第二十二話 立て
ベンチに戻る足音が六人分重なった。
タオルを受け取って首の後ろに押し当てる。二セット連取されている。あと一つ落としたら終わる。頭ではそう数えているのに、足は思ったより軽かった。追い込まれた先にある妙な軽さが、シューズの底から脛まで上がってきている。
監督が立ち上がった。ホワイトボードは出さない。
「同じだ」
指示はそれで終わった。声量も変わらない。
アニキがリベロジャージの袖を肘まで引き上げて折り目をつけた。丁寧な手。何度も見た仕草だったが、いまはその丁寧さが次の一本を準備している手に見えた。
直が隣に座った。配球ノートは開いていない。
「タカのパイプ増やす。藤原のブロードと混ぜて、後ろからも横からも来る形にする」
「それでブロック遅らせるのか」
「遅らせるんじゃない。迷わせる」
直の目が一瞬だけこちらを見た。配球の説明ではない。やるぞ、という目だった。
キャプテンがベンチの前に立っている。座らなかった。
「行くぞ」
いつもの声量だった。大きくもなく、小さくもない。ベンチ全員がほぼ同時に立ったのは、その声が鳴った直後のことだった。
「行こう!」
タカの声がベンチを出る背中に当たった。コートチェンジでネットの下をくぐる。二セット分の疲労が膝の奥に溜まっている。体は重い。重いのに、足は止まらなかった。
タカがエンドラインに立ってボールを手の上で一度回す。
「さあ来い!」
アニキの声がコートに広がる。
タカが振り抜いた。相手のレセプションが返り、レフトへの速いトスをキャプテンがブロックでワンタッチ。アニキが床すれすれで拾って直に繋ぎ、堀内さんのクロスがコートの隅に沈んだ。
「っしゃあ!」
ベンチからハチの叫びが飛んだ。堀内さんと目が合う。何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ視線が一瞬だけ重なって、離れた。
「キャプテン、あの7番のブロック遅れてたぞ。もう一本同じとこ通る」
アニキがキャプテンに声をかけた。キャプテンが頷く。
直がもう次のサインを出していた。
跳んだ。
助走を踏み切ってネットの上で腕を振り上げると、ブロッカーが二枚寄ってくるのが見えた。
打たなかった。
ボールは俺の頭の上を通過して、ハチがネットの中央で叩く。俺に引きつけられたブロッカーの手がワンタッチをかけたが、ボールは相手コートの中央に落ちた。
「抜いた!」
着地してハチのほうを見ると、走ってきたハチが右手を上げていた。掌がぶつかる。
「今の最高っす」
「お前が打ったんだろ」
「囮が効いてるからっすよ」
そこから三点を連取した。ライトからのストレート、アニキのレシーブからブロードへの切り込み。振り切れない腕でもブロッカーの横移動が追いつかない速度で、角度を通していった。
相手がタイムアウトを取った。
ベンチに戻るとハチが水を飲みながら足を揺すっていた。
「いい感じっすよ! このまま行きましょう!」
タカが汗を拭いてから首を一度回す。
「焦らんでいい。一本ずつや」
アニキはベンチの端に座って、左の前腕を右手で摩っている。何度もボールを受け続けた腕をほぐしていた。
「片桐先輩、腕大丈夫すか」
ハチが覗き込む。アニキは前腕をほぐす手を止めずに答えた。
「問題ない。上げるから、決めろ」
タイムアウトが明けて神谷に二点削られた。囮に跳んでもブロッカーが寄らない。1セット目で見切られた動きに、三セット目の体が追いつかなくなっていた。それでも焦りの色がない。アニキの「ここ! 取り返すぞ!」が後衛の足を動かした。
中盤は一進一退だった。技は通し切れている。通し切れているのに、体のほうが削れていく。囮で跳んで、時間差で跳んで、ブロードで走る。肩の付け根で止まる腕で、隙間を通す角度で一本ずつ重ねた。
相手のクイックが来た。キャプテンがネットの前で跳ぶ。タイミングが合っている。ボールを真下に叩き落とした。
「壁! キャプテン壁っす!」
ハチが叫ぶ。キャプテンはうなずいて、もうネットの前に戻っていた。右足が先に着いて、左足が一拍遅れて添えられている。次のポジションに動くまでの間が、二セット目より長くなっていた。右膝に巻かれたテーピングが照明の下で揺れる。
「キャプテン大丈夫っす——」
キャプテンは振り返らなかった。
「跳べる」
ハチが口を閉じた。
終盤に入ってラリーが長くなった。アニキが胸から飛び込んで右手一本で掬い上げ、立ち上がりながら次の指示を出す。キャプテンのワンタッチから堀内さんがブロックアウトを取った。直がこちらを見た。
「堀内さんに出す回数増やす。お前に寄ったブロックの裏を使う」
「分かった」
キャプテンの着地が目に入った。
右足が先で、左足が添えられるまでの間が、さっきよりも明らかに長い。右膝に手が行きかけた。指先がテーピングの端に触れて、離れる。
