーは、少しだけ黙った。前髪の奥で、何かがこぼれそうになって、こらえたのが分かった。
「……ううん」
クゥーは、首を横に振った。
「はじめまして」
そして、小さく笑った。
「はじめまして、からで、いい」
小春は、よく分からない顔をした。それでも、つられたように笑って、ラケットを受け取った。
窓の外では、雨が上がりかけていた。
書架の陰で、俺は詩集を一冊、棚から抜いては戻した。そうでもしないと、どんな顔をしていればいいのか分からなかった。
リセットしたあとで、同じ相手のところへ、もう一度行く。
そんなことを、俺は一度もしたことがなかった。リセットしたら、次の世界へ行く。新しい仲間と、新しい冒険を始める。前の世界の誰かのところへ戻って、「はじめまして」からやり直すなんて、考えたこともなかった。
クゥーは、全部覚えている。一緒に打ったテニスも、二本目のラケットも、雪だるまも、えんじ色のマフラーも。相手は、何一つ覚えていない。それを分かったうえで、クゥーはもう一度、最初の一言を言いに行った。
リセットじゃない。これは、続きだ。
その日の放課後、体育館裏の空き地で、二人はテニスをした。ラケットは一本しかないので、交代で打つ。球は、ほとんど相手に届かない。
帰り際、クゥーが俺のところへ来た。
「……見てたでしょ」
「見てねえよ」
「見てた」
クゥーは、ラケットを抱え直した。
「今度は、ひとりにしない。……小春ちゃんも、あたしも」
四つめの校則。何度も書き直した跡のある、あの一行だった。
その夜、俺は校門の脇の自販機の前で、缶ジュースを一本飲んだ。
緑の世界に来てから、まだ一日しか経っていない。広場に戻れば、ほんの十五分ほどのことだ。戻ろうと思えば、いつでも戻れた。
戻らなかった。
理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、ここで戻ったら、何かがまた「クリア」になってしまう気がした。
翌日、俺は一日じゅう、学校のあちこちを歩いた。転校生が一人でうろうろしていても、誰も気にしなかった。
そして、気づいた。
空気が、前より重い。
昇降口の掲示板には、もう運動部の大会の結果ばかりが貼られていた。文化部の案内は、その下に小さく押しこまれていた。廊下ですれ違うジャージの一団は、まだ一学期だというのに、もう肩で風を切って歩いていた。
昼休み、図書館の窓辺には、ひょろりと細い背中が一つだけあった。湊だった。向かいの席は、空いていた。
体育館裏では、クゥーと小春が、一本のラケットを交代で振っていた。その様子を、渡り廊下の窓から、女子が三人、ひそひそと見下ろしていた。
前の一年では、ひそひそ声が聞こえはじめたのは、十一月だった。
今は、まだ六月にもなっていない。




