第二十四話 六人の一点
五セット目、十五点マッチ。
コートチェンジの間、キャプテンがベンチの椅子に腰を下ろした。四セット目まで一度も座らなかった人が、膝に両手を置いて長く息を吐いている。右膝の上に置いた手が指先だけ白くて、テーピングの端が汗で浮いていた。
誰も声をかけない。監督が短く守備の確認とサーブ順を告げて、準備は終わった。
アニキが腕を回しながら言った。
「何本来ても、一本ずつ返す」
タカが短く息を吐いた。
「決めるわ」
直がこちらを見た。頷く。直も頷いた。
ホイッスルが鳴って、六人がコートに散る。
ハチのBクイックで先制した。直のトスが低く速くブロックの間を抜けて、ハチが腕を振って吠える。
「よっしゃあ!」
すぐに追いつかれた。神谷のクロスがアニキの腕を弾いてコートの奥に突き刺さる。1-1。
俺のサーブがネットの白帯に当たって、こちら側に落ちた。
「ドンマイ!」
ハチの声が飛んだ。頷いた。
直が配球を散らしてレフトのタカ、ライトの俺、センターのハチを使い分けながら点を返していく。4-3まで持ち直した。
歓声が遠くなった。
さっきまで聞こえていた声が、体育館の壁の向こう側に下がっていく。耳の中に膜が一枚張ったみたいに、音が薄い。靴底が床を踏む音だけがやけに近くて、それ以外が遠い。
タカが後衛にいた。
相手のサーブレシーブが返って、直がネット際でボールの下に入った。指先が動いて視線がレフトに流れる。ブロックが一枚寄った。その瞬間にトスが後ろへ飛んだ。
タカが三メートルラインの手前で踏み切っていた。パイプ。腕を振り抜くと、ブロックの上を越えた打球がエンドライン際に落ちる。
5-3。
タカが着地して、声は出さずに足元を見た。
才能なんかないねん。でもやめんかった。——あの角の丸い関西弁が、着地の振動の中に混ざっている。タカはそのままポジションへ戻った。
神谷のエースが連続で打ち抜いてきた。ストレート、クロス。6-6。
「切り替え!」
ハチが叫んだ。7-6から俺の大砲が相手コートに突き刺さり、8-6でコートチェンジになった。
ベンチに戻る途中で、キャプテンが立ち上がるのが遅れた。
膝が伸びきらないまま一歩目を踏んだ。二歩目から普通の歩幅に戻したが、最初の一歩で床を押す右足が震えている。俺は見ていた。タカも見ていた。ハチもアニキも直も、全員が見ていて、誰も何も言わなかった。
まっすぐ前を向いている。目が死んでいない。四セット分跳び続けた膝で、まだ跳ぶ目をしていた。
8-6からの再開。歓声がもう聞こえない。遠い場所の出来事みたいに、コートの外が薄い。
六人の靴底だけが鳴っている。
アニキが後衛に入っていた。腕が赤い。四セット分のボールを受け続けた前腕だった。
神谷のエースが助走に入る。レフトからの踏み切りが深い。腕が振り下ろされた瞬間にはもうボールがクロスへ向かっていた。
アニキの体がボールより先に動いていた。低い姿勢のまま横に飛んで、体が流れて腕が伸びて、床すれすれでボールが腕に当たった。低い弾道のまま、直の頭上に上がっている。
もう十分、と言った人が、まだ飛び込んでいる。ユニフォームの腹についた床の汚れが、拭いても拭いても増えていく。
直がそれを拾い上げてトスにした。ハチがAクイックで叩き落とす。
9-6。
アニキがゆっくり立ち上がった。ユニフォームの汚れを払わないまま、ポジションに戻る。
堀内さんが前衛に入った。
10-8。直からのトスが堀内さんのレフトに飛んだ。相手のブロックが三枚揃っていて、コースが塞がれている。
堀内さんの手首が回った。打球がブロックの外側に向かう。相手の右端のブロッカーの指先にかすかに触れて、ボールの軌道がわずかに変わった。
ブロックアウト。音がしない。叩かずに抜く手首。あの練習で繰り返していた指先の仕事が、三枚揃ったブロックの、指一本分の隙間を通していた。
11-8。
ハチが堀内さんの横に並んで、拳を突き出した。堀内さんが軽くそこに拳を合わせる。二人ともポジションに戻っていく。
監督が立ち上がった。
「真鍋。お前のジャンプフローターだ、一本頼む」
ベンチの端でメモ少年がジャージのチャックに手をかけた。指先が速く動いている。チャックを下ろして袖を抜いて畳んでベンチに置くまでの動作が丁寧すぎる。ペンを置くときと同じ指の使い方だった。
交代のプレートが上がった。
メモ少年がサイドラインを越えた。右足がコートの床を踏んだ瞬間に一歩だけ立ち止まる。メモ帳を置いて、両手が空いた。記録席から数えてきたものが、この足裏にある。
