第二話 六人
三角関数の加法定理。黒板にsinとcosが並んでいる。チョークの先が折れて、先生が舌打ちした。教室は窓が開け放たれていて、十月なのにまだ暑い。半袖の腕に汗が薄く張りついている。
ノートは開いている。ペンは止まっている。
頭の中はコートの上だった。復帰戦。あの「上げろ」がまだ抜けない。叫んで、三枚に止められて、腕に残っているのは振動だけだった。
蛍光灯がちらつく。隣の席で消しゴムのカスを払う音がやけに近い。斜め後ろに直がいる。ノートに何か書いている。復帰戦から、視線が来ない。
チャイムが鳴った。横から声が飛んできた。
「また難しい顔してる」
名取だ。斜め前の席から体ごとこっちに向いている。肩にかかるくらいの髪が、振り向いた勢いでまだ揺れていた。一年から同じクラスだが、ほとんど喋ってこなかった。こいつが話しかけてくるようになったのは、膝をやってからだ。
「してない」
「してるよ。眉間」
細い指で自分の額を突いてみせた。頬杖をついたまま、少し首を傾ける。目が笑っているのに口は笑っていない。からかう時の名取はいつもこの顔だ。
「あんたって、なんで要なの」
「は」
「名前。藤原要。珍しいなと思って」
「親がつけた。知らん」
「要、ね。なんか、必要みたいな漢字じゃん」
なんでもない顔で言った。深い意味があるのかどうか、分からない。
立ち上がった。椅子を引く動作が軽い。背筋がまっすぐで、足運びに無駄がない。女バレのセッターらしい身のこなしだった。
ひらひらと手を振って、廊下に出ていった。足が速い。話すのも速い。踏み込んできて、深追いせずに抜ける。ポニーテールの先が廊下の角で揺れて、消えた。
放課後、体育館に入った。シューズの底が床を噛む感触。ワックスの剥げた床。窓が開いていて、風がネットを揺らしている。
青嶺高校男子バレー部。部員八人。六対六もできない。隣の体育館ではバスケ部が三十人で走り回っていて、たまにボールがこっちに転がってくる。十年前は県ベスト4まで行ったらしい。今は準々で負けるチームだ。部室はなくて、ロッカーはバスケ部と共用。窓際のホワイトボードに練習メニューを書くのが、うちの設備のすべて。
そのホワイトボードのスタメン表に名前はない。分かっていた。次もベンチスタート。前衛にいる三回のローテだけ出してもらえる。やることはブロックとカバー。まだ試合では打ててない。
ブロック練習から入った。
タカが助走に入る。右から来る。手を上げた。ブロック。指先にかすった感触があって、ボールの軌道が変わる。
「もう一本!」
低くて太い声。タカの声には力がある。もう一本、が自然に出る男だ。助走の入りが深くて、腕の振りが大きい。フロアへの着地が重い。
「ナイスキー!」
ハチが叫んだ。Aクイック——セッターのすぐ横で打つ速攻の順番が回ってきて、直の真横に飛び込む。ブロッカーの手が上がる前にボールが落ちている。
「っしゃあ!」
拳を突き上げて、コートの端まで声が飛ぶ。練習でもこの声量だ。跳んで、打って、吠える。一つに繋がっている。感情でバレーをやれる人間が、このチームには一人いる。
堀内さんがコース打ちを決めた。ライン際ぎりぎりに落とす。打球音が小さかった。力で叩くんじゃなくて、手首で狙ったところに運ぶ打ち方だった。フォロースルーも小さい。何事もなかったように、自分のポジションに戻っていく。
うまい。力じゃないのに、確実に落ちる。
「前!」
アニキの声。コートに立つと別人になる。普段は口数が少ないのに、練習が始まると声だけで六人の体を動かす。三年のリベロ。床すれすれの球に胸から滑り込んでいくのを、もう三回見た。
「次」
キャプテンが短く言って、ローテーションが回った。いつも一言。でもコートの全員の体が少し締まる。
スパイク練習に移った。ライトで助走の構えを取る。直がトスを上げた。踏み込んで、跳んで、腕を振った。床に跳ね返って壁に当たる音。悪くない。でもまだセーブしている。膝は痛くない。ただ、体重を乗せるには早い。
切り返しの練習。向こう側からタカのスパイクが来た。ネットの白帯を掠めて、低い球がこちらに落ちる。体が先に動いていた。両手を床の近くに差し出す。指先にボールが当たる。角度が甘い。でも浮いた。直が走って拾い上げた。
拾った時の感触が指先に残っている。打った時とは違う。軽くて、薄い。
自分の番が終わってベンチに下がった。息が上がっている。打った。拾った。でもまだ足りない。
コートの端で壁打ちを始めた。ボールを壁に叩きつけて、跳ね返りに体を合わせる。手首の返しを少し変えて、コースを探す。
「藤原先輩!」
メモ少年が走ってきた。メモ帳を片手に構えている。
「今の打ち方、角度変えました? 要チェックっす」
「……好きにしろ」
「あざす! あ、次サーブ出しっすよね。行ってきます!」
メモ少年がコートに走っていった。エンドラインの後ろに立つ。サーブの起点だ。
笛が鳴った。メモ少年のサーブが飛んだ。タカがレシーブを上げる。直がボールの下に入った。タカがそのままレフトへ開いて、ハチがセンターで囮に跳んだ。直のトスはタカへ。レフトから叩き込んで、床が鳴った。
「ナイス!」
「もう一本!」
