第12話 偶然の一致
十月の終わりに、文化祭があった。
体育祭は二日がかりだったのに、文化祭は、なぜか土曜の半日だけだった。その理由を知っている生徒は、一人もいなかった。昔からそうだから、と誰もが言った。
それでも、コレーティアは五つの部を掛け持ちで走り回った。吹奏楽部の演奏でフルートを吹き、料理研究会の模擬店でクレープを焼き、手芸部の展示の受付に座り、合唱部で歌った。バレー部だけは、出番がなかった。運動部には、文化祭でやることなどない、ということらしかった。
美術部の展示室の隅には、クレイの絵が一枚だけ飾られていた。竜の舞う城の絵だった。「今の学校を描こう」の課題は、結局、提出されなかった。
図書館の入り口には、手書きの貼り紙があった。
『詩の会 第一号 頒布中 一部十円』
机の上に、ホチキスで留めた薄い冊子が十部、きちんと積まれていた。表紙の題字は湊の字で、裏表紙のカットは、どう見てもマックスが描いたタワシだった。
昼までに売れたのは、三部だった。
一部は、クゥーと小春が、二人で一冊を買っていった。一部は、コレーティアが買った。本当は十部全部買おうとして、マックスに止められたらしい。
最後の一部は、俺が買った。
「……ソーマ。お主、詩など読まぬであろう」
「暇つぶしだよ」
十円玉を一枚、机に置いた。マックスは、しばらく俺の顔を見ていた。それから、冊子を一部、両手で差し出した。まるで、王様に献上品でも差し出すみたいに。
その夜、布団の中で、冊子をめくった。
湊の詩が五つと、マックスの詩が三つ載っていた。マックスの詩には、名前の代わりに「M」とだけ書いてあった。一つは、タワシで石を磨く詩だった。磨いても磨いても、石は石のままで、それでいい、という詩だった。
よく分からなかった。分からないまま、三回読んだ。
◇
十一月になると、別のものが聞こえはじめた。
ひそひそ声だ。
廊下の角で。昇降口の靴箱の前で。教室の後ろの、窓際の席で。
「ねえ、あの子さ。制服の転校生と、ずっと一緒にいるよね」
「なんで一人だけ制服なの、あの転校生」
「体育館裏で、テニスごっこしてるんだって。部活でもないのに」
「小春ってさ、前からちょっと、変わってたよね」
前から、なんてない。この学校も、この町も、あの子も、今年の春に生まれたばかりだ。それなのに、ひそひそ声は、ずっと昔からそこにあったような顔をしていた。
クゥーは、気づいていないようだった。あるいは、気づかないふりをしていた。放課後になると、ラケットを二本抱えて、体育館裏へ走っていく。
一度だけ、教えてやろうかと思った。
でも、何て言えばいい? 噂されてるぞ、気をつけろ? 噂なんて、放っておけばそのうち消える。どの世界でも、そうだった。
俺は、何も言わなかった。
十二月。二学期の終業式の日、坂道の銀杏は、すっかり葉を落としていた。
帰り道、小春がクゥーに、紙袋を差し出していた。
「クゥーちゃん、これ……。クリスマス、だから」
中身は、手編みのマフラーだった。えんじ色の毛糸だった。クゥーのリボンと、同じ色の。
クゥーは、それを首に巻いたまま、緑の扉をくぐった。
◇
二学期の終業式が終わって広場に戻ると、真夜中だった。
焚き火は、いつものように燃えていた。そのまわりの椅子は、いつのまにか八脚になっていた。七脚と、背の低い一脚。
背の低い椅子の上で、トールが丸くなって眠っていた。
「……待ってたのか」
声をかけると、トールは目をこすりながら体を起こした。
「おかえりなさい。……みなさん、雪のにおいがします」
言われて気づいた。肩に、緑の世界の雪が、まだ少しだけ残っていた。クゥーの首には、えんじ色のマフラーが巻かれたままだった。
