第二十三話 王様にトスは来ない
四セット目が始まった。
ハチのサーブが相手コートの左奥に刺さった。リベロがかろうじて弾いた返球は浅い。直の手にボールが収まって、タカがストレートに叩き込む。
1-0。三セット目を取った勢いが、まだ靴の底に残っている。
「よし、一本!」
アニキが短く手を叩いた。
流れは長く続かなかった。
相手の9番がショートサーブに切り替えた。アニキの前に落ちてくるボールを低い姿勢から返したが、軌道が直から遠い。トスが低い。タカがブロックの上から打てない位置で腕を振って、ボールがネットの白帯に食い込む。
白帯がボールを吸い込んで、青嶺のコートに落ちた。
「くそ……まだや。まだ序盤や」
タカが自分に向けて声を出している。
「タカ、気にすんな。白帯は運や」
アニキが低く言った。タカが顎を引いて構え直す。
追い上げが始まった。堀内さんのクロスが相手レシーバーの正面に飛んで拾われ、切り返しの打球がコートの奥に突き刺さる。2-4。
ライトに立っている。直のトスが来た。高い。弧を描くボールの下に入って助走を踏み切り、腕を振り上げた。二枚。ブロッカーが目の前で手を広げている。
クロスに通した。ブロックの外を抜いてエンドライン付近に着弾する。音が薄かった。コースは合っているのに、壁まで届いていない。手のひらの芯を、指一本分だけ外した感触が残っている。
3-5。
「コースは合ってる。芯を喰え」
アニキの声がコートに落ちた。短いが、技術を見ている声だった。
次も直が俺に出した。時間差を使って一枚のブロックの上から打つ。コースは見えていて、相手コート内にボールが落ちる。だが相手リベロが追いついて弾き、繋がれて切り返された。
4-7。
ベンチから監督がタイムアウトを取った。
ベンチに戻った。
監督が立っている。
「変えるな。やってることは間違ってない」
短い言葉だった。監督は腕を組んで、座った。
アニキが肘の内側を拭いている。タカは膝に手を置いたまま荒い息を吐いている。キャプテンはベンチの前に立ったまま、コートを見ていた。
直が隣に座った。
いつもと距離が違った。肩が触れるか触れないかの距離で、配球ノートは開いていない。直がこちらを見ている。
配球を組む目ではない。データから最善手を計算して、その結果をトスに変換する目ではなかった。もう決めた後の目だ。
直が前を向く。
「去年の最後の試合」
声が小さい。いつもの直ではない声量だった。
「お前が一人で打って壊れた試合。僕もコートにいた」
前を向いたまま直が話している。俺を見ない。
「上げ続けた。お前が三枚に突っ込んで、膝が鳴って、それでもまだ打とうとしてるのに、僕はトスを出し続けた」
直の声はコートの喧騒に紛れるほど小さいのに、一語も聞き逃さない。
「止められなかった。セッターなのに、お前を止めるトスを出せなかった。お前以外に上げる判断ができなかった」
直が止まらない。こんなに長く話す直を、初めて見た。
「あの日からずっと探してた。王様に上げるトスを。お前が全力で打てるトスを」
「配球とか効率とか、全部計算してきた。それは嘘じゃない」
直の手が膝の上で止まっている。指先が微かに震えている。
「でも本当は——」
直がこちらを向いた。
「藤原に上げたいんだ」
王様ではない。
直が俺を名前で呼んだのは、初めてだった。
何も返せなかった。喉の奥が狭くなって、声が出る形にならない。
直はもう前を向いている。何も待っていない顔だった。言い切った顔で、コートを見ている。
一人で——。
声が浮かんだ。あの夜の体育館で、ハチが言った声。
——先輩、一人で打とうとしてないっすか。
ハチの声が消えた。消えた場所に、直の言葉が残っている。
一人で打っていたと思っていた。去年も、今年も。壊れた腕を抱えて、八割の打球を一本ずつ通して、それでも足りないと思っていた。
直がずっと探していた。俺に上げるトスを。チームがずっと、この試合の中で動き続けていた。
一人じゃなかった。
タイムアウトの終わりを告げる笛が鳴る。
コートに戻った。
六人がポジションにつく。アニキが構えて、タカが後衛にいて、ハチがネット前で膝を曲げている。堀内さんがレフトに立っている。
直がセッター位置に入った。振り向かなかった。でも背中が見えている。さっきまでベンチで隣にいた背中が、コートの真ん中にある。
相手のフローターサーブが来た。低い弾道のボールをアニキが腕を伸ばして受けて、ボールが直に向かって飛んでいく。
直がボールの落下点に入って、両手を構えた。
