第十六話 八割
チーム練習が終わって三十分。体育館には俺しかいなかった。
照明は半分だけ点けてある。ボールカゴから一つ取ると、革が冷えている。
壁に向かって立った。助走は要らない。体重を右手に乗せて、振り下ろす。重い音。肩甲骨の裏を力が通り抜けていく。手首が最後まで返って、掌底がボールの芯を捉えている。
この音だ。
跳ね返りを受けて、もう一本打つ。同じ音。肩がきれいに回っている。三本目、四本目、五本目。天井に反響して返ってくる音がどれも同じ重さだった。
去年の腕だった。
ボールを持って、ネットの前に立った。
自分でトスを上げる。左、右、左。跳んで右腕を振り上げ、振り下ろす。
八割だった。
ボールがネットを越えて相手コートに落ちる。壁を叩いた時の音とは違う。軽い。同じ腕で、同じフォームで打っているのに、最後の瞬間で力が抜けている。
もう一本。同じようにトスを上げて、跳んで、振った。八割。
三本目で止まった。
ボールを持ったままネットの前に立っている。壁打ちは十発十発、同じ音が返ってきた。ネットの前では三本とも同じ軽さで落ちた。体のどこにも痛みはない。フォームも同じだ。
去年の体育館が一瞬だけ差し込んだ。全力で跳ぶ。着地の瞬間、膝から音がした。
ボールを持つ指の力が抜けた。革が手のひらの上で回って、足元に落ちる。
拾わなかった。
ネットの支柱にもたれて座り込んだ。膝は痛くない。今の膝は何ともない。それなのにネットの前に立つと、腕が最後まで振れない。
体育館の扉が半分開いていた。廊下の蛍光灯の光が床に四角く伸びている。十一月の冷気が足の裏に触れていた。
「先輩」
声がした。
扉のところにハチが立っていた。練習着のまま。忘れ物でも取りに来たのか、バッグを片手に提げている。体育館の中を覗き込んで、散らばったボールとネットの前に座り込んでいる俺を見た。
「まだ残ってたんすか」
「……ちょっと打ってた」
ハチが扉の枠に寄りかかった。中に入ってこない。
「壁のほう、音聞こえてたっすよ。めちゃくちゃいい音してた」
壁打ちの音が外まで届いていたのか。ハチは続けた。
「でもネットの前に移ってから、音変わったっすよね」
何も言えなかった。ハチは二回戦の時に「全力じゃないっすよね」と言った。あの時と同じ目をしている。嘘のない目。
「俺、試合の時の先輩好きなんすよ。囮で跳んでくれるし、ブロック遅くなるし、なんか——チームの中にいるって感じするんす」
ハチが頭を掻いた。うまく言えてないのは本人も分かっている顔だった。
「今の先輩、なんか一人っすよね。試合の時と全然違う」
一人。その言葉が刺さった。
壁の前では打てる。ネットの前では打てない。その差が何なのか、俺には掴めていない。
「先輩、一人で打とうとしてないっすか」
ハチがこっちを見ている。
答えられなかった。一人で打つ以外に何があるのか、と思った。スパイクは一人で打つものだ。トスが来て、跳んで、振る。腕は一本しかない。
でもハチの言葉が、胸の浅いところに刺さったまま抜けない。
「……じゃあ俺、先帰るっす。おやすみなさい」
ハチが軽く頭を下げて、足音が遠くなっていった。
ハチがいなくなった体育館で、散らばったボールを見ていた。壁の汚れが十個。ネットの前に三つ。
一人で打とうとしてないっすか。
意味が分からなかった。分からないのに、引っかかっている。
廊下から別の足音がする。
直だった。
ジャージのポケットに手を突っ込んだまま、扉の前で止まった。体育館の中を一度だけ見て、反対側の壁に肩を預ける。
「王様」
小さい声だった。
「壁は打てる」
口から出ていた。直の手がポケットの中で止まったのが分かる。
「ネットの前だと止まる。同じ腕なのに」
直がこっちを見た。蛍光灯の白い光が頬に影を落としている。何も言わない。
「三本打って三本とも八割の力だった」
言葉にしたのは初めてだった。さっきハチに「一人で打とうとしてないっすか」と言われて、何かが緩んだのかもしれない。
直は黙っている。靴の先で床を二回叩いた。
「八割で上げる」
直が言った。
「お前が打てる球を出す。八割でも打てるやつを」
理由を聞かなかった。なぜ止まるのか、どうすれば治るのか、そういうことは一つも聞かない。セッターとして、打てる球を出す。それ以上は何も言わなかった。
「もう一本」
直がポケットに手を戻して、更衣室の方へ歩いていく。
立ち上がった。支柱を離した手のひらに、金属の冷たさが残っている。
ハチの言葉がまだ胸のどこかに刺さっていた。一人で打とうとしてないっすか。答えは出ていない。でも直が「上げる」と言った。俺が打てなくても、直は上げると言った。
廊下の空気が肩に触れる。さっきより少しだけ軽かった。
更衣室に向かって歩き出した。




