第十九話 真面目の一撃
ベンチに戻った直が、ノートを開いた。
インクで汚れたページ。何度も書き直した線が重なっている。指が一箇所で止まった。数秒。直はノートを閉じた。
「タカ」
低い声。タカが振り向く。
「後ろから入れるか」
「……入れる」
短い返事だった。直は何も足さずに立ち上がって、コートに向かった。
「行こう!」
ハチがコートに飛び出す。アニキが膝を叩いて立ち上がった。
「次のセット、絶対取るぞ」
キャプテンの声が短く飛んだ。六人の手が重なって、散る。
2セット目が始まる。
最初のラリー。直がハチにクイックを出した。ハチがブロック二枚の間を打ち抜く。落ちた。相手コートの端。
「よっしゃあ!」
ハチが手を叩いて、直と手を合わせる。
「繋げ! もう一本!」
アニキの声。六人の手が一瞬触れて、散った。
次のラリー。相手のサーブが深く入って、アニキが低い姿勢で拾った。直のトスはレフト。堀内さんが三歩で踏み切る。ブロック二枚。コースが塞がれていた。ボールがブロッカーの指先に当たり、ネットの白帯に触れてこちら側に落ちる。
「堀内さん、ドンマイ!」
ハチの声。堀内さんが小さく顎を引いて、位置に戻る。
「次、ストレートが空いてた」
堀内さんが自分に言い聞かせるように呟いた。淡々とした声だった。
まだ同じだった。前衛に二枚が揃う。向こうのエースがベンチに目を向けた。何か短く言ったのか、ブロッカーの位置が微調整される。俺が囮に跳んでも動かない。レフトにもクイックにも二枚。1セット目の読まれ方が、そのまま続いていた。
向こうのエースのスパイクが飛んできて、堀内さんが前腕で弾いた。レシーブが直の頭上に返る。直が俺にライトを上げた。ブロック二枚。手首を返してコースを変えたが、ブロッカーの外側の手に当たってアウト。ワンタッチでこちらの得点になる。
「取った!」
アニキの声が飛んだ。ハチが「さあ来い!」と構える。でも流れは変わっていない。前衛のどこに出しても二枚がつく。直が何を出しても一歩先を塞がれる空気が、コートの上に残っていた。
「前が全部塞がれてる」
直が低く言った。でも焦ってない。計算している目だった。
「向こうの頭の中に、うちの攻撃パターンが全部入った。クイック、時間差、ブロード、レフト。どこに何が来るか覚えた」
「それ、まずいんじゃ」
「逆。覚えたってことは、そこにないものが来たら対応できない」
直がセッター位置に戻った。何を出すかは言わない。
「カバー!」
アニキが叫ぶ。相手のサーブミスが一本。こちらもハチのクイックがシャットアウトされて、点差は二点のまま中盤に入る。
相手のサーブの直前。直が背中越しに手を出した。
右手の指が形を作る。その手を見ていた。今まで試合の中で見たことのないサインだった。ハチがAクイック、俺が直の背後を回り込んでライト側から入るCクイックの構え。AやBがセッターの前で打つのに対して、Cはセッターの後ろから飛び込む。ダブル速攻。そしてもう一つ、指が後ろを指す。
後ろ。タカ。
心臓が一つ鳴った。やるのか。ここで。
「さあ来い!」
ハチの声が体育館に響く。サーブが来る。アニキが拾って、直の頭上にボールが上がった。
直がセットアップの姿勢に入る。
ハチがAクイックに走った。俺も走る。ネットに沿ってライト方向にCクイックの助走を踏む。二人が同時にネット際に飛び込んだ。相手のミドルブロッカーの足がハチに引っ張られ、もう一枚が俺のCクイックに反応した。二枚ともネット際で飛んだ。
直のトスが、前衛の誰にも出なかった。
ボールが後ろに飛んだ。ネットから離れていく。
タカが走っていた。
後衛から。アタックラインの手前で左足が床を踏んだ。体が後ろに倒れるように跳ぶ。右腕が上がる。
ブロッカーが前衛にいる。二枚とも、ジャンプが落ちきっていない。ネットの向こう側に壁がない。タカの前に、誰もいなかった。
「タカ!」
タカの右手がボールを叩く。
ノーブロック。腕を伸ばす相手がいない空間を、打球がまっすぐ抜けていく。前衛の打点より低い。でもブロックがゼロなら打点の高さは関係ない。相手のレシーバーが反応した。遅い。ボールはもう通過していた。コートの真ん中に落ちて、弾んで、転がった。
重い音が鳴った。何十本も何十本も繰り返して体に刻んだ助走が、五本に一本だった精度が、試合のコートの上で一本の打球になって相手のフロアを叩いている。
音が止まった。歓声も靴音も、全部が一拍だけ消えた。
タカが吠えた。着地した足でコートを踏みしめたまま、天井に向かって叫んでいる。言葉になっていない。声だけが天井を突き抜けていく。
それから一気に来た。ハチが走ってきてタカの背中に飛びついた。
「タカ先輩すごい!」
ハチが叫んでいる。
「いいぞ!」
自分の声だった。
「でかい!」
アニキがコートを横切って叫ぶ。堀内さんが黙って両手を叩いた。
「ナイスパイプ!」
キャプテンの声。歓声が壁を叩いて、天井まで登って、降りてきた。
六人の手が集まった。熱い。タカの手のひらが俺の手のひらに当たる。Cクイックの囮で跳んだ体がまだ震えている。俺とハチが前で跳んだから、後ろが空いた。