八人で、火を囲んだ。
しばらくは、誰も口をきかなかった。薪の爆ぜる音だけがしていた。横断幕のことも、昼休みの図書館のことも、ひそひそ声のことも、たぶん全員の頭の中にあった。誰も、最初の一言を言いたくなかった。
「……皆に、話しておきたいことがある」
口を開いたのは、マックスだった。
「図書館で、少々、大きな声を出した。……聞こえていた者も、おろう」
マックスは、膝の上でタワシを握っていた。広場の石を磨くときの、あのタワシだ。
「我は――僕は、日本で、学校に行けなくなった。二年の秋からだ。それきり、一度も行かなかった」
焚き火が、ぱちりと鳴った。
誰も、笑わなかった。驚いた顔も、しなかった。
「……わたしも」
コレーティアが、ぽつりと言った。
「わたしも、途中から行けなくなったんだ。二年生の、冬くらいから」
理由は、言わなかった。手鏡を、膝の上で裏返しにしていた。
「ぼくもだよ」
クレイが、静かに続けた。
「最後のほうは、ほとんど行ってなかった。美術室にだけ、たまに」
「……うちも」
フルーリアが、ツインテールの先をいじりながら言った。
「まあ、いろいろあってさ。細かいことは、いいっしょ」
雪葉は、長いこと黙っていた。缶ジュースのプルタブを、指先で何度も起こしては倒していた。
「……私も」
それだけだった。
クゥーは、マフラーに顔をうずめたまま、小さく頷いた。
六人の視線が、最後に俺のところで止まった。
「俺も、だ」
口に出してみると、案外あっさりしていた。
「理由は、よく分かんねえ。いじめられたとか、そういうのじゃない。気づいたら、行かなくなってた。家でゲームばっかりしてた」
七人。
焚き火を囲んでいる七人が、七人とも、学校に行けなくなっていた。
「……偶然にしては、確率が低すぎるわね」
雪葉が言った。
「ねえ、みんなの学校って、なんていう名前だったの?」
コレーティアが、身を乗り出した。
「うちはさ、えっと……なんとか中。なんだっけ。駅から、坂をのぼったとこにあって」
「我の学校も、坂の上だった気がするのだが……名は、出てこぬ」
「ぼくも、思い出せないな。校舎の形は、覚えてるんだけど」
誰も、名前を言えなかった。校舎の色は覚えている。下駄箱の匂いも、チャイムの音も覚えている。なのに、校門に掲げてあったはずの名前だけが、どうしても出てこない。
俺も同じだった。合格発表の掲示板の前で、自分の番号を見つけたことは覚えている。その掲示板の上に何が掲げてあったのかが、思い出せない。
「坂の上の学校なんて、日本中にあるわよ」
雪葉が、話を切るように言った。
「……ロルに、聞いてみる?」
クレイが言った。
「定時外だぞ」
「呼ぶだけ、呼んでみようよ」
コレーティアが、夜空に向かって声を張った。
「ロルちゃーん。ちょっとだけ、いい?」
返事はないだろう、と思った。前に夜中に呼んだときは、朝の八時まで、一度も出てこなかった。
ところが、焚き火の向こうの暗がりが、ふっと揺れた。
「……定時外よ」
ロルだった。いつもの深衣には、皺ひとつなかった。ただ、髪はほどけていて、耳の上にペンが一本挟まっていた。こんな真夜中に、まだ何か書き物をしていたらしい。
「ごめんね、ロルちゃん。ひとつだけ、聞きたいの」
コレーティアが言った。
「わたしたち七人、みんな、日本で学校に行けなくなってたんだって。これって、偶然?」
ロルは、すぐには答えなかった。
ほんの少しだけ、間があった。その目が、一瞬、クゥーのマフラーのあたりで止まった気がした。
「……偶然よ」
それだけ言って、ロルは消えた。
暗がりには、もう何もなかった。




