第二十一話 去年と同じ相手
サーブ権は向こうからだった。コートについて、直が短く声を出した。
「最初は散らす。サーブレシーブをアニキに集めて、ハチのクイックと堀内さんのレフトで揺さぶる。藤原は囮で」
「了解」
「はいっす!」
ハチが拳を握った。キャプテンが「行くぞ」と落として、六人が散る。
神谷のサーブが唸った。
助走の靴音が三歩、トスが高く上がって、ジャンプサーブの打球がネットの上を越える瞬間に空気が裂ける。ボールが回転しながらコートの奥に突き刺さるように落ちてきて、アニキの前腕がその下に滑り込んだ。衝撃が腕を伝って体を押し、アニキの足が半歩だけ後ろに流された。去年のサーブより一段速い。
「上がってる!」
ハチの声。直がセットアップに入った。ハチがネット際で沈み、ライト側に走る。囮に跳ぶ。
ブロッカーが三枚、俺に寄った。
去年の名前がまだネットの向こうに残っていた。跳んだ瞬間にブロッカーの目線がこちらに集まって、三枚の壁が視界を塞いでいくのが空中から見える。腕を振らずにそのまま体を落とした。
ハチのクイックが通っている。ブロックが一枚もついていないコースをハチの右手が叩き抜いて、ボールが相手コートの端に落ちた。弾む。
「よっしゃあ!」
ハチが拳を上げて直と手を合わせた。
「ハチ、えぐいコースっすね自分で言うのもアレすけど!」
ハチが自分で笑っている。タカが短く声をかける。
「ええ球や。もう一丁行け」
囮が効いている。去年の記憶が相手のブロッカーの体に染みついていて、俺が跳べば三枚が引き寄せられる。その隙間をハチにも、タカにも、堀内さんにも使えていた。
「この調子!」
アニキの声。低い。
試合前のベンチで聞いたメモ少年の声が、まだ頭の中で回っている。
メモ少年はノートを三冊広げていた。神谷のチームだけで一冊。春高予選から練習試合まで、拾えるデータを残らず突っ込んであった。ページの端が折れて付箋がはみ出している。直のノートと同じ厚さになっていた。
「神谷のジャンプサーブ、ストレート七割。回転量が春から上がってます。レフトブロッカーのスライドが県内最速で、センターへの寄りが0.4秒。七番のミドルは速攻のテンポがハチと同等。ライトへの対応だけワンテンポ遅れますが、去年より修正してきてます」
メモ少年はそこで一度ノートをめくった。
「去年の準々、藤原先輩のスパイクを十五本中九本止めてます。ブロックの精度が県で二番目のチームです」
体育館が静かだった。誰も口を挟まない。去年の数字がベンチの空気を重くしていた。
「やりにくい相手だな」
アニキが呟く。
監督が腕を組んだまま口を開いた。「去年とは違うチームで行く。お前たちの武器は一本じゃない。相手も対策してくる。想定通りにはいかんぞ」
「はい」
キャプテンが一言だけ返した。ベンチの全員が頷く。
直がノートを閉じた。こっちを見ない。視線の先にはもうネットとコートラインしかなかった。
「藤原先輩」
メモ少年がノートを閉じながら小さな声を出す。
「囮、お願いします」
返さなかった。頷くだけで済ませる。
想定通りだ。今のところは。
技で、配球で、囮で点が取れている。タカのレフトが通り、ハチのクイックが抜け、堀内さんのコース打ちが決まる。去年とは形が違う。
「いいぞ、このまま!」
タカの声にハチが「はい!」と返す。
前衛に回った。直のトスが来て、ブロードに入る。ブロッカーが一枚遅れて追ってくる。クロスに振った。
当たった感触が軽い。コースは合っているのに、ブロッカーの指先がボールに触れて軌道が変わった。繋がれた。ラリーが続いて、ハチのクイックがブロックの上に吸い込まれる。
「……くそ」
ハチの声に息が混じっている。
「ハチ、落とすな。リズム変えるぞ」
アニキが手を叩いた。直がハチの横を通りながら小声で言う。
「次テンポ上げる。合わせろ」
「はいっす」
次の攻撃で時間差に入った。ハチが先に跳ぶ。ブロッカーが一枚つく。半拍遅れて踏み切り、ライト側で腕を上げた。ブロックが一枚ついている。コースを狙って手首を返す。
打球がブロッカーの外側に逃げて、相手コートの端に落ちる。
「いいぞ!」
ハチが短く頷いた。タカが拳を突き出してきて、軽く合わせる。
「今のコース、あいつら次も空けてくるっすかね」
ハチが聞いた。直が低い声で返す。
「二本目は塞いでくる。次はタイミングで外す」
こっちを見ずに、もうセットアップのポジションに戻っている。
打球の感触が指先に残っていた。振動が薄い。コースで抜いた。読みと技術で一枚のブロックを外した。
でも軽い。去年なら力で割っていた。二枚を、三枚を、打球の速さで粉砕して床に叩きつけていた。あの振動は、今の腕からは出てこない。
中盤に入って相手の攻撃が圧してきた。