メモ少年が次のサーブを打った。堀内さんのレシーブがきれいに返る。直の頭上。タカがレフトに開いて、ハチがAクイックの助走に入った。二人が同時に動く。直のトスはハチへ。速い。決まった。
「っしゃー!」
「ね?」
三本目。メモ少年のサーブがコースを変えた。際どい。アニキが胸から飛び込んで繋いだ。短い。直が走った。ハチがクイックの構えを取ったが、直は見ない。高いトスが堀内さんへ飛ぶ。堀内さんがライン際に落とした。
「ナイス判断!」
タカの声が飛んだ。直は何も言わない。ただ次のポジションに戻っている。
六人の音が途切れない。アニキのレシーブが直に返って、直がトスを散らす。タカが打って、ハチが囮で跳んで、堀内さんがコースを突く。キャプテンが黙ってカバーの位置に入っている。それぞれが自分の仕事をやって、ボールが回っている。
壁打ちの手が止まっていた。
ボールを握ったまま、立っている。いつから止まっていたのか分からない。指が白くなるまで握り込んでいた。
打ちたいんじゃない。
あの中に入りたい。
指を開く。ボールが落ちて、床を一つ跳ねた。
練習が一区切りになって、アニキが水を飲みに来た。ユニフォームの胸元が床の汚れで黒ずんでいる。
「アニキ」
「ん」
「リベロって、何が一番大事なんですか」
さっきのダイブが頭から消えなかった。
アニキは水を飲み終わって、キャップを閉めた。少し間を置いた。
「途切れないこと」
目が合う前にコートに戻っていく。背中が小さい。でもさっき、あの背中がコート全体を動かしていた。
途切れないこと。派手な一本じゃなくて、ラリーを途切れさせないこと。
練習が終わって着替えた。校門を出ると、十月の風が坂道を吹き上がってきた。日が短くなっている。街灯がもう点いていた。
坂の途中で、前にポニーテールが見えた。
名取だった。女バレの練習帰りらしい。ウインドブレーカーの袖が少し長くて、指先だけ出ている。ポニーテールが歩くリズムに合わせて左右に揺れていた。二歩で一往復。追いつく気はなかった。でも歩幅が違うから、距離が勝手に縮まる。
「あ、お疲れ」
名取が足音で気づいて振り返った。ウインドブレーカーのジッパーが少し下がっていて、鎖骨の線が見えた。
「お疲れ」
並んだ。街灯が一本ずつ点き始めていた。
「まだ打たせてもらえないんだ」
挨拶のテンションで核心を刺してくるのをやめてほしい。
「なんで知ってんだよ」
「壁越しに聞こえるもん。去年はあんたが打つたびに壁が震えてたのに、今日は全然」
見ていない。聞いているだけだ。壁の向こうの音で、こちらの状態を把握している。
「調子は悪くない。まだ全力で打たせてもらえないだけ」
「ふうん」
名取は前を向いたまま歩いている。追及してこない。でも「ふうん」の響きに、信じていない色がある。
沈黙が落ちた。ウインドブレーカーの擦れる音と、二人分の足音だけが続く。名取はこういう間を気にしないらしい。沈黙に耐えられなくなって、口を開いたのは俺の方だった。
「なあ、ちょっと聞いていいか」
「何」
「セッターって、どうやって誰に上げるか決めてんの」
名取の歩く速度が少し落ちた。
「顔かな」
「顔?」
「打てる顔してるかどうか。コートに入った瞬間に分かる。目が飢えてるとか、足が軽いとか、そういう話じゃなくて」
普段のからかう声とは違う速度になっていた。
「この人に上げたら決めてくれるって、顔で分かる。データとか打率とかも見るよ。でも最後は顔」
「俺、打てる顔してる?」
聞くつもりはなかった。口が勝手に動いた。坂道の傾斜が足の裏に食い込んでいる。
名取は一拍、間を置いた。前を向いたまま、ポニーテールの先を指で摘んでいた。
「してるよ。ずっと。だから厄介なんでしょ」
横顔だけが見えた。街灯の光が片方の頬を照らしている。目が細くなって、口元はまっすぐだった。笑ってもいない。怒ってもいない。セッターがコートを見る時の目だ。
「……厄介で悪かったな」
「別に悪くないよ。打ちたい人は打ちたい顔をする。それは普通のこと」
名取はウインドブレーカーのポケットに手を入れた。
坂道の下からまた風が来た。十月の風が吹き上がって、ポニーテールの先が揺れた。
「ただ」
少し間があった。
「打てる顔と打っていい顔は違うから。セッターはそこを見てるんだよ」
「……何が違うんだ、それ」
「自分で考えなよ」
言い切った名取の歩幅が、半歩だけ広がった。追い抜くみたいに。街灯の下を通り過ぎる瞬間、耳の後ろから首筋にかけてが赤い。うなじに後れ毛が二、三本貼りついていた。
打てる顔と、打っていい顔。
直もそれを見ているのか。俺の顔を見て、上げないと決めているのか。
坂道の途中で道が分かれる。名取は「じゃあね」と片手を上げて、左の路地に折れていった。
一人で坂を下りた。
手のひらを開いて、閉じる。打った時の重い感触と、今日拾った時の軽い感触。両方が手の中にある。
六人の音が頭に残っている。タカの重い着地、ハチの叫び、堀内さんの小さな打球音、アニキの声、キャプテンの背中、直の「ね?」。
打ちたいんじゃなかった。あの音の中にいたかった。
打てる顔と打っていい顔。その違いが分からない。でも直がトスを上げない理由が、名取の言葉の中にある気がした。
明日、直のトスを見てみよう。打つ側からじゃなくて、もっとよく。




