第二十話 決勝の朝
決勝に向かうバスの中は静かだった。
昨日と同じ道を、同じ時間に走っている。窓の外の街路樹は葉を落としきって、枝だけが十一月の空に張りついている。声がない。誰かのヘッドフォンから漏れる低い音と、エンジンの振動が座席の背中を通して伝わってくるだけ。
タカが通路側の席で額をヘッドレストに預けていた。イヤホンはしていない。腕を組んで顎を引いて、頬の筋肉ひとつ動かさずにバスの揺れを受けている。眠っているわけではない。
ハチが珍しく声を出さない。
いつもなら隣のメモ少年に何か話しかけているのに、今朝はスマホを触る手も止まったまま窓の外を見ていた。メモ少年がちらっとハチの横顔を見て、また正面に戻る。
「……ハチ、寝てんの」
メモ少年の小さい声。ハチは窓から目を離さないまま首を横に振る。
「起きてる」
ハチはまたバスの揺れに体を預けた。メモ少年が何か言いかけて、やめた。バスの後方ではアニキが窓に寄りかかるようにして額を腕に乗せていて、その隣で堀内さんがストレッチ用のバンドを足に引っかけたまま膝を伸ばしている。
息を吐くと、窓が白く曇る。
自分の手を見た。
指の関節がかさついている。右手の人差し指と中指の付け根に、昨日のスパイクで擦れた跡が薄く残っていた。何本打ったか覚えていない。二十本か、三十本か。でも覚えているのは数じゃなかった。直のトスが指先に触れた瞬間の高さ。ハチの囮で一枚ブロックが外れた時の、ネットの向こうの空白。誰の何で打てたか。手が覚えている。
冷えている。
朝、玄関を出た瞬間に頬を叩いた冷気がまだ鼻の奥に残っていた。準決勝の翌日。ユニフォームの下に貼った湿布のにおいが、微かに胸のあたりに漂っている。
会場の駐車場にバスが入る。
タイヤがアスファルトの段差を踏んで、車体が一度沈んだ。扉が開く。冷たい空気が座席の間を這うように広がった。タカが目を開けて、何も言わず立ち上がる。ハチがバッグを肩にかけた。直がノートをバッグの一番上に入れたまま、チャックを閉めずに降りていく。
昨日と同じ体育館。
壁のコンクリートが朝日を受けて白い。息が白い。
ハチが足を止める。体育館を見上げている。
「デカ……」
タカが横を通り過ぎながら、鼻で笑う。
「昨日と同じ建物やろ」
「いや、なんか昨日より……」
ハチはそれ以上言わなかった。駐車場から入口までの三十メートル。靴がアスファルトを踏む音と、バッグの金具が小さく鳴る音だけが、朝の空気の中を転がっていく。
更衣室は狭かった。
六人分のバッグが床に並ぶ。狭い。着替える順番を譲り合うように体が入れ替わっている。ハチがジャージのファスナーを下ろす音。タカがストレッチポールの上に背中を預ける。紐の擦れる音がする。堀内さんがシューズを取り出して、片方ずつ紐を通し始めている。湿布のにおいが混じる。
キャプテンがベンチの端に座っていた。
「堀内、テープ取ってくれ」
堀内さんがバッグから白いテーピングを抜いて、何も言わず手渡した。キャプテンは片手で受け取って、軽く顎を引いた。
膝にテーピングを巻いている。白いテープを引き出して、膝の下に一周。指で押さえる。密着を確かめてから次の一周に入る。一周ごとに膝を浅く曲げ伸ばしして、テープの張りを確認していた。引いて、止めて、皺が寄っていないか見て、それからまた引く。
復帰してから何度も見た動作だった。県予選の一回戦の前も、二回戦の前も、キャプテンは同じベンチの端に座って、同じ姿勢で膝にテーピングを巻いていた。
でも今日は指の動きが違う。
テープを引く速度が遅い。一周を巻くたびに、膝の皿の上を指の腹で押さえて、テープが肌に密着しているかどうかを確かめている。去年にはなかった手順。テープを一層巻いて確かめて、もう一層重ねてまた確かめる。いつもより一巻き多い。
最後の大会だから。
その言葉は誰も口にしない。キャプテンの指がテープの端を押さえて、最後の一周を丁寧に巻き終えた。
ハサミでテープを切る。金属の刃が白いテープを断つ乾いた音。更衣室に響いた。切った断面を指先でなぞってから膝を深く曲げる。テープが肌を引っ張っている。その張力を確かめるように二秒ほど止まって、ゆっくり伸ばした。膝の皿の下を一度だけ叩く。立ち上がる。
アニキが膝パッドを上げている横を通って、ハチがウォーミングアップ用のバンドを引っ張っている横を通って、更衣室の出口に向かう。背中が遠ざかっていく途中で、俺の前で足が止まった。