神谷のチームは一本止めて一本拾って、繋いだボールを六人で正確に打ってくる。ハチのクイックにブロックが二枚つき始めた。レフトにも対応が早い。
俺の囮に三枚が集まるのは変わらない。でもその裏を使い切ったあとの二巡目で、もう修正してくる。
直がサーブレシーブの前に短く呟いた。準決勝の相手は二セット目に入るまで対応できなかった。神谷のチームは一セットの中盤で修正してくる。ブロッカーが俺の囮を見切った動きを、そのまま次のラリーに反映していた。
ブロードに入った。助走の角度で方向を読まれた。踏み切る前にブロッカーが着地点で待っている。打球がブロックの面に当たって真下に落ちた。
乾いた音がコートに響いた。神谷がネット越しにこちらを見ていた。何も言わない。去年、三枚ブロックの向こう側にいた目と同じだ。
「タイム!」
監督がベンチから声を上げた。笛が鳴る。
ベンチに戻った。監督がホワイトボードを膝に乗せたまま口を開く。
「相手はお前に合わせてきた。囮の効きが落ちてる」
直が水を一口飲んで、ボトルを置いた。
「ブロード、二本目から読まれてます。パイプ混ぜていいですか」
「いい。混ぜろ」
監督はそれだけ言って、座った。
笛が鳴って、コートに戻る。
二十二対二十五。1セット目を落とす。決勝は三セット先取。あと二つ落としたら終わる。技術は通用しているのに、大事な場面で打球がブロッカーの指先に捕まる。見えている。通し切れない。
ハチが隣に来て、何も言わずに俺の肩に手を置いた。体温が一瞬だけ伝わって、すぐに離れる。
「まだや」
タカがタオルで顔を拭きながら言った。振り返らない。
「わいのパイプ、まだ一本も使っとらんやろ」
キャプテンがベンチに向かって歩きながら、低い声を出す。
「行くぞ」
ベンチに座って、キャプテンが膝のテーピングの上を指で一度なぞってから目を閉じた。テーピングの白が照明の下で光っている。
直がタカを見る。
「パイプを増やす」
低い声だった。タカが頷く。
「レフトとの使い分け、どうする」
「相手のブロックが外に開いたらパイプ。中に絞ったらレフトに回す」
直が即答した。タカが顎を引く。
「任せてくれ」
堀内さんがシューズの紐を結び直しながら口を開いた。
「俺のコースは通ってる。ブロック一枚なら確実に抜く」
「頼みます」
直が返す。アニキがタオルで汗を拭いて立ち上がる。
「床のことは俺に任せろ。お前らは打て」
声が重なる。消えた。
2セット目。直の配球が変わった。
サーブレシーブが直の頭上に返り、トスが上がる先はレフトではない。タカが後衛から助走に入った。前衛に三人の攻撃オプションがあって、そこに後衛のタカが加わることで相手のブロッカーの判断が一拍遅れる。
タカがパイプを打ち抜いた。アタックラインの手前から踏み切って、ブロックのいない空間を叩く。準決勝で体に刻んだ四歩の助走がここでも出ている。着地。タカの足が床をしっかり掴んでいた。
「通った!」
アニキの声が飛ぶ。ハチがタカの肩を叩いた。
「タカ先輩、後ろからノーブロックっす! えぐい!」
「まだ一本目や。次で本番」
タカが口の端だけ上げた。二本目。パイプにブロッカーが一枚反応したが遅い。タカの打球がその横を抜けて、相手コートの奥に突き刺さった。
「決まった!」
ハチが両手を上げた。
三本目で相手が対応してきた。ブロッカーが一枚下がって後衛のコースを塞いでいる。タカの打球がブロッカーの腕に当たりアウトになったが、ワンタッチを相手が繋ぎ直してくる。点はもらっている。でも流れは変わらない。
「合わせてきたな」
直が小さく呟いた。
神谷が前衛に来た。
ローテーションの移動でネット越しに並んだ。神谷の目がこちらを見た。去年、三枚ブロックの真ん中に立っていた目だ。
「良いチームだな」
低い声だった。試合中に相手と話す選手は少ない。神谷は構わず続けた。
「お前は去年と変わった。なぜ全力で打たない」
答えなかった。笛が鳴って、ラリーが始まる。
ブロックが二枚ついている。普通なら打てない枚数だった。神谷はブロッカーの手の上から打った。力だけで割っている。腕のスイングが速くて重くて、二枚の指の上をボールが通り過ぎていく。アニキが腕を出したが、弾かれた。
「カバー!」
堀内さんが叫んだが、ボールはコートの外に転がっていた。
次のラリーでは打たなかった。助走に入って、ブロッカーが二枚寄った瞬間に止まる。トスがレフトのエースに流れて、ノーブロックで決まった。個で壊せるのに、必要な時は味方を使う。判断の切り替えに迷いがない。去年より強くなっている。
「次、こっちの番や」
タカが太腿を両手で叩いた。
キャプテンが前衛に回った。
相手のセッターがトスを上げる瞬間にはもう移動が始まっている。トスの方向を読んで二歩でブロックの位置についた。手がネットの上に出る。相手のスパイカーの打球を正面から止めた。
