第十五話 焼きそばと準決勝
ソースの焦げる匂いが廊下まで漂っていた。
教室の窓を外して鉄板を三台並べた焼きそば屋。看板は堀内さんの手描きで、「バレー部特製 鉄板焼きそば」と書いてある。特製の中身は普通のソース焼きそばだった。
「いらっしゃいませー! 焼きそばどうっすかー! 熱々っすよー!」
ハチの声が教室の窓枠を突き抜けて廊下に響く。文化祭の雑踏の中でも、三軒隣まで届いていた。
「お前の呼び込み、体育館の応援より響いてるぞ」
「そっすか? じゃあもうちょいいけますね」
「いけなくていい」
ハチが息を吸い込む前に止めた。止めなかったら隣のクラスのお化け屋敷に客が入れない。
教室は人の体温で暖かかった。十一月の外気と鉄板の熱が混じって、窓際だけ妙にぬるい空気が溜まっている。ハチはエプロンの紐を首の後ろで雑に結んで、教室の入り口に立っている。じっとしていられない。客が途切れると廊下に出て呼び込みを始め、客が来ると鉄板の前に走って戻る。
「ハチ、お前どっちかにしろ」
「両方やりたいんすよ」
「両方やろうとして両方雑なんだよ」
「藤原先輩、それ褒めてます?」
「褒めてない」
ハチが笑って、また廊下に飛び出していった。
堀内さんが紙皿にパックの紅しょうがを添えている。手つきが丁寧で、焼きそばの横にきちんと揃えて置く。アニキは割り箸の袋を開ける係を自分に割り当てて、椅子に座ったまま動かない。
「アニキ、それ座ってやる仕事ですか」
「座ってやる仕事だ。立つ仕事は若い奴に任せる」
堀内さんが鼻で笑った。アニキもへらっとしている。三年最後の文化祭を、二人ともいつも通りの顔で過ごしていた。
鉄板の前に直が立っていた。
ヘラを二本持って、麺をほぐしている。キャベツの水分が鉄板に落ちてジュッと鳴った。俺はその隣で、もう一台の鉄板を受け持っている。ソースを回しかけると白い湯気が上がって、一瞬だけ直の顔が見えなくなった。
「焦げてる」
「分かってる」
「端の方」
「見えてる」
ヘラで端の麺を寄せた。焦げの一歩手前で済んだ。直は自分の鉄板に目を戻す。二人の間に、焼きそばの煙が緩く流れている。
ハチの声が廊下から飛んでくる。「三個ください!」「はいよ、三丁!」とハチが勝手に応答して、鉄板の前に駆け込んできた。
「三個って言ってます!」
「聞こえた」
直が三人前をヘラで分けて、紙皿に載せる。手が速い。トスの時と同じで、無駄な動きが一つもなかった。
客が紙皿を受け取って去る。また鉄板の前が二人になった。
麺をほぐす。キャベツを混ぜる。ソースの匂いが制服に染みていく。試合の話はしない。直も俺も、鉄板の上だけを見ている。
手が忙しいから、沈黙が不自然にならなかった。
「準決勝」
直の声だった。ヘラの手は止まっていない。
「明日、勝つよ」
直を見た。直は鉄板を見ている。
聞き返そうとした時、「二個くださーい」と声がかかった。直がヘラを動かして、二人前を紙皿に分ける。
聞き返すタイミングは、もう戻ってこなかった。
「タカ先輩どこ行ったんすか」
ハチが教室を見回した。焼きそば屋の客足が一段落した昼過ぎだった。
「体育館」
堀内さんが麺の袋を開けながら言った。朝からいないらしい。
鉄板のヘラを直に渡して、教室を出た。
廊下は文化祭の人混みで温かいのに、渡り廊下に出た瞬間、十一月の風が首筋を切った。息が白い。体育館の入り口を開けると、照明が半分しか点いていなかった。
四歩の助走音が響いている。
タカがアタックラインの後ろから踏み切って、跳んでいた。一人で。ボールを自分で放り投げて、四歩で踏み切って、右腕を振り下ろす。
ネットに当たった。ボールが足元に転がる。タカは拾って、また端に戻る。
窓の外から文化祭の放送がかすかに聞こえる。体育館は空っぽで、ボールの反響音が壁に当たって返ってくる。普段より音が大きい。人がいないからだった。
次の一本。踏み切って、跳んで、振る。ネットを越えた。白線の外に落ちた。
次。ネット。
次。壁。
五本目がネットの上を抜けて、コート内に落ちた。重い音がした。
「ええやん」
タカが自分に小さく言って、首を一回鳴らした。次のボールを拾いに行く。足が止まらない。汗でシャツが背中に張りついている。文化祭の朝から、ずっとここにいたのだろう。
俺が入り口に立っていることに気づいた。一瞬だけこちらを見た。
「見んな」
関西弁が短く飛んできた。