ハチがクイックの構えに沈む。タカが後衛から助走の準備に入っている。堀内さんがレフトで待っている。
五人が動いている。
止まっていたのは俺だけだった。三セット分ずっと、八割で打って、三枚に止められて、腕の中で何かが軋んで。一人で打っていると思い込んで、止まっていた。
五人が動いている。直がトスを構えている。ずっと探してた、と言った直が、ボールの下にいる。
「上げろ!」
声が出ていた。六つの靴底が床を踏んでいる、そのコートの真ん中で、俺が叫んでいた。
衝動ではなかった。直が上げたいなら、俺が打つ。
直の手からボールが離れた。
高い。
ハチがクイックの助走を踏み切っていた。ブロッカーが一枚、ハチに引かれて動く。もう一枚はまだ俺を見ている。
直のトスはハチに出なかった。
ボールが天井に向かって昇っていく。高い。遅い。打点の頂上で待てるオープントス。去年と同じ高さまでボールが昇った。
跳んだ。
床を蹴った足裏の感触が脛を伝って、膝を通り抜けて、腰から背中に突き抜けた。体が持ち上がっている。アニキが拾って、直が上げた。その先に、ボールが頂点で待っている。ブロッカーの手が伸びてくるのが視界の端に見えて、その上に打てる空間が広がっていた。
腕を振り上げた。肩の筋肉が伸びきって、肘が畳まれて、手首が最後のスナップを溜めている。
振り下ろした。
止まらない。腕が通り過ぎている。肩から指先まで一直線。手のひらがボールの芯を捉えた。
音が割れた。
三セット分ずっと薄かった打球音が、手のひらの真芯から弾けて体育館の天井まで昇っていった。壁に当たる。跳ね返る。天井に当たって、また落ちてくる。一つの音が体育館の中で何度も往復している。
打球がブロッカーの上を越えた。二枚の指先が届かない高さから、ボールがまっすぐ相手コートに落ちていく。相手リベロが腕を出す。届かない。ボールが床を叩いて、弾んで、転がった。床を叩いた音まで重い。三セット分のどの着弾音とも違う。
体育館が一瞬黙った。
着地した。両足がフロアに着いて、衝撃が膝を突き抜ける。膝は鳴らなかった。振り切った右腕が体の左側まで流れて、そのまま戻ってこない。腕の中を通り過ぎた振動が、肩から手首の間でまだ揺れている。
5-7。
ハチが走ってきた。
「先輩! 先輩、今の——」
声にならない叫びを上げながら俺の前に滑り込んで、両手を突き上げている。タカが拳を振って「よっしゃ!」と吠えた。アニキの「でかい!」がコートを横切って、堀内さんが一度だけ強く手を叩く。キャプテンが拳を握ったまま、顎を引いた。
ベンチが立ち上がっていた。メモ少年が記録用のノートを膝から落として叫んでいる。控えの選手がベンチの前に溢れて、声が重なって言葉にならない塊になっている。監督が腕を組んだまま一歩だけ前に出ていた。
観客席の上の方で、一人だけ立ち上がっている影があった。マフラーを巻いた小さな影。
ネットの向こうで、神谷が口の端だけで笑っていた。こっちを見ている。怒りでも焦りでもない。面白いものを見た目だった。
直が隣に来た。何も言わない。右手を上げている。
掌を合わせた。三セット分ずっと配球を組んでいた手のひらが、乾いた音を鳴らす。
ネットの向こう側の監督がタイムアウトを示す手を上げかけて、止めた。手が宙で固まったままこちらを見て、それから下ろす。相手のブロッカーがボールの落ちた場所を見ている。
コートの中央に六人の手が集まった。ハチの手のひらが俺の手のひらに当たる。アニキの赤い前腕が、タカの拳の横にある。直の手が重なった。キャプテンの手が最後に乗って、六つの手が一つになった。
一本で空気が変わった。三枚のブロックが俺を追えば追うほど、ハチのクイックが通る。
次のラリーでアニキがサーブレシーブを返して、直の手にボールが収まった。
助走に入る。直が振り向きもせずにトスを上げた。高い。さっきと同じ高さまでボールが昇っていく。
跳んだ。振った。ブロッカーが一枚増えて三枚になっていた。クロスに打った打球が三枚の壁の右端から三十センチ外を抜けて、エンドラインの手前に叩きつけられる。
6-7。
「三枚抜いた! やばいっす!」
ハチの声が弾んでいる。
「あいつら動揺しとる。畳みかけるぞ」
タカが低い声で言った。ベンチからメモ少年の声が飛んでいる。聞かずに、次のポジションへ足を運んでいた。流れが変わり始めている。靴底が床を蹴る音が、一本前より速い。
相手ベンチが動いた。ブロックのシフトが変わって、俺のライトに常時二枚を配置する形に切り替わっている。