ブロックの読みは衰えていない。着地だけが壊れていく。
点差が縮まらない。追いつきかけて、また突き放される。相手のほうが二セット分の貯金を持っている。精神的な余裕の差が、際どいボールの処理に出ていた。
ハチの声が小さくなっていた。さっきまで叫んでいた声が、息の混じった音に変わっている。タカは黙って汗を拭いた。
コートの空気が重い。
右手が動きかけた。伸ばせば届く距離にキャプテンの背中がある。指先が空を切って——
「——まだだ!」
キャプテンの声だった。
聞いたことのない声量だった。いつもの「行くぞ」の三倍は出ている。体育館の壁を叩いて返ってくるほどの声が、コートの六人を貫いた。
キャプテンが振り返っていた。正面を見ている。チーム全体を見ている。いつも視線をネットの向こうにしか向けない人が、コートの中の五人を見ていた。
「まだ終わってねえ。立て」
声量は落ちている。でも言葉の一つ一つが床に刺さるように響いた。キャプテンの目が順番に全員を見ていく。アニキ、直、タカ、ハチ、俺。右膝のテーピングが揺れている。着地のたびに壊れていく膝で、この人はまだ跳ぶつもりでいる。
コートが止まった。
ハチが最初に動いた。背筋が伸びて、さっきまで萎えていた声が戻ってくる。
「……はいっ!」
アニキが両手を叩いた。乾いた音が一つ、コートの真ん中で鳴る。タカが顎を引いて爪先で床を一度踏み、堀内さんが腕を振ってポジションに戻った。直は黙ったまま、サインを出した。
足が動く。さっきまで重かった足が、動いている。キャプテンの声が体の中に残っていた。声量ではない。あの人が声を張った、という事実だけが足を押していた。
サーブが来た。アニキが正面に入って腕を合わせる。
「任せろ!」
声を出していた。自分の声だった。キャプテンの声に押されて、いつの間にか出ていた。
直のトスがライトに上がる。ブロッカーが二枚。肩の付け根までしか振れない腕で、クロスに通した。ブロッカーの指先の外を三十センチ。際どい。落ちた。
「よし!」
キャプテンの声が、短く、鋭く鳴った。
キャプテンが吠えてから、コートの温度が変わっていた。声が増えた。足が動いている。一本ごとに誰かの声が飛んで、その声に押されるように次のプレーが始まる。
アニキが拾い、直が配って、ハチが叩き、タカのパイプが一枚も間に合わない空間を抜く。堀内さんがブロックアウトを取り、キャプテンが壁になる。
「寄せろ! ここ踏ん張れ!」
アニキの声。
「行きましょう! まだ足動くっす!」
ハチの声が戻っていた。さっきまで息混じりだった声が、体育館に響いている。
振り切れない腕でも、点が入っていた。
囮で跳んで、時間差で打って、ブロードで走って——角度で通している。全力じゃない。それでもチームの中で点になる。
チームが動いていた。俺一人の腕ではない力で、コートが回っている。
セットポイントで、ライトに入っている。
サーブレシーブをアニキが正確に返した。直の手にボールが吸い込まれて、一瞬の溜めがある。コート全体が止まったように見えた。
トスが上がる。高い。レフトでもセンターでもなく、ライトの俺に向かって弧を描いている。
左、右、左と助走を踏み切った。ネットの向こうにブロッカーが二枚見える。
打った。
肩の付け根までしか振れない腕で、クロスに振った。ブロッカーの間を割るのではなく、内側に寄った二枚の右端の指先から三十センチ外を通す。
ボールがフロアに当たる音がした。相手リベロの手が伸びていたが、届いていない。
笛が鳴った。三セット目を取った。
ベンチから声が上がったが、大袈裟な歓声にはならない。まだ負けている。全員がそれを知っている顔でコートの中央に集まる。
「もう一本」
アニキの声。さっきより小さい声だった。
「行きましょう! あと二セットっす!」
ハチの肩が小刻みに震えている。タカが「まだや」と短く言った。
ベンチに戻る途中、足が止まった。
アニキの腕が目に入った。前腕が赤い。何本拾ったか分からない腕だった。キャプテンがベンチの前に立っている。また座らなかった。右膝のテーピングの端が少しめくれている。直がベンチで配球ノートを開いていた。次のセットのことをもう考えている目だった。
一セット取った。振り切れない腕で取った一セット。
——いや、違う。
俺の腕だけで取ったセットじゃなかった。アニキが拾って、直が配って、ハチが叩いて、タカが打って、堀内さんが決めて、キャプテンが止めて。俺は振り切れない腕でコースを狙っていただけだった。
それでも、セットを取っている。
あと二セット。同じことをもう一度やればいい。俺一人の腕で取ったんじゃないなら、六人でもう一度やればいいだけだった。
コートに視線を戻した。六人分の靴底の跡が、床に残っている。




