第二十五話 帰還
笛の残りが天井のどこかに引っかかっていた。
長い笛だった。審判が腕を上げている。コートの上でハチが叫んでいる。口が動いている。音がまだ耳に届かない。膜が一枚、鼓膜の手前に残っているみたいに、音だけが遠い。
隣でタカの腕が横を横切って、堀内さんの背中を叩いた。乾いた音。堀内さんが振り向いて、口元が歪んだ。泣いているのか笑っているのか、どちらにも見える顔だった。アニキが両手を膝に置いて、長く息を吐いている。ユニフォームの裾が汗で張り付いたまま動かない。
直がこちらを見ていた。さっきトスを上げた時と同じ目だった。何も言わない。頷いた。直も頷いた。
整列。相手チームの列と向き合う。審判の前で一礼。握手。手のひらが触れて、離れる。
神谷の前で止まった。手が伸びてくる。強く握り返された。
「良いチームだった」
同じ言葉だった。1セット目にネット越しで聞いた声と同じ。でも温度が違う。
「春高で会おう」
手が離れた。神谷はもう前を向いていた。
列の最後まで歩いた。相手のセッターが俺の前で止まった。細い目がまっすぐこちらを見て、頭を下げた。深い一礼。俺も頭を下げた。
ネットの下を潜ってコートに戻る。スコアがまだ光っている。掲示板の数字を読む前に、ハチが背中に飛びついた。両腕が首に回る。重い。ハチの胸から伝わる震えが肩甲骨に届いた。
「勝ったっす」
声が裏返っていた。
タカが近づいてきて、ハチの首の後ろを掴んだ。引き剥がさない。そのまま三人で立っている。タカの手のひらが広くて熱い。アニキが右に来た。何も言わない。肩が触れた。堀内さんが両手で顔を拭いて、その手を下ろした時には笑っていた。
キャプテンがネット際に立ったまま、こちらを見ていた。動かない。テーピングの巻かれた右膝に体重をかけて、まっすぐ立っている。目元がぐしゃぐしゃだった。でも背筋は伸びている。
ハチがキャプテンに走っていった。キャプテンの前で止まって、また声にならない声を出した。キャプテンの手がハチの頭に乗った。一度だけ、短く頷いた。
拍手が来た。
一箇所から始まって、反対側の客席に届いて、折り返してくる。去年の拍手とは違った。去年は一人に向いていた。怪物が打って決めた時の拍手だった。今の拍手は、六人の立っている場所に、まとめて届いた。
手のひらがまだ熱かった。振り抜いた感触が指先に残っている。ボールの芯を捉えた重さが、遅れて手のひらの真ん中に沈んでいく。
ベンチに戻った。監督が立っていた。何か言おうとして口を開けたまま、閉じた。代わりに一度だけ深く頭を下げた。チーム全員に向けて。
真鍋がタオルを配っている。ハチが受け取って顔を拭いて、タオルの向こうからまた泣いていた。タカがペットボトルの蓋を開けて、半分飲んで、残りを堀内さんに渡した。堀内さんが受け取って一口飲む。何も言わない。
アニキがシューズの紐を結び直していた。表彰の準備が始まるまで、このチームの足元を確かめている。三年間、ずっとそうだった。
表彰台の準備が進んでいる。アナウンスの声がスピーカーから聞こえた。
立ち上がった。ペットボトルを手に取って、通路に向かった。直が目だけでこちらを見た。片手を上げた。すぐ戻る。直は頷いた。
通路に出た。
壁に背中をつける。ひんやりした壁がジャージ越しに背中の汗を吸っていく。ペットボトルの蓋を開けて一口飲んだ。水が喉を落ちていく。体育館の中から椅子を並べる音が遠く聞こえる。
手を開いた。指の関節がかさついている。左手の親指の付け根にテーピングの跡が薄い線になって残っていた。試合で何本打ったか、もう覚えていない。覚えているのは直が上げたボールの高さと、最後の一本で手首に乗った重さだけだった。
勝った、と思う。
思ってから、喉の奥がほんの少しだけ狭くなった。去年なら、この熱は一人の手のひらに閉じていた。今は六人分の汗が床に染みたコートで打った後の熱だった。通路の壁は冷たい。でもベンチの方からハチの声が聞こえる。
「優勝、おめでと」
声が横から来た。
名取がマフラーの中から言った。ダウンジャケットを腕にかけて、通路の端に立っている。制服のスカートの裾が、通路を抜ける風で揺れていた。
「最後まで見てたんだ」
「当たり前でしょ」
名取がマフラーの端を指で引っ張った。出口から入ってくる冷たい風がその端を揺らしている。ペットボトルを持ったまま、名取を見た。
「打てる顔してた」
名取が言った。