メモ少年の指がエンドラインの後ろでボールを受け取った。左手で回転をかけながら感触を確かめる。ペンを持つ指ではなく、ボールを持つ指が動いている。審判の笛が鳴る。
ボールを高く上げて二歩の助走から跳んだ。左手でボールを押し出す。回転をかけない。
ボールがネットを越えて揺れていた。左右にぶれながら落ちていく。相手のリベロが出した腕の横をボールが逃げた。レシーブが乱れて攻撃が繋がらず、フリーボールが返ってきて直が上げて俺が打った。
12-8。
「真鍋! ナイサー!」
ハチの声がコートの中から弾けた。
真鍋。メモ帳を持っていた手で、ボールを打った。
サーブ権は続く。真鍋がもう一度エンドラインに立った。二本目。同じフォームで、同じ無回転。今度は相手のレシーバーが構えを変えてきた。返球が上がって、相手の攻撃が繋がる。サイドアウト。
12-9。
真鍋がコートを出る。交代で戻った選手とすれ違いながら小さく頭を下げた。ベンチに戻って椅子に座り、記録用のノートを開く。ペンを持つ指先がまだ速く動いていた。
そこから神谷チームの意地だった。エースが連続で打ち抜いてくる。12-10、12-11。追いつかれかけたところで俺の大砲が突き放して13-11。
キャプテンの膝が前衛にいた。
ハチがサーブを打つ前に、キャプテンが声を出した。
「行きましょう!」
音が消えた世界の中で、その声だけが届いた。
ハチのサーブが入って相手のレシーブが返る。高いトスが上がって、相手エースがレフトから助走に入った。
キャプテンが跳んだ。右足で踏み切る瞬間に膝がほんの少し沈んだ。沈んだまま床を蹴って、体が持ち上がる。遅い。四セット目より明らかに遅い。それでも両腕を突き上げた。相手の打球がブロックの正面に当たって、真下に落ちる。
14-11。
キャプテンが着地した。
右膝が折れかけた。左手が床についた。一秒、その姿勢のまま止まっている。ハチが駆け寄ろうとして一歩目を踏んだが、キャプテンのほうが先に立ち上がっていた。膝に手を当てずに、腕の力だけで体を起こして、そのままポジションに戻る。
膝が揺れているのが見えた。俺も、直も、タカも、アニキも。全員が見ていた。全員が何も言わなかった。
14-12。マッチポイント。神谷チームがタイムアウトを取る。
ベンチに戻ってもキャプテンは座らなかった。立ったまま六人の顔を順に見て、何も言わない。直がこちらを見た。頷く。直も頷いた。それだけでコートに戻る。
体育館から音が消えていた。
歓声がない。靴底の音もない。手のひらが開いている。六人の足が床を踏んでいるのが見えるのに、何も聞こえない。静かだった。
ハチがネット前で構えている。声にならない声を出す一年が、口を結んだまま跳ぶ準備をしていた。ノリで跳んで、ノリを失って、それでもまたここにいる。
神谷チームのサーブ。強いジャンプサーブが飛んできて、アニキが低い姿勢のまま正確に返した。ボールが直の頭上に上がる。
直の指先が動いた。
視線がレフトに流れる。ブロックが動いた。直が上げたのはライトだった。言葉にしなかった声が、指先からボールに移っている。
助走に入っていた。左、右、左。踏み切った。相手ブロックが二枚飛んできて、目の前に壁がある。ボールが頂点から落ちてくる。手のひらの下にボールの重さが近づいた。
振り抜いた。
止まらない。肩から指先まで一直線に力が通って、手のひらがボールの芯を捉えた。ブロッカーの上から叩き込む。
六人がコートの上に立っている。アニキが拾って、直が上げて、俺が打った。
ボールが床を叩いた。重い音だった。
音が戻った。
笛が鳴った。長い笛が、体育館の天井まで昇っていく。歓声が壁を叩いて、床を揺らして、全部が一気に流れ込んでくる。
ボールがコートの上で転がっている。誰も拾わない。転がる音だけが、体育館に残っていた。
ハチが声にならない声で叫んでいた。口が開いて、喉が震えて、音が追いつかない。そのまま両手を突き上げて、コートに膝をついた。
タカが天を仰いだまま立っている。足が動かなかった。
堀内さんが膝から崩れて、そのまま座り込んだ。右手がまだ開いたり閉じたりしている。
アニキが両手を膝に置いて、長く息を吐いた。ユニフォームの汚れが、そのまま残っている。
直がこちらを見た。直を見る。
キャプテンがネット際に立っていた。動かない。右膝に体重をかけたまま、まっすぐ立っている。
六人がコートの上にいた。




