第13話 記憶
「あの」
しばらくして、トールが言った。背の低い椅子の上で、膝を抱えていた。
「ぼく、ひとつ、分かったことがあります」
八人の輪の中で、七人の視線が、いちばん小さな一人に集まった。
「体育祭の日、学校を見に行きました。……あの学校は、みなさんの記憶の中にある学校と、同じにおいがしました」
「におい?」
「はい。うまく言えないんですけど。廊下の空気とか、テントの並び方とか。あの先生の、声の出し方とか」
トールは、言葉を探すように、焚き火を見つめた。
「ぼくは、生まれたとき、みなさんの記憶を受け継ぎました。【創造術】も。それから、逃げ癖も」
誰も、何も言わなかった。
「塔で、ぼくが創った兵士さんたちは、ぼくが怖がっていたものを、怖がっていました。近づいてくるものを、撃つことしか知りませんでした。ぼくが、そうだったからです」
トールは、小さく息を吸った。
「創られたものは、創ったひとの心の奥にある『当たり前』を、受け継ぐんだと思います。ぼくがみなさんの逃げ癖を受け継いだように、この学校の人たちも、受け継いだんです」
そして、言った。
「この学校の空気を作ったのは、みなさんの中にある学校です」
焚き火が、揺れた。
「……でも、わたしたち、あんなの一つも創ってないよ」
コレーティアの声が、震えていた。
「横断幕も、あの先生も。文化部の部を、お昼休みに入れたのだって――」
「創ろうと思ったものじゃ、ないんです」
トールは、首を横に振った。
「当たり前だと思っているものが、出てくるんです。思い出せなくても。忘れたつもりでも」
雪葉が、缶ジュースを握る手に、力をこめた。
「……だから、顔が」
ぽつりと言った。
「生徒の顔を思い描いたとき、どこかで見たような顔ばかりになった。あれも、そういうことなのね」
誰も、否定できなかった。
「でも」
小さな声がした。
クゥーだった。マフラーを、両手でぎゅっと握っていた。
「小春ちゃんは、小春ちゃんだよ」
トールが、クゥーのほうを向いた。それから、ゆっくりと頷いた。
「はい。受け継いだものが、全部じゃありません。ぼくも、ぼくです」
クゥーは、マフラーに顔をうずめた。
俺は、焚き火を見ていた。
空気、か。目に見えないものだ。放っておけば、そのうち薄まるだろう。横断幕が一枚掛かったくらいで、世界が壊れるわけじゃない。
そう思った。そう思うことにした。
◇
年が明けて、三学期になった。
緑の世界には、よく雪が降った。体育館裏の空き地は真っ白になって、テニスはできなくなった。かわりに、クゥーと小春は、そこに小さな雪だるまを作った。ラケットを二本、腕のかわりに挿してあった。
「クゥーちゃんが来てから、学校、ちょっとだけ好きになった」
雪だるまの鼻に小石を埋めながら、小春が言った。
「一学期のころは、朝、坂の下で、帰ろうかなって思う日もあったの。でも最近は、放課後のこと考えると、上まで行けるんだ」
クゥーは、何も言わなかった。ただ、首に巻いたえんじ色のマフラーに、顔を半分うずめた。
図書館の窓からそれを見ていた俺には、マフラーの下の顔は見えなかった。見えなくても、分かった。
ひそひそ声は、消えなかった。
二月に入ると、小春の上履きが、ときどき片方なくなるようになった。見つかるのは、決まって中庭のゴミ箱の中だった。小春は何も言わずにそれを拾い、洗って、また履いた。
俺は、それを知っていた。知っていて、何もしなかった。
二月の終わりの、雪の日だった。
放課後、俺は校門の脇の自販機の前で、雪葉と並んで缶ジュースを飲んでいた。約束したわけではない。行くところのない者同士が、行くところのない場所に、たまたま居合わせただけだ。
「小春ちゃん、見なかった?」
クゥーが、息を切らして走ってきた。
「図書館に、来ないの。いつも、来るのに」
三人で、校舎の中を探した。
見つけたのは、クゥーだった。
二階の女子トイレの前の廊下に、小春が立っていた。
髪から、水が滴っていた。二つに結んだ髪の先から、ぽたり、ぽたりと。セーターが、肩から胸まで濡れて、色を変えていた。足元に、小さな水たまりができていた。
胸に、ノートを抱えていた。テニスの絵が描いてある、あのノートだ。表紙が波打って、インクが滲んでいた。
「あ……クゥーちゃん」
小春は、笑おうとした。
「だいじょうぶ。ちょっと、水、こぼしちゃって」
嘘だった。こぼしただけで、頭の上から濡れるわけがない。
クゥーは、一歩も動かなかった。
「……バケツ?」
かすれた声だった。
小春の肩が、びくりと跳ねた。それが、答えだった。
クゥーの輪郭が、一瞬ぶれた。紺色のブレザーが、別の色に変わりかけて、また戻った。変身の力が、勝手に揺れている。
「……あたしも、された」
クゥーは、膝から崩れるように、廊下にしゃがみこんだ。
「同じこと。トイレの、いちばん奥で。……あたしも、された」
震える指で、マフラーの端をつかんでいた。
「あたしの、せいだ。あたしと、いたから」
廊下の窓の外で、雪が音もなく降っていた。