一本で流れが変わる。さっきまで前衛に二枚揃っていたブロックが、今の一本で後ろも見なければならなくなった。前と後ろ。どっちに張るか。相手に選ばせる側に回った。
向こうのエースがコートの奥を見ている。修正の指示が出るまでに、数秒の間がある。
後衛からのバックアタック——パイプが二本続けて決まった。二本目は相手が一枚回り込もうとしたが遅い。タカのボールがブロッカーの外を抜けて相手コートの奥に刺さる。タカが声を上げた。「いいぞ!」と返した。
向こうのエースがタイムアウトを取った。ベンチに戻る相手の中で、エースがブロッカーに何か早口で話している。後衛を警戒しろ、とでも言ったのか。
こちらのベンチ。監督が短く言った。
「効いてる。続けろ」
「相手、選択肢が増えて迷ってます。ここからが崩し時です」
直が短く言った。監督が頷く。
「任せる」
タカが水を一口飲んだ。
「もう一本いける」
低い声。直は何も返さずにコートへ歩き出した。
タイムアウトが明けると、向こうが後衛を意識し始めた。ブロッカーの重心が一瞬後ろに傾く。
直はそれを待っていた。前衛のブロックが遅れた瞬間、ハチのクイックが一枚ブロックの脇を抜ける。
「通ったっすよ!」
ハチが直とハイタッチした。前か後ろか。相手はどちらかに賭けるしかない。
「前が薄くなってる。もう一本クイックいけるぞ」
堀内さんが直に声をかけた。直が短く頷く。
三本目のパイプはネットにかかった。タカが唇を噛む。
「まだある! もう一本!」
自分の声だった。
自分で驚いた。声が出ている。タカが顔を上げて頷いた。
次に後衛に回った時、タカは同じ助走を踏んだ。踏み切りを一歩後ろに戻して、ラインの手前で跳ぶ。ノーブロック。重い音。相手コートに落ちた。
「よっしゃ!」
タカが声を上げた。コート中央に六人が集まった。
「でかいっす! でかい!」
ハチが叫ぶ。アニキが「よし」と短く言って、手が重なる。2セット目を取った。
「ここから集中! 一本ずつ!」
堀内さんの声でコートが締まった。3セット目は点の取り合いになった。パイプに対応してワンタッチをつけてくる分、前衛のブロックが薄い。ハチのクイックが通る。堀内さんのコース打ちも通った。前と後ろ、両方を見なければならなくなった相手の判断が、少しずつ遅れていく。
「レフト!」
直が俺にライトへ上げた。ブロックが一枚。八割で打つ。コースを狙って、ブロッカーの外側を抜いた。入った。
「抜けた!」
堀内さんの声が飛ぶ。でも去年の音じゃない。手のひらに残る感触が軽い。足りない二割が、まだ腕の奥に眠っている。
「いいコースだった」
直が低い声で言った。こっちを見ずに、もう次の配球を考えている。
「オーライ!」
アニキが構える。それでも向こうのエースが二本続けて決めた。点差が縮まる。ブロックの隙間を通す正確な打球にアニキが届かない。
「アニキ、あいつクロスに変えてきた。ブロックのつき方変えますか」
ハチが聞いた。アニキが膝を叩いて構え直す。
「わかっとる。半歩寄せろ」
短く答えて、タカが「いけるいける」と声を出した。
「前!」
アニキが叫ぶ。終盤、キャプテンのブロックが相手エースを仕留めた。長い腕がボールの上に被さって、真下に叩き落とす。着地。キャプテンが膝を一瞬だけ庇って、すぐに手を叩いた。
「キャプテン!」
ベンチからメモ少年の声が飛ぶ。
笛が鳴った。準決勝、セットカウント2-1。
「勝った……!」
ハチの声が震えていた。コートの真ん中に集まって、六つの手が重なった。
コートの上でハチが飛び跳ねて、堀内さんが笑って、キャプテンが腕を組んだまま立っている。アニキがネットの前で一度だけ手を叩いて、ベンチに向かって歩き始めた。歓声が壁に当たって返ってきて、天井の高いところでいつまでも回っている。
その中で、タカが直を見ていた。
三メートル先。直はネット際でボールを拾い上げようとしていて、タカの視線に気づいて手を止めた。
「見とったんか」
関西弁。試合中の声とも、普段の声とも違う。低くて、少しかすれている。
直が小さく頷いた。それから口を開いた。
「見てた。お前を見て、上げた」
タカの口が動いて、閉じた。拳を握って、開いた。目が赤くなりかけて、タカは天井を向いた。
コートの端から、二人を見ていた。
整列して礼をする。
ベンチに戻った瞬間、ハチが叫んだ。
「勝った! 勝ったっす!」
堀内さんが笑っている。アニキがタオルを投げてキャッチした。キャプテンが「よくやった」と一言だけ落として、それでもう十分だった。タカが天井を見上げている。目が赤い。
「タカ先輩、パイプえぐかったです!」
ハチがタカの背中を叩く。タカが鼻で笑って、ハチの頭を押さえた。
監督が腕を組んだまま言う。
「決勝は明日だ。体のケアだけしとけ」
出口に向かう。直の横を歩いた。直はノートをバッグに入れて、チャックを閉めた。
外に出た。十一月の風が、汗の残った首筋を撫でていく。
決勝に行く。六人で。




