表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
王様にトスは来ない  作者: お寿司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/5

第五話 託す側

 「ちょっと変える」の中身がこれかよ。


 朝の練習前、体育館に入ったら直がいつもの笑顔で待ち構えていた。ボールを指先で回しながら、楽しそうに言う。


「王様、今日の午後さ、女子の練習試合見てきて」

「は? なんで俺が」

「勉強になるから。ね?」


 ね? じゃない。昨日のLINEで〈ちょっと変えるから〉って言ったのはこれか。変えるのは練習内容じゃなくて俺の午後の予定かよ。


 反論する間もなく直はコートに歩いていった。三十秒後にはメモ少年が「俺も行くっす! 名取先輩の配球、要チェックっす!」と参戦してきて、俺の午後は女子バレー部の観戦に決まった。自分の意志が介在した記憶は一切ない。


 午後。第二体育館。


 パイプ椅子に座って、コートを見下ろす。隣ではメモ少年がメモ帳を広げて臨戦態勢に入っていた。ペンのキャップをくわえて、まだ試合が始まってもいないのにページの上に日付と対戦カードを書き込んでいる。


 女子バレー部がアップをしていた。ネット際で二人一組のトス練習をしている中に、名取結月がいる。指先がボールの下に入って、きれいな弧を描いてネットの向こうに飛ぶ。力みがない。一本一本の高さと位置が揃っていて、直のトスを毎日見ている俺でもそう思う。


 笛が鳴った。


 相手校との練習試合が始まる。名取がセッターの位置に立つと、アップの時の表情が消えて目が変わった。コート全体を走る視線。直がトスの構えに入った時の目と同じ種類のものだ。


 コート上で声が飛び交い始める。「いくよー!」「ワンタッチ!」。ブロックの指先がボールを掠めた合図だ。触れたなら軌道が変わる——味方はそれを聞いてコースを読み直す。「はい!」。男バレとは違う高い声が第二体育館に反響する。


 相手のサーブが深い。エンドライン際を狙った無回転のフローターサーブで、ボールが揺れながら落ちてくる。リベロが腕を伸ばして返した。少し乱れた。ネットから離れたボールが高く上がって、名取が走る。


 ボールの下に入る。指先が触れた瞬間、名取の視線が一瞬だけ左を向いた。レフトのエースが助走に入っている。相手のブロッカーが二人、レフト側に寄った。


 名取のトスは右に飛んだ。ライトの選手がストレートに打ち切って、相手コートの端に落とす。


「おお」


 隣でメモ少年が声を漏らして、ペンを走らせた。コートでは「ナイスー!」の声が重なっている。


 名取はエースに上げると見せて、逆に振った。乱れたパスから走りながら、視界の端でブロッカーの反応を見て、空いた方に出す。配球の基本だけど、あの一瞬の判断は速い。


 次のラリー。セッターの真上に返る完璧なレシーブが返って、名取の選択肢が広がった。名取がエースに上げた。高くて長いトス。エースが三歩で入って、ブロック二枚の間に打ち込んだが手首のスナップが甘い。ボールがブロッカーの指先を掠めて、ネットの白帯を叩いて落ちた。相手のコートに辛うじて入る。


 拍手が散った。俺はエースの顔の方を見ていた。肩の小さな選手だった。前髪を束ねたゴムが汗で少しずれている。振り切った腕をゆっくり下ろす。ブロックに当たった感触が残っているのだろう。きれいに打ち切った手応えじゃない。


 名取がポジションに戻る。さっきまでと足の運び方が少しだけ変わっている。ネット際に寄る位置が、エースからわずかに遠い。


 ラリーが続くにつれて、名取の配球のパターンが見えてきた。散らす。ライト、レフト、速攻。きれいに三方向へ配っていて、相手のブロッカーが絞れない。理にかなった配球だった。


 ただ、エースに返す頻度が少ない。


 第一セットの中盤。名取の散らしは効いている。でもエースに上げる場面が明らかに少ない。ブロック二枚ならライトに振る。一枚でも迷う。エースの足が止まりかけて、トスが来ないまま着地する場面が二度あった。


「名取先輩、エースに上げんかったっすね」

「ブロック二枚だったからだろ」


 メモ少年がペンを走らせている横で、俺はコートを見ていた。名取とエースの目が合っていない。コート上では「切り替え!」「集中!」の声が飛んでいるのに、二人の間だけ無音だった。


 12-11から逆転された。名取がエースに上げた一本は、半テンポ遅かった。打つ側の人間だから分かる。エースの最高到達点に届く前に、もう降り始めている。手首を被せて無理に打った球は、ブロッカーの腕に当たった。シャットアウト。11-13。


「……今の、トスが低くなかったっすか」

「低かった」


 メモ少年がびっくりした顔で俺を見た。俺が直のトスを待つ時の感覚で分かる。ボールを離す瞬間、名取の指先が迷っている。その迷いが半テンポになる。


 第一セットの終盤。名取の配球はさらに散り始めた。エースを避けるように、ライトとセンターの比重が増えていく。エースが助走に入っても、トスが来ない。


 一歩目が重い。跳ぶ前から「来ないかもしれない」と思っている足はそうなる。俺はそれを知っている。膝の裏側に、同じ重さの記憶がある。


 22-25。第一セットを落とした。


 セット間。コートの選手がベンチに戻っていく中で、名取がタオルで汗を拭きながらこっちに歩いてきた。俺の隣のパイプ椅子に腰を下ろす。コートでは「ドンマイ!」「次取ろ!」の声が交差している。


