第十七話 前夜
準決勝の相手は第二シードの城南大附属だった。
第二シード。エースは左利きの対角で、サーブが三種類ある。ブロックの練度が県内で一番との評判。監督が対戦表を貼り出した朝から、体育館の空気が一段重くなっていた。
前日の練習は軽い。サーブを十本ずつ打って、レシーブの確認をして、三対三のミニゲームを短めに回した。監督が「明日に残すな」と一度だけ言って、練習は四十分で終わる。
片付けの前。メモ少年がノートを開いた。
「城南大附属のデータです」
全員が集まる。メモ少年はメモ帳のページを指で押さえて、淡々と読み上げた。サーブのコース傾向、レフトエースの打点の高さ、リベロの守備範囲。数字ばかりだった。練習試合で拾った映像の切り出しも、時間とセット数で整理されている。
「ブロックは基本リードで、うちのライトに二枚つけてきます。藤原先輩への対応が一番手厚いです」
メモ少年の声が止まった。監督が短く頷く。
「相手は準備してくる。こっちもやることをやる。以上」
直が何も言わずにノートを畳んだ。メモ少年のデータは直のノートにもう写してあるのだろう。体育館の空気が締まったまま、片付けが始まった。
誰も声を張らない。
ハチがモップを押しながら何か口ずさんでいた。堀内さんがコート隅でコースの確認を繰り返している。同じフォームで、同じ場所へ、何度も。飽きない。キャプテンがネットの高さを測り直していた。紐を解いて、張り直して、触って確かめて、離す。キャプテンの準備はいつも手のひらで終わる。
ボールカゴを壁際に押していく途中で、タカがストレッチマットの上に座っているのが見えた。右足を伸ばして、左膝を抱えている。いつもなら片付けを先にやる。今日は動かない。マットの端を指で摘んでは離している。
窓の外はもう暗い。十一月の冷気が扉の隙間から入ってきて、体育館の空気を薄く冷やしていた。靴底の音とモップの音と、たまにボールが転がる音が天井に当たって散る。
重い。明日の試合の空気が、膜みたいにコートの上に広がっていた。
帰る前に体育館を覗いた。
照明が半分だけ点いている。コートの端に直が座っていた。
膝の上にノートを広げている。端が折れて付箋が何枚もはみ出した分厚いノート。直はページを繰っていた。一枚、二枚。指が止まらない。何ページも、紙の擦れる音を立てながら繰っている。
表情が読めない。
目がノートの上を走っているのは分かる。何を見ているのか、何を探しているのか、俺には分からなかった。付箋の一枚に指が触れて、めくって、また戻す。気づかない。俺がここにいることも。ページを繰る乾いた音だけが、静かな体育館の天井まで届いて消えていく。
声をかけなかった。扉の隙間から手を離した。
タカと二人でコンビニに寄った。
自動ドアを出る。駐車場の端に並んで立つ。タカが缶コーヒー、俺は肉まん。コンビニの蛍光灯が駐車場のアスファルトを白く照らしていて、十一月の夜気が首筋に触れるたびに息が白くなった。
しばらく何も言わなかった。自動ドアが開閉する音。遠くで車のエンジンが回って、ヘッドライトが一瞬こっちを照らして消えた。タカは缶コーヒーを両手で包んだまま、駐車場の先を見ていた。
「怖ないか」
肉まんを持ったまま止まる。タカの横顔を見た。こっちを見ていない。コンビニの蛍光灯の下で、目が少し細くなっている。
「明日」
タカがそれだけ付け足した。声が低い。
怖いかどうか。昨日の体育館で分かった。腕の奥に敵がいて、八割で止まる理由も分かった。でもそれを口にする言葉がない。
何も返せなかった。
タカは返事を待っている様子もなく、缶コーヒーを一口飲んだ。息を吐く音が駐車場の夜気に落ちる。
「わいな、才能なんかないねん」
関西弁が普段より濃い。音の角が丸くなっている。
「中学の時から分かっとった。隣のやつが三回で覚えることを、わいは十回やらなあかん。十回やっても同じにはならへん」
「タカ」
「いや、別に慰めてほしいんちゃう」
タカが少し笑った。口の端だけで。缶コーヒーを指先で回して、コンビニの壁にもたれた。
「去年の藤原みたいには打てへん。あの頃のお前は一本で空気変えとった。わいにはそれがない。パワーだけはあるけど、パワーだけのやつなんかいくらでもおる。中一の時にもう分かった」
車が一台、駐車場を通り過ぎていった。蛍光灯の白い光の下で、タカの関西弁だけが妙にはっきり聞こえる。
「でもやめんかった」
間が空く。
「なんでかは自分でも分からん。練習は嫌いやし、走り込みは死ぬほど嫌いや」
タカが缶コーヒーを飲み干して、空き缶を指先で弾いた。
「でも体育館出るのはもっと嫌やった。それだけや」
肉まんの袋を指先でなぞっていた。タカの言葉が耳の中で転がっている。何か返したい。口を開きかけて、出てくる音がない。
「明日、勝てるか分からん。わいは藤原みたいには打てへん」
タカがコンビニの看板を見上げた。
「でもわいはここにおる。お前もおるやろ」
タカの缶コーヒーの空き缶を見ていた。
何か返すべきだと思う。でも口を開いても、言葉がなかった。
タカが壁から背中を離した。空き缶をゴミ箱に放り込んで、手をはたく。
「帰ろか」
声が軽い。さっきまでの低い関西弁が消えて、いつものタカに戻っている。先に歩き出して、駐車場の出口に向かっていった。
布団の中で天井を見ていた。
照明は消してある。窓の外を車が通って、ヘッドライトの影が天井を横切る。カーテンの裾から十一月の冷気が入ってきて、布団から出ている肩が冷えていた。
六人の中で打つ。
コートの上に六人がいる。その中で打つ。頭では分かっている。でも腕にも膝にも届かない。頭の上を通り過ぎていくだけだった。
タカの声が耳に残っている。才能なんかないねん、でもやめんかった、お前もおるやろ。あの角の丸い関西弁が、布団の中まで追いかけてくる。
右腕を布団の上に出した。暗い部屋の中で自分の腕が見える。冷えた空気に触れて、腕の表面に薄く鳥肌が立つ。
明日、準決勝。
答えはない。八割の腕で明日のコートに立つ。そのことについて言える言葉を、俺はまだ持っていなかった。
瞼を落とす。布団の重さが体にかかっている。肩の冷えが少しずつ布団の中に引き込まれていく。タカの関西弁と、直がノートを繰る乾いた音が、まだ耳の奥に残っていた。
眠れるかどうか分からない。