ブロックが俺に寄れば、他が空く。
直がハチにBクイックを通した。ノーブロックの状態からハチが打ったボールが、相手のレシーバーの間を抜けて着弾する。
7-7。追いつく。
「続けろ! 手ぇ緩めんな!」
アニキが低い声で言った。
次のラリーで助走のフェイントを入れると、ブロッカーが二枚寄ってきた。直のトスは堀内さんへ飛んで、レフトからクロスに打った打球が一枚ブロックの外を通した。
8-7。逆転した。
ハチが足を踏み鳴らしている。声にならない声を口の端から漏らしていた。
「堀内さん、レフト完全にフリーっすよ」
ハチが興奮気味に言った。堀内さんが黙って頷いている。
「藤原に寄れば寄るほど、こっちが空く」
淡々と、でもどこか満足げに。タカが顎を引いた。
「ええ流れや。焦んな」
堀内さんは何も言わずにネット前に戻った。
タカのフローターサーブで相手のレセプションが崩れた。返球が浅い。チャンスボールが直に返って、直が俺にトスを上げた。高い。跳んだ。ブロッカーの上から振り下ろした打球が、相手コートの隅に突き刺さった。
9-7。
「よっしゃあ!」
ハチの声が跳ねた。タカが「まだまだ」と低く言いながらポジションに戻っている。
その後も流れは止まらない。俺の大砲が戻ったことで相手のブロックが散って、散ればハチのクイックが通り、堀内さんのコース打ちが決まり、タカのパイプが後衛から突き刺さる。六人の攻撃が噛み合っている。アニキがフロアすれすれで拾ったボールが直の手に入るたびに、誰かが打てるトスが上がる。
14-10でテクニカルタイムアウトに入った。コートサイドで水を飲んでいる間、誰も大きな声を出さない。
ハチが俺の横に来た。
「藤原先輩、さっきの打球、壁まで聞こえてましたよ」
首を振った。
「お前のクイックのほうがうるさい」
ハチが目を丸くして、それから笑った。アニキがタオルで腕を拭きながら「二人ともうるさい」と小さく言って、タカが鼻で笑っている。
直が水のボトルを口から離す。
「次も上げるよ、王様」
王様、に戻っている。いつもの直の声だった。
相手も粘った。エースの打球がアニキの腕を弾いて14-13になり、次のラリーでサーブレシーブが乱れて直のトスが低くなった。低い打点から無理やりコースを通して凌いだが、相手のサーブミスを挟んでまた追いつかれる。14-14。
直のサーブが回ってきた。
「行くよ」
直が短く言って、ボールを弾ませてからサーブを打った。低い弾道のジャンプフローターが相手コートの奥に伸びて、レシーバーを後ろに下げる。返球が浅い。
チャンスボールが返ってきて、直が落下点に入って両手を構えた。
走った。助走の一歩目を踏んだ瞬間、直がこちらを見ずにトスを放る。
高い。さっきと同じ高さだった。
跳んだ。腕が振り上がって頂点でボールを捉えた瞬間、掌の芯から指先まで力が抜けずに伝わった。ボールがストレートに落ちていく。相手ブロッカーの指先が空を掻いた。
15-14。
「さあ来い!」
タカが後衛から声を上げた。
そこから三点を連取した。ハチのクイック、俺の大砲、堀内さんのブロックアウトで18-16。
セットポイントで、相手のサーブをアニキが返した。直の手にボールが入る。
助走に入った。ブロッカーが寄ってくる。三枚。俺に全員が集まっている。俺のライトに三枚が揃った瞬間、センターが空いた。
直のトスはハチに飛んだ。
ノーブロックだった。ハチがネットの前で跳んで、Aクイックを白帯すれすれに叩き込んだ。相手リベロが体を投げ出したが、ボールはその横を通り過ぎてコートの中央に突き刺さる。
笛が鳴った。
「取ったああ!」
ハチが叫んでいる。口が開いて、喉が震えて、声が体育館に溢れた。タカが両手を突き上げた。アニキが「よし」と一言だけ吐いて、膝に手をついている。
四セット目を取った。2-2。
ベンチに戻る足音が六人分重なった。
三セット目と同じ足音のはずだった。違う。靴底の下の床が、さっきとは違うものを返してきている。
タオルを受け取って首の後ろに押し当てる。水のボトルに口をつけた。喉を通った水が、冷たいまま胸の奥に落ちていく。
直が隣に座った。
「ファイナルセットだね」
直が前を向いたまま言った。
「上げろ。全部打つ」
腕がまだ鳴っている。百本止まり続けた場所を通り過ぎた振動が、肩から手首まで残っていた。あの音が耳の奥にある。壁に当たって跳ね返ってきた、去年と同じ重さの音が。
キャプテンがベンチの前に立っている。
「行くぞ」
同じ声量だった。同じ声だった。
六人が立ち上がった。