重い音。ボールがブロックの手から真っすぐ相手のコートに落ちていく。
「前!」
アニキが叫んだ。次のラリーでもキャプテンが動いている。相手のクイックを読んで、サイドに寄っていたポジションから一歩だけ戻ってブロックに跳んだ。スパイカーの打つコースが限定されて、アニキのレシーブが正面に返る。
「止めた!」
ハチが声を上げた。
「キャプテン、読み完璧っす!」
「声出せ。次来るぞ」
キャプテンが振り返らずに返した。着地。キャプテンの右足が床を踏んで、すぐにブロックのポジションに戻った。
こちらの攻撃で得点。また相手の攻撃になる。
キャプテンがブロックに跳んだ。読みが合っている。相手のスパイカーが打つ直前に手が出て、ワンタッチを取った。アニキが拾い、直が上げ、コースを狙ったスパイクが決まる。
「よし」
ハチの声の語尾が消えている。キャプテンが着地して、膝を一度だけ手で押さえた。すぐに離す。表情は変わらない。
ブロックは効いている。でも着地のたびに、次のポジションへ戻る一歩目が遅れていた。余分な一歩が入っている。
「キャプテン大丈夫すか」
ハチが小声で聞いた。キャプテンは振り返らなかった。
「跳べる」
それだけ返して、ポジションについた。
2セット目の終盤。点差が縮まっていた。
直の配球とタカのパイプとハチのクイック、俺の囮と時間差、キャプテンのブロック。全部を使って二十二対二十一まで追い上げている。手が届きかけていた。
「あと三本!」
タカが声を張った。
「任せろ!」
前衛に立つ。直のトスが浮いてブロードに入った。左から右へ助走を横に取って踏み切る。ブロッカーが追ってきている。一枚ではなく二枚。コースが見えた。二枚の間の隙間、右腕の外側に通せば抜ける。
腕を振った。
ブロッカーの手が閉じていた。二枚の隙間を埋めるように手が伸びて指先がボールに触れ、軌道がぶれたボールがネットの白帯に当たってこちらのコートに落ちてくる。
笛。二十二対二十二。
「まだ取れる!」
アニキが手を叩いた。タカが顎を引く。
「アニキ、サーブの落ち際どこ来ます」
ハチが聞いた。アニキが即答する。
「奥。下がっとけ」
ハチが一歩下がって構え直した。
デュース。神谷のジャンプサーブが深く入る。アニキが低い姿勢で拾った。
直がレフトに上げた。タカがブロック二枚を避けて打つ。相手のレシーバーが正面で受けた。切り返しが速い。エースが打ってくる。堀内さんがブロックに跳んだが、ボールは横を抜けてコートに落ちた。
二十二対二十三。
「まだや!」
アニキが床を手で叩いて立ち上がった。
サーブでハチのレシーブがやや乱れて、直がワンハンドで上げた。俺へのトスが低い。ブロックが二枚、正面に来ている。
手首を返してストレートに流した打球が、ブロッカーの外側の手に当たった。こちらのコートの奥に落ちていく。
二十二対二十四。相手のセットポイント。
「タイム!」
監督の声で笛が鳴った。ベンチに戻る。
誰も座らなかった。六人がベンチの前に立ったまま、監督の声を待つ。
「攻めろ」
監督はそれだけ言った。
「はい」
六人の声が重なった。コートに戻る。
次のラリーでアニキが相手のスパイクを拾って直が上げた。ハチがクイックを打つ。相手のブロッカーに止められて、ボールがネット際でこちら側に落ちる。音が体育館の天井まで昇っていった。笛が鳴った。
二十二対二十五。
0-2。
コートの上で六人が立ち止まっている。
観客席のざわめきが遠かった。天井の照明に吸い込まれていく。ネットの向こうで神谷のチームが円陣を組む声が短く上がった。
神谷がネット越しにこちらを見た。去年と同じ距離にいる。去年と同じ目の温度で、去年は発しなかった声が聞こえた。
「まだ一人で打ってんのか」
低い声だった。白帯が揺れる。神谷はそれだけ言って、背を向けた。
キャプテンが正面を向いたまま立っている。
自分の右手を見た。止められた感触がまだ指先に残っていて、技は通じてコースは見えていたのに、その先の一枚を割るための速度がどこにもなかった。
「……藤原先輩」
ハチが立ったまま声を出した。目が赤い。
「次は俺にもっとトス」
「ハチ」
直が首を振った。
「お前は十分打ってる。配球は俺が考える」
タカがタオルを取って顔を押さえた。タオルの下から声が出る。
「三セット連取や。やったことないけど、やるしかないやろ」
アニキが黙ったままベンチの方に歩いていく。途中で振り返って、一言だけ。
「水飲め。次が始まる」
ここから三セット連取しなければ、終わる。
直がベンチに戻る途中で振り返った。口は開かない。目だけが一瞬こちらを見て、すぐに前を向いて歩いていく。その背中がベンチの方に消えるまでの数秒が、試合の中で一番長い時間に感じられた。
コートの床が冷えていた。足裏に返ってくる硬さは、朝と同じ。