「見てんでしょ」

「……見てる」

「感想は」


 からかいの声だった。でも目が笑っていない。コートに視線を残したまま、タオルの端を握っている指先が白い。


「エースに上げるタイミング、ちょっとずれてないか」

 名取の手が止まった。タオルを握ったまま、一秒だけ俺の方を見て、視線を外す。

「……知ってる」


 からかいも皮肉もない、低い声だった。


「打てる顔と打っていい顔は違うって、前に言ったでしょ。あれ、自分のエースに対してだと全然違うの」


 コートではチームメイトがドリンクを飲んでいる。名取はそっちを見ながら、続けた。


「他人のチームの試合なら分かるの。あそこで散らす、ここでエースに戻す、それが正解って。でも自分のトスだと——」


 名取が口を閉じた。言葉の続きがあったはずだった。喉の手前まで来て、飲み込んだ。


 膝の上でタオルを丸めて、開いて、また丸める。指の関節が白い。さっきまでボールを上げていた手が、布を握る力加減を間違えている。


 名取の指を目で追っていた。開いて、閉じる。ボールを離す時の恐さが、あの五本の指の中に全部詰まっている。


「まあ、あたしの話はいいんだけど」


 からかいの声が戻った。でも目が戻っていない。前髪の隙間から覗く目が、コートのエースを追っている。


「……なんとなく分かる」


 口から出ていた。名取の手が止まった。タオルを握ったまま、こっちを見る。からかいでも皮肉でもない目だった。


 名取が言葉を飲み込んだ場所と、直が俺にトスを上げない場所が、たぶん近い。うまく言えない。でも指先から離れたボールの行き先を信じる問題で、裏表だった。


「戻る」


 名取が立ち上がった。タオルを首にかけて、コートの方を見る。エースがネット際でストレッチをしている。二人の間に会話はない。


「名取」

 呼び止めた。

「なに」

「エースに聞いたのか。打ちやすいトスの高さとか」


 名取が少し目を見開いた。それから、かすかに笑った。笑いの形をした何か別のものだった。


「聞いてない」

「聞けよ」

「……うん」


 コートに歩いていく。足取りは軽いのに、肩だけが力を抜いていない。


 第二セットが始まる前だった。コートに戻った名取が、エースの横に立った。何か言っている。声は聞こえない。エースの肩が少し動いて、名取が小さく頷いた。十秒もなかった。


 「声出していこう!」とリベロが叫んで、笛が鳴った。


 第二セットは、少しだけ空気が違った。名取のトスがエースに向かう頻度が上がっている。まだ合わない。半テンポの遅れは消えていない。でも上げようとしている。相手も対応を始めて、散らしのパターンを読んでセンターとライトのブロックを厚くしてきた。エースが空く場面が増える。


 22-21。青嶺が一点リード。終盤。


 相手のサーブがエンドライン際に落ちた。リベロが飛び込んで返す。乱れたボールが高く上がって、名取が走った。


 エースが助走に入っている。ブロックが二枚揃い始めていた。


 名取の指がボールに触れる直前、目が閉じた。一瞬だけ。それからトスを上げた。エースに向かって、高く、長く。


 合っていた。


 背筋に何かが走った。


 さっきまでのズレがない。エースの最高到達点にボールが届いて、振り抜いた腕がブロック二枚の間を割った。相手コートの奥に突き刺さる。


 エースが振り向いた。名取がコートの真ん中に立っている。二人の目が合った。一秒もなかった。名取が小さく頷いて、ポジションに戻る。コート上で「ナイスキー!」の声が弾けた。


 名取の横顔が汗で光っていた。トスを上げた後の手がまだ開いたまま、ゆっくり下りてくる。指先が少しだけ震えていた。怖かったのだと思う。それでも上げた。


 一本だけだ。たった一本。でもその一本で、エースの助走が深くなった。


 25-23。第二セットを取り返した。


 第三セットは見なかった。結果は後からメモ少年のメモで知ることになる。


 天井を見上げた。パイプ椅子の背もたれが肩甲骨に当たる。隣でメモ少年がメモ帳にペンを走らせている。俺が言葉にできないものを、こいつは残らず数字に落としている。


「お前のメモ、けっこう使えるな」


 メモ少年の目が光る。何か言いかけて、代わりにメモ帳を両手で差し出してきた。ページの端が指に触れる。メモ少年はそのまま両手で持ったまま、しばらく動かない。やめろ、犬みたいな目をするな。


 名取が目を閉じた一瞬のことを考えていた。データも配球理論も揃っていて、それでも合わなくて、最後にエースの手に向かってボールを離した。


 託す。たぶんああいうことだ。


 直が俺に上げない理由の輪郭が、少しだけ見えた気がする。指先から離れたボールの行き先を、上げる側は信じなければならない。信じられないなら、離せない。


 明日、直の配球を見てみよう。打つ側からじゃなくて、上げる側の目で。


 俺はエースだ。打つ側の人間だ。託す側になるつもりはない。


 でも、見てみたい。あいつが見ている景色を、一度でいいから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