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王様にトスは来ない  作者: お寿司


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第一話 王の帰還

「王様、準備いい?」


 直——五十嵐直、二年のセッターがボールを指先で回しながら寄ってきた。にこにこしている。大事なことほど楽しそうに言う。


「その呼び方やめろ」

「じゃあライトで走って。ブロックとカバーよろしく」


 藤原要、高二。コート右側のライトに入る。半年前に右膝をやって、今日が復帰戦。復帰初戦で、最初の仕事がブロックとカバー。打たせてもらえない前衛。分かってる。でも打ちたい。体が素直にそう言ってる。


 コートに入った瞬間に拍手が起きた。


 やめてくれ。まだ一歩も走ってない。拍手するなら、せめて一本決めてからにしてほしい。でも嫌ではなかった。去年は打つたびにこの音が降ってきた。もう一度聞きたいと思っている自分がいて、それが少しだけ気持ち悪い。


「藤原先輩の復帰っすよ!」


 ベンチから馬鹿でかい声が飛んだ。真鍋海斗、一年。控えの選手で、試合中はいつもメモ帳とペンを構えている。チームの誰もまだ名前で呼んでいない。俺の中では、メモ少年だ。


 円陣。小早川さん——キャプテンだ。ネット中央で壁になる三年のミドルブロッカーが、大きな手を真ん中に出して「行くぞ」と低く落とした。全員の手が重なって、散った。誰かの手がバチンと鳴る。


 床のワックスの匂いが鼻に届いた。蛍光灯が白い。窓が開いていて、十月の風がときどきネットを揺らす。足裏に伝わるこの硬さは知っている。半年ぶりのコートだ。


 一瞬、別の景色が見えた。


 跳んだ時の目の高さ。ネットの白帯が目の高さにある。コートの向こう側が全部見える。レシーバーの位置も、ブロッカーの指先も、床に落ちる影も。腕を振り下ろす。手のひらにボールがめり込んで、弾ける。打球が相手コートに突き刺さる。レシーバーが一歩も動けない。動けないまま、ボールが床を叩く音だけが体育館に残る。


 ——消えた。蛍光灯の白い光が戻ってくる。右膝の奥が、少しだけ重い。


 笛が鳴った。キャプテンのサーブで始まる。低く構えて、一拍。狙ったところに落ちる。


 相手が返した。乱れた返球を相手セッターが拾い上げ、レフトへトスが上がる。


 こちらのサーブだから、俺は最初からネット際にいる。相手スパイカーの助走が見えた。両手を上げる。ブロック。衝撃が手のひらに走る。ボールが指先をかすめた。


「俺が入る!」


 片桐さん——チームの誰もがアニキと呼ぶ三年のリベロ、守備専門のポジションだ。普段は口数が少ないのに、コートに立つと声が別人になる。ボールの下に滑り込んで、きれいに上げた。直に返る。


 直の目が変わった。楽しそうな顔が消えて、コート全体を計算する目になる。


 俺はライト側で助走の構えを取ったまま直を見た。トスが来たら走れる位置にいる。でも来ない。直のトスはレフトへ低く速く飛んだ——平行トスだ。堀内さんに上がった。レフトから打つ三年のアウトサイドヒッターだ。淡々とした人で、声を荒らげたところを見たことがない。


 相手ブロッカーが動いた。遅い。平行が速くて、一枚しかつけなかった。堀内さんが助走の三歩目を踏んで、腕を振り抜く。一枚ブロックの外を通すコース打ちで仕留めた。


 俺がライトで構えているから、相手はトスが出るまでレフトに寄れない。そこに平行を通された。一枚しかつけなかったブロックを、堀内さんはコースで抜いた。


 蜂谷——ハチと呼ばれている一年のミドルブロッカーが、堀内さんに駆け寄った。「よっしゃあ!」。一年とは思えない声量だ。アニキが「ナイス!」と短く飛ばした。


 堀内さんは拳も握らない。淡々とポジションに戻っていく。

「藤原先輩のおかげっすよ!」ハチがこっちを向く。「先輩のせいでライト怖くて見てられなかったんすよ、相手」

「堀内さんが打ったんだろ。俺はただ立ってただけだ」

「いやその立ってるのがすごいんすよ!」


 ハチがハイタッチに走ってくる。バチン。手が痛い。こいつの手加減なしハイタッチはそのうち慣れるのか。


 次のラリー。青嶺のサーブが相手コートの奥を突いた。相手のレシーブが乱れて、チャンスボールが直に返る。


 相手ブロッカーは俺を見ている。視線が分かる。足が止まっている。


 直のトスはハチへ。タタンッ、と鋭い二歩。Aクイックが相手ブロッカーの間を抜けた。


「ね?」


 直が小さく言った。配球がハマった時のいつもの癖だ。誰に言ってるわけでもない、独り言みたいな「ね?」。得意げというより、答え合わせが合っていた時の満足に近い。


 次のラリー。こちらのサーブが返ってきた。切り返しが深い。アニキが弾いた。低い返球。直が走って拾い上げ、体勢を崩しながらトスに変えた。レフトへ。堀内さんがコース打ちでワンタッチを外に飛ばした。淡々と自分のポジションに戻っていく。