前にも聞いた。打てる顔と、打っていい顔は違う。あの時は練習試合の後だった。あの頃はまだ一人で打っていた。今日は直が上げたボールを、六人のコートの中で打った。名取の言葉の形は同じなのに、中身が違う。
壁から背中を離した。
「五十嵐くんのトス、変わったね」
名取がマフラーの中から言った。目が通路の先を見ている。
「前は配球で勝ってた。こっちに上げたら相手はこう動くから、次をこっちに振る。理詰めのトス。あたしと同じタイプだと思ってた」
マフラーの端を巻き直す。指先が赤い。観客席は冷えていたのだろう。
「でも今日のは違った。決勝のあれ——信じて上げてた」
名取の声が少しだけ遅くなった。いつもの速さの隙間が開く。
「あたしも、ああいうトス上げなきゃいけないんだよね」
通路を人が通り過ぎていく。どこかのチームのジャージを着た二人連れが、俺のユニフォームを一瞬見て、そのまま出口へ消えた。体育館の中からパイプ椅子を並べる金属音が聞こえる。
名取が小さく笑う。笑ったはずだった。でも目尻が濡れている。すぐにマフラーの中に顔を埋める。肩が一度だけ震えて、止まる。
「必要な人間になったじゃん、藤原」
名取が小さく笑った。マフラーの中でくぐもった声だった。それから通路の先に歩き出す。髪が揺れる。練習後の少し癖のある髪が、通路の風に流れた。
「春の大会、見に来て」
名取が振り返らずに言った。
「行く。見に行くよ、結月」
結月の足が止まる。振り返らない。マフラーの端が一度だけ揺れて、肩が小さく上がった。すぐ戻る。そのまま歩き出した。ダウンジャケットの背中が、出口に向かう人の流れに紛れていく。足音が遠ざかって、別の足音に紛れた。
壁に立ったまま、出口の光を見ていた。顔が熱い。試合の後だからだと思った。
コートに戻ると、ハチが走ってきた。
「遅いっすよ藤原先輩!」
表彰の準備が終わっていた。パイプ椅子が並んで、コートの中央にテーブルが置かれている。賞状と優勝旗がテーブルの上に載っている。審判団がテーブルの横に立っていた。
ハチの目が赤くて鼻が赤くて、それでも笑っていた。俺の腕を掴んで列の方に引っ張っていく。
チームが並ぶ。キャプテンが先頭。その後ろにハチ、タカ、堀内さん、アニキ、直。俺はその列の端に入った。真鍋がベンチの前で背筋を伸ばしている。メモ帳は閉じていた。
タカが前を向いたまま、小さく言った。
「藤原、靴紐」
見下ろすと、左足の紐が緩んでいた。屈んで結び直す。床が硬い。さっきまで跳んでいた同じ床なのに、表彰台に向かって歩く足の裏は違う硬さを拾った。
アナウンスがスピーカーから落ちてきた。
「優勝、青嶺高校」
拍手。今度の拍手はさっきより整っていた。揃った手のひらの音が、コートの六人と、ベンチの真鍋と、パイプ椅子の監督に向いている。
キャプテンが一歩前に出た。賞状を受け取る。両手で持って、一礼。手が震えていた。指先だけが細かく揺れている。俺の位置から、キャプテンの肩甲骨が上下するのが見えた。
優勝旗が渡される。キャプテンが両手で受け取って、一度だけ旗の布地を見下ろした。重さを確かめるみたいに。それからゆっくり振り返って、ハチの前に立った。
「持ってろ」
ハチが両手で受け取った。旗を胸の前で抱えて、唇が震えた。何か言おうとして、声にならなかった。代わりに両腕に力を込めて、旗を抱き直した。
キャプテンがテーピングの膝に片手を置いた。指先が布の端に触れている。膝はまだ腫れている。この膝であと何試合跳べるか、誰にも分からない。でも次がある。全国がある。キャプテンの背筋はまだまっすぐで、目元は赤いまま、前を向いていた。
直が隣に立っていた。気づいたら、いた。
「ね?」
「……遅くなった」
「何が」
「全力。もっと早く打てたのに」
直が笑った。目も笑っていた。
「間に合ったよ」
コートの上を見る。
ハチが優勝旗を両腕で抱えている。目が腫れていて、鼻が赤い。タカが腕を組んで立っている。唇の端だけが上がっていた。堀内さんが目尻を拭いて、それから手を下ろして、自分の手のひらを見ていた。アニキが足元の床を一度だけ見下ろして、それから顔を上げた。キャプテンがまっすぐ前を向いている。直が隣にいる。
真鍋がベンチの前でメモ帳を膝に置いたまま、コートを見ていた。ペンが止まっている。書くのをやめて、ただ見ている。
八人がいる。六人と、リベロとベンチの一人。その中に俺がいる。
誰も拍手を待っていなかった。でも拍手は来た。遅れて、足元から胸まで届く。
手のひらが、まだ熱い。
蛍光灯の下で八人が並んでいる。この八人の中の一人が、俺だった。
次がある。




