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王様にトスは来ない  作者: お寿司


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第四話 六人で勝て

 照明を消そうとスイッチに手を伸ばした時、廊下の方から声がした。


「五十嵐、タカと揉めたか」


 振り返った。入口の壁に背中を預けて監督が立っていた。腕を組んでいる。いつからそこにいたのか分からない顔をしている。


「……聞こえてたんですか」

「体育館は声が通る」


 監督はそれだけ言って、僕の方を見なかった。視線は廊下の先。蛍光灯のじじという鳴りが二人の間を埋めていた。


 聞いていたなら全部聞こえたはずだ。タカの声も、僕の「ごめん」も。監督の表情は何も変わっていない。


「悩んでるんです」


 口を開いたのは僕の方だった。壁パスの音が消えた体育館に一人で立って、ボールを床に置いて、それでも答えが出ない。指先がまだボールの感触を探していた。


「藤原をどう使えば——」

「一人の話じゃない」


 遮られた。短い。監督の声は低いが、よく通る。廊下に響くほどの声量ではない。でも体育館の中には他に音がない。


「六人で勝て」


 それだけ言って、監督は壁から背中を離した。腕組みを解いて、ジャージのポケットに両手を突っ込む。廊下を歩いていく。背中が少し丸い。足音が遠ざかる。角を曲がったのか、聞こえなくなった。振り返りも、付け足しもしない。一言だけ置いて去る人だった。


 六人で勝て。


 息が止まった。僕はずっと二人しか見ていなかった。藤原をどう使うか。タカをどう活かすか。天秤の皿が二枚しかないから、どちらに傾けるかで頭を回していた。


 でもコートには六人いる。ミドルのクイックが効けばレフトが空く。レフトが空けばタカのストレートが通る。六人が動いた結果の、タカの一本だ。二人を天秤にかけ続けたら、いつか両方落とす。


 スイッチに手を伸ばした。パチン。照明が落ちた。暗がりの中で床に置いたボールを拾い上げ、カゴに戻す。


 体育館の出口に向かいながら、コートにいる六人を思い浮かべた。それぞれに癖があって、強い場面と弱い場面がある。打率とコースの傾向は頭に入っている。入っているのに、僕はまだ半分も使えていなかった。


 更衣室で着替えて外に出た。夜風が首筋を撫でる。冷たい。十月の空気は昼はまだ汗をかくのに、夜になると急に冷える。校庭を横切りながらスマホを取り出した。画面の光が白っぽく浮く。


 LINEを開いた。藤原の名前をタップする。


〈明日の練習、ちょっと変えるから〉


 送信。校庭の端を歩きながら画面を見ていると、既読がすぐについた。


〈何を〉


 返しが早い。あいつは寝る前にスマホを触っているタイプだ。僕もそうだけど。


〈来たら分かるよ。ね?〉


 送ってからポケットにスマホを戻した。正門を出る。駐輪場で自転車を引き出す。カゴに入れたバッグの中でシューズが揺れた。ペダルを漕いでもよかったけれど、しばらく押して歩いた。街灯が等間隔に道を照らしていて、その光の切れ目を一つずつ踏んでいく。頭の中がまだ体育館にある。


 あいつに一つ、見せたいものがある。来週の女バレの練習試合。名取のトスを見れば、分かるかもしれない。セッターが上げる時に何を抱えているか。


 ただ、タカの「目ぇ見て上げろ」は数字の外にある。


 タカは打率で語る選手じゃない。コートの空気と、セッターの目を読む。だから僕の天秤に気づいた。計算だけで動くセッターには、一生届かない声だった。


 ポケットの中でスマホが震えた。自転車を止めて画面を見る。


〈了解〉


 藤原の返信。一言だけ。句点がない。スタンプもない。それなのに、あいつが少し笑っている気がした。根拠はない。ただ、そういう気がする。


 スマホをポケットに戻して、自転車にまたがった。ペダルを踏む。夜の道を走りながら、明日の配球を頭の中で組み始めていた。


 六人分のデータを残さず使う。藤原にも上げる。けれどそれは六人のうちの一本としてだ。タカが打つ一本に、もう「おまけ」はつけない。


 翌朝。体育館に入ると朝練の準備がもう始まっていた。ネットが張られて、ボールカゴが定位置に出ている。朝の光が床を斜めに切っていた。


 タカはコートの端でストレッチをしていた。いつもより早い。僕が入ってきたのに気づいて、一瞬だけ視線を上げた。すぐに膝の上に目を落とす。


 昨日の空気がまだある。タカの肩が少し高い。力が入っている時の癖だ。


 タカの方に歩いた。二メートルくらいの距離で止まる。タカがもう一度顔を上げた。目が合う。昨日とは違う。待たない。こっちから行く。


「配球、変える」

 タカの眉がわずかに動いた。

「お前の一本を、おまけにしない。お前に上げる時は、お前を見て上げる」

 タカは黙ったまま、ストレッチの姿勢で僕を見上げている。


 言い切った。喉が乾いていた。タカの表情はすぐには変わらない。昨日の怒りが消えたわけじゃない。でも、ごめんとは言わなかった。ごめんは昨日言って、突き返された。同じ言葉を二度出す気はない。


 タカがゆっくり立ち上がった。膝を伸ばして、僕よりほんの少し高い目線からこっちを見下ろす。


「……ほんまにやんの」

「やる」


 タカはまだ何か言いたそうだった。口が動きかけて、止まる。視線を外して、コートの向こう側を見た。ネットの白い帯が朝の光を受けて少し光っている。


「なら見とくわ」


 肩の力が少しだけ抜けた。納得じゃない。拒否でもない。判断を保留したまま、目を離さないという宣言だ。去年の県予選の前夜にタカが返した「おう」と同じ重さが、その声にはあった。


 タカが視線を戻して、もう一度ストレッチの姿勢に入った。僕に背中を向けたわけじゃない。ただ、話は終わりだという体の向きだった。


 体育館の入口からハチが駆け込んできた。「おはようございまーす!」と声が天井に跳ね返る。後ろから堀内さんと真鍋が続く。靴底が床を踏む音が重なり始める。


 六人で勝て。


 ボールカゴからボールを一つ取り出した。手の中で回して、革のざらつきを指先に馴染ませる。コートの真ん中に立った。


 トスの構えをとった。手を開いて、指の間にボールの重さが乗る。


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