第七話 面白いバレー
一回戦の翌日、体育館の窓が二枚開いていた。十一月の乾いた風がフロアの端を舐めていく。勝ったチームの練習は空気が軽い。パスの列から笑い声が混じって、監督が一度も怒鳴らない。
コートの隅でストレッチをしていた。股関節を開いて、膝の内側に体重を落とす。昨日の試合で二セット動き続けた疲れが脚に残っている。全部囮だった。ボールに一度も触れていないのに、体は正直に疲れを溜めている。
右腕を回した。昨日一本も振っていない腕が、打ちたがっている。次は打つと決めた。じゃあ何を打つ。どうやって打つ。
ハチがパスの列から抜けて、水を飲みに来た。Tシャツの襟が伸びていて、首元に昨日の日焼けが赤く残っている。
「ハチ」
呼んだのは俺だった。ストレッチの姿勢のまま、膝の上で手を組んでハチを見上げる。
「時間差、やらないか」
ハチの目が丸くなった。水のボトルを口から離して、こっちを見ている。
「お前が囮でクイックに入る。俺がセミで打つ。クイックより半拍遅いやつ」
昨日の試合で見えたことがある。ハチが先に跳んでブロッカーを引きつけ、半拍遅れて俺が打つ——その空いた時間に、センター付近がずっと空いていた。直もそれを使って配球を組んでいた。あの空いた時間に俺が打てれば、ブロッカーの選択肢が一つ増える。
「やります!」
ハチは即答した。ボトルのキャップを閉める手がもう揺れている。じっとしていられない体がベンチの前で足踏みを始めていた。
「五十嵐に話通すから、ちょっと待ってろ」
コートの向こう側で、直がボールカゴの位置を調整している。近づくと、直はこちらを見た。
「時間差やりたい。ハチの囮にセミを合わせる」
直は一瞬だけ目を細めた。配球を組み立てている時の目だ。それから片手を軽く上げた。
「やろう」
ネット前に戻ると、ハチがもう小走りでスタート位置に向かっている。靴底が床を叩く音が妙に明るくて、一人だけ試合中みたいな足音を立てていた。
最初の一本で、何も合わなかった。
ハチがAクイックの助走に入る。ネット際に突っ込んで、腕を振り上げて跳ぶ。打つフォームのまま空中に上がって、何も打たずに落ちる。囮。ハチが毎日やっている動きだった。
問題はその後だ。セミの助走が遅い。ハチが着地してもまだ助走に入っていない。ジャンプした時にはもうボールが目の前を通過していた。誰もいないコートに落ちる。
「先輩、遅いっす」
「知ってる。体が去年のクセ抜けてない」
「もう一本いきましょう!」
「お前は元気だな」
去年までの癖だった。高いオープントスの頂点を見届けてから跳ぶ体が、低くて速いセミのテンポについていけない。
「タイミング」
直が短く言った。左手で拍子を取るように二回振る。ワン、ツー。ハチの囮のあと、これだけ間を空けて入れ。ハチではなく、俺に向けた拍子だった。
二本目。ハチが囮で跳んだ。半拍遅れて助走に入る。左、右、左。踏み切って——直のセミが低い弧を描いてセンター寄りに飛んでくる。ハチが着地した、そのすぐ横。打点に入る。腕を振った。
ボールが手に当たった。
芯ではない。指の付け根あたりに鈍い感触があって、ボールはネットの上を越えたが力がない。相手コートの真ん中にゆるく落ちて、誰もいなかったから一応入った。肩から肘、肘から手首、手首から指先へ、遅れてじんと響く衝撃が伝わる。久しぶりだった。ボールを叩く感触を、体が思い出そうとしている。
「入った!」
ハチが振り返った。囮で跳んで着地した位置から、俺の打球を見ている。
右手を見た。指が少し赤い。ボールの縫い目の跡。打った。一本だけ、打った。きれいでも強くもないスパイクだが、ネットを越えて相手コートに入った。
「ハチ、囮のあと着地したらすぐ開けろ。俺のコースが定まってない」
「了解す!」
ハチは即答して足元でステップを踏んでいる。こいつに二度言う必要はない。