 ベンチからメモ少年の「要チェックっす!」が飛んでくる。メモ帳に何かを書き込んでいる。何を書いているのか、こっちからは見えない。


 嬉しい。チームが勝ってる。でも手のひらが空を握っている。立っているだけで貢献できるのは分かった。分かったけど、打ちたい。


 相手ベンチがざわついていた。「藤原って、去年の県予選の」「あいつ復帰したのか」。聞こえなくていい声が聞こえてくる。去年の県予選準々で、俺は十八点取って、チームは負けた。


 チームは回っている。俺がいると、相手が少しだけ迷う。それだけで点が入る。——でも、それだけじゃ足りない。


 何度かローテーションが回った。バレーは点を取るたびに全員がひとつずつ時計回りにポジションをずれる。俺は前衛のライトに入った。OP——セッターの対角に立つポジションで、本来の位置だ。前衛センターにキャプテン。レフトにはタカ——高瀬が立っている。二年のアウトサイドヒッターだ。


 リードしている。あと一点で第二セットが取れる。


「さあ来い!」アニキの声が後ろから飛んだ。キャプテンが「一本」と低く落とした。


 相手のサーブが来た。深い。エンドライン際をアニキが辛うじて上げた。高い返球が上がる。直が走る。時間がある。


 俺の前が、空いていた。


 相手ブロッカーがキャプテンの方に寄っている。直はずっとそちらに上げていたから。だから、今だけライトが空いている。


 打てる。


 ライトが空いてる。ブロックがいない。今しかない。ずっと我慢してた。ハチが決めるたびに嬉しくて、悔しかった。あの音が欲しい。ボールを叩いた時の振動が欲しい。


 体が動いた。考える前に足が下がって、声が出ていた。


「上げろ!」


 体育館に響いた。自分の声が、自分の耳に届いた。


 直の手が止まった。計算する目が、一瞬だけ揺れた。


 トスが来た。直の手元から背面に飛んだボールが、俺の前に上がった。高く、きれいに。打てる。


 助走。左、右、左。踏み切った。右膝が、一瞬だけ固まった。でも跳んだ。右手を引く。ボールの上に手が届く。打点は高い。体が覚えている。手のひらにボールの革が触れる。


 ブロックが見えた。三枚。「上げろ」と叫んだ瞬間に、全員が俺を見ていた。声で、自分の位置を教えていた。


 打った。コースを狙った。手応えは悪くなかった。


 ボールが壁に当たった。真下に落ちた。こっちのコート側に。


 失点した。


 体育館が静かになった。自分の呼吸だけが聞こえる。手のひらがじんじんする。


 アニキが「切り替え!」と声を出した。いつもの声だった。でも、それに続く声がなかった。


 誰も何も言わない。


 タカが黙っている。さっきまでガッツポーズを出していた右手が、だらんと下がっている。こっちを見ない。


 直だけが、こっちを見ていた。笑顔はない。怒りでもない。ただ、見ている。


 ……っ。三枚来るのは分かってた。「上げろ」と叫んだ瞬間に自分の位置を教えてしまった。声が大きすぎた。コースを狙う余裕はあったのに。


 そこからチームの歯車が狂った。直の配球が散り始めた。タカのスパイクにキレがない。さっきまで抜けていたコースに、ブロックが間に合っている。


 セットポイントからデュースに持ち込まれ、逆転された。


 俺がやった。分かってる。一声で流れを壊した。


 第三セット。俺の名前は呼ばれなかった。ベンチに座ったまま、コートの中で動くチームを見ていた。直が配球して、タカが打って、ハチが跳んで、点が動いて、試合が進む。試合は二対一で勝った。チームの空気は勝った空気ではなかった。


 体育館の外に出た。風が肌を冷やした。


「藤原」


 監督の声だった。振り返ると、腕を組んだまま立っている。表情が読めない。


「はい」

「次もベンチスタートだ」


 説明はなかった。言うだけ言って、もう次の選手に声をかけている。


 タカが横を通り過ぎた。何も言わない。目も合わせない。肩がぶつかるくらい近い距離を、無言で通り過ぎた。


 その背中を見て、分かった。タカはあの場面で自分にトスが来ると信じて助走を踏んでいた。俺が横から叫ぶまでは。——悪かった、と喉まで出かけた。タカの背中はもう遠い。


 バスの前で、直が待っていた。コンクリートの柱に寄りかかってスマホをいじっている。俺が近づくと顔を上げた。笑っていない。


「やっぱりね」

「何が」

「王様は我慢できないってこと」


 直の声はフラットだった。楽しそうな色が消えている。はぐらかしも、冗談もない。


「お前が叫ぶの、分かってた。今日じゃなくても、明日か明後日か。どっかで絶対やる。別に驚いてない」

「……声出しすぎた。三枚来てた」

「知ってる。僕が上げたのは僕の判断ミスだけどね。あの声出されたら、体が反応しちゃうんだよなあ」


 最後だけ、少し笑った。目は笑っていない。


「悪かった」

「いいよ。お前が打ちたいのは分かってるし。でも次は僕が出すまで待て」

「……分かった」

「努力じゃなくて約束しろよ」

「分かった。約束する」


 ぽん、と肩を叩かれた。軽い手だった。直はそのままバスに乗り込んでいく。


 風が吹いた。体育館の方から、誰かがボールを打つ音が聞こえた。


 手のひらがまだ熱い。三枚ブロックに止められた一本。でもボールに触れた感触は本物だった。


 次は決める。


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