そのまま助走の位置に戻る。四歩。踏み切り。ネットの上を越えた。アウト。
「まだや」
誰にも言っていない。自分に言っている。
体育館の扉に背中を預けたまま、タカの助走音を聴いていた。左、右、左、踏み切り。同じ四歩が何度も繰り返される。五本に一本だけ、コート内に重い音が落ちる。
文化祭の放送が遠い。鉄板のソースの匂いはここまで届かない。体育館の中は、十一月の乾いた空気と、タカの足音だけだった。
焼きそば屋に戻ると、キャプテンが椅子に座っていた。
鉄板の横ではなく、少し離れた場所に。テーブルの端で紙皿を並べる作業をしている。立ち仕事のはずだった。さっきまで鉄板の前にいたのに、座っている。
テーピングを巻いた膝の上に、左手が乗っていた。さりげなく。でもさっきからそこを押さえている。
「キャプテン、交代します?」
「いい。座ってる方が客と目線合う」
合わない。テーブルの方が低い。でもキャプテンの声は平らで、それ以上踏み込ませない。
アニキが立ち上がった。割り箸の袋を置いて、教室の隅に行く。戻ってきた時、踏み台を一つ持っていた。
キャプテンの足元に、黙って置いた。
キャプテンは何も言わず、右足を踏み台に乗せた。膝が少しだけ伸びる角度になる。アニキは自分の椅子に戻って、割り箸の袋をまた開け始めた。
二人の間に会話はない。
午後になって客足が落ちた。
メモ少年がテーブルの端でノートを広げている。メニュー表を書き直していた。午前中に書いたものが汚れたらしい。丁寧な字で「焼きそば 300円」「ドリンク 100円」と書いている。
「お前、それ何回目?」
ハチがテーブルに肘をついて覗き込んだ。
「三回目です」
「三回書き直す意味ある?」
「汚いと買う気なくなるじゃないですか」
「ならんて」
「なります。データ的にメニュー表の清潔感は購買意欲と相関が——」
「お前すげえな、文化祭でもそれ言うんだ」
ハチが笑った。メモ少年は怒らない。真面目な顔のまま「データ取らないと改善できないじゃないですか」と返す。ノートの隅に、時間帯別の売上個数がメモしてあった。10時台12個、11時台31個、12時台48個。
そのノートを横から見て、少し笑った。あいつらしい。
ふと、ノートの裏表紙が見えた。
文字がびっしり書いてあった。メニュー表の几帳面さとは違う、走り書きに近い字。サーブの種類、コース、回転数の推定、狙いの傾向。準決勝の相手チームの名前が上に書いてある。
メモ少年は俺の視線に気づいて、ぱたんとノートを閉じた。
「あ、これは——その、個人的なメモで」
耳が赤い。ページの端に「自分のフローター:無回転の精度を上げる」と小さく書いてあったのが見えた。何も言わず、鉄板の方に目を戻した。
片付けが始まった頃、廊下を通りかかった人影があった。
「焼きそば売れた?」
名取だった。別のクラスの出し物の紙バッグを片手に持っている。
「完売」
「よかったね」
少しだけ笑って、歩きかけた。足が止まった。
「新人大会に向けて、もう練習始めてんの」
こっちを見ずに言った。マフラーの端を指で引っ張っている。
「早いな」
「負けたからね。で、エースにちょっと高いトス上げてみた」
「打ってくれた?」
「……打ってくれた」
名取が歩き出した。二歩目で振り返る。
「準決勝、見に行くから」
それだけ言って、歩いていった。
三日前の階段で並べた傷のことは、どちらも口にしない。でも名取は自分のコートで、何かを始めている。
鉄板を洗って、テーブルを拭いて、教室を元に戻した。窓枠を嵌め直す時、外の空気が冷たかった。
帰り道。校門を出たところで、ハチが並んで歩いていた。
文化祭の後片付けで疲れた足が、アスファルトを踏む。息が白い。十一月の暮れが早い。空がもうオレンジから青黒く変わり始めている。
「準決勝、勝てるかな」
ハチの声だった。いつもより小さい。
ハチを見た。ハチは前を向いている。いつも声がデカくて止まらないハチが、前を向いたまま小さな声で言っている。
前を歩いていたキャプテンが、振り返らなかった。
「勝つぞ」
背中だけで言った。歩く速度は変えない。
ハチは黙った。俺も黙った。
文化祭が終わった。次にこのメンバーで集まる時は、もう準決勝の朝だ。
タカの足音が、まだ耳の奥に残っている。四歩。踏み切り。五本に一本だけ落ちる、重い音。
風が冷たい。制服にソースの匂いが染みていた。