三本目。ハチの囮に半拍遅れて、センター寄りから助走に入った。ハチの影がネット際で跳んで落ちる。その影が床に着いた瞬間、俺の足が踏み切りを踏んでいた。直のセミが来る。ハチのすぐ横、打点に合う高さ。
振り抜いた。
肩から先が伸びて、ボールの革が腕の芯に吸いつく。芯を食った感触が肩甲骨まで抜ける。去年ならもっと飛ぶはずの打球がエンドラインの手前に弾んだ。でも抜けた。ブロックのない空間を通過して、相手コートに乾いた音を落とす。
着地。右膝の奥がほんの少しだけ軋む。打つための着地は、囮の着地より重い。
ハチが振り向く。目が合った。ハチの口が開いて、「よっしゃあ」が来ると思ったが、来ない。息を吐いて、それから肩だけ揺れる笑い方をした。
「今の、やばかったっす」
腕がまだ痺れている。この感じ。久しぶりだった。ボールを叩いた後の、肩から指先まで抜ける振動。ずっと忘れていたわけじゃない。忘れられなかったから、余計に腕が熱い。
「……もう一本やるぞ」
ハチが目を丸くして、それから笑った。
直がボールカゴをネットに寄せた。
「藤原。Cセミも試す」
Cセミ。直の背中側から入って、セッターの後ろを抜く軌道のセミだ。ハチが前で囮を跳んでいる間に、俺が後ろから走り込む。攻撃の角度が増える。
「ハチはそのまま。藤原の入りが変わるだけだ」
ハチが頷く。スタート位置を直の後方に移した。
四本目。ハチの囮が跳ぶ。直の後ろから助走に入った。角度が違う。セミより走る距離が長くて、直のトスが出る前に踏み切る位置を決めないといけない。振り遅れた。ボールがネットの白帯を叩いた。
「入りが早い。もう半歩待て」
直の声が短い。五本目。ハチの囮、直のCセミ。今度は待った。低い弧が直の背中越しに飛んでくる。踏み切る。腕を振った。
ボールがクロスに抜けた。ブロックのない空間を通過して、床を弾いて、壁際まで転がっていった。
ハチが振り返って叫んだ。
「よっしゃあ!」
角度が違うだけで、こんなに気持ちいいのか。セミとは助走も踏み切りも別物なのに、腕を振り抜いた瞬間の感触は同じだった。もっと打ちたい。その衝動が足に来て、気づいたらスタート位置に戻りかけていた。
窓の外でカラスが鳴いた。体育館の照明がフロアに長い影を落としていて、ネットの網目が床に格子を描いている。コートの隅でタカが一人、後衛からの三歩助走を繰り返しているのが影の中に見えた。バックアタックの練習だった。誰にも説明せず、黙々と足を合わせている。練習が終わる時間が近かった。
「面白いっすね、これ」
ハチが額の汗を腕で拭いた。
「先輩が打つと音違うんすよ。俺のクイックと全然違う。なんかこう、重い」
面白い。ハチはそれだけで跳べる。面白いから囮に入って、面白いからもう一本要求して、面白いから失敗しても笑える。
「面白いかどうかは知らないけど、もっと打ちたいのは分かった」
ハチがぱっと顔を上げた。
「じゃあ明日もやりましょう!」
「だからお前は元気だって」
練習が終わって、メモ少年がメモ帳を閉じた。ベンチの端に座ったまま、こちらを見ていた時間がどれくらいあったのか分からない。
「先輩、次の相手のミドル、県ベスト8の時に十二点取ってます」
メモ少年が小声で言った。俺にではなく、通りかかったハチに向けて。
ハチの足が止まった。タオルで首を拭く手が一瞬だけ遅れて、それから口角が上がった。
「マジすか」
それだけ言って、体育館の出口に向かった。足音が大きい。怖いとか通用しないとか、そういうことを考える前に体が動いている。
タオルを畳んだ。右腕がまだ熱い。たった五本打っただけで、腕が張っている。囮のジャンプでは使わない場所が久しぶりに動いていた。
明日も打つ。時間差を合わせる。試合で使えるようにする。腕の中にまだ残っている振動が、そう言っている。