キャプテンの顔は正面を向いたままだった。
背が高い。上背のある人間がこちらを見下ろしているのに威圧がない。肩の力が抜けていて、立っているだけなのに、重心が床に深く沈んでいるように見える。
目が合って、一秒か、二秒。
「頼むぞ」
声が低かった。いつもの円陣で言う「行くぞ」とは違う。俺だけに向けた声。
胸の奥で何かがすとんと落ちて、肋骨の内側に当たって止まる。喉が一瞬だけ狭くなる。返す言葉が見つからないまま、足が動いて、更衣室を出ていく。廊下のリノリウムを踏む靴底の音が一歩ずつ遠ざかって、角を曲がる前に一度だけ右手で壁に触れた。それから消えた。
更衣室が静かになる。
ハチがバンドを伸ばす手を止めていた。タカがストレッチポールの上から体を起こして、キャプテンが出ていった出口を見ている。堀内さんの手がシューズの紐の上で止まっている。
誰も言葉を足さなかった。
廊下を抜けて体育館に入る。
昨日の準決勝と同じ照明、同じ天井、同じ広さ。でも空気が違っていた。観客席にはまだ人がまばらなのに、天井の高い場所まで音がぎゅっと詰まっているような圧がある。決勝、と館内放送が一度だけ読み上げて、残響がフロアの上を這っていった。
通路に出たところで、マフラーを巻いた影とすれ違った。名取だ。
「来たんだ」
「来たよ」
名取が立ち止まらずに言った。観客席に向かう足が速い。振り返りかけて、やめた。
「勝ちなよ」
背中越しの声だった。
コートに出た。
シューズが床を踏んだ感触が足裏に返ってくる。昨日と同じ床。同じラインの白さ。
直が隣に来た。配球ノートはもうバッグの中で、手ぶらだった。
「準備いい?」
静かな声。いつもの計算をひと通り済ませた後の、余裕とは違う何かが混じっている。
「いい」
短く返した。直は一度だけ頷いて、セッターポジションに歩いていった。
対面のベンチから選手が出てきていて、背番号が揺れて、ユニフォームの濃い色が視界に入った。
ネットの向こう。
並ぶ六人の中に、背の高い選手がいた。
神谷。
去年の県予選準々決勝で負けた相手。俺が一人で打ち続けて、一人で壊れた試合。あの時の体育館は別の場所で、天井はもっと低くて、照明が一本ちらついていた。でも神谷の立ち方は変わっていない。同じ重心。コートの真ん中に足を置いて、こちら側を一度だけ見る。
視線がすれ違った。すぐに外れる。あの時と同じ目の温度。
去年、一人であのネットの向こうに挑んだ。
セッターが上げるトスを全部打つ。三セット分のスパイクを右腕一本に集めて、ブロックに当たって、拾われて、また打って、肩が上がらなくなるまで振り続けた。最後のセットの終盤、助走の一歩目が出ない。それでもトスは来て、飛べない足のまま腕だけ振って、ボールがネットにかかった。
一人だった。
横を見る。
直が配球ノートを閉じて、バッグのポケットに押し込んでいる。タカはコートの端でストレッチの姿勢のまま右の股関節をゆっくり伸ばしていた。ハチがネットの高さに手を伸ばして、跳ばずに指先を白帯に引っかけている。堀内さんは黙ったままシューズの紐を結び直していて、その指が紐を引く力加減にだけ集中しているのが見える。
キャプテンの膝のテーピング。照明の下でわずかに光っている。
アニキが後衛の位置で腰を落とす。床に近いところから、コート全体を見渡している。
アップのサーブ練習が始まった。ハチのジャンプフローターが相手コートの奥に落ちる。
「ナイサー」
タカの声が短く飛んだ。堀内さんがサーブの構えに入る。キャプテンがネット際でブロックのステップを踏んでいる。膝のテーピングが照明を反射した。
「もう一本」
アニキの低い声がコートの後ろから聞こえた。
六人がいる。
去年はいなかった。一人で打って、一人で壊れた試合の翌日、体育館の外のベンチに座って、隣には誰もいなかった。
今、ネットのこちら側に六人が立っている。
館内放送が鳴った。
「決勝戦を行います。青嶺高校対帝都学園」
拍手が起きた。コートの両端に整列する。
「お願いします!」
六人の声が重なった。向かい側でも同じ声が上がる。礼をして、コートの中に入った。
審判台に審判が上がって、笛を口元に持っていく。
神谷がネットの向こうで構えた。
ホイッスルが鳴る。




