第十四話 傷の交換
三回戦の翌々日。練習後、学校近くのコンビニに寄った。
自動ドアを出たところで息が白くなった。十一月の夜。駐車場のアスファルトが蛍光灯の光を反射して、白っぽく浮いている。
コンビニの前のベンチに人がいた。ウインドブレーカーの背中が妙にまっすぐで、イヤホンの片方だけ耳に入れている。もう片方が首元で揺れていた。膝の上にホットドリンクのカップを載せて、両手で包むように握っている。
「勝ったんでしょ、三回戦」
声をかける前に振り向かれた。名取だった。いつもの速さで、少しだけ笑っている。寒さで頬が赤い。マフラーに顎を埋めたまま、ホットドリンクの蓋を指先で回した。
「まあ」
「まあ、って。勝ったのに嬉しくなさそ」
「別にそういうわけじゃない」
「顔がそう言ってるけど」
「言ってない」
名取がベンチの端にずれて、半人分のスペースを空けた。ベンチに座ると、金属の冷たさが腿の裏まで伝わってくる。十一月の風が駐車場を抜けて、首筋に触れた。買ったばかりのホットコーヒーの温度が紙コップ越しに手のひらに広がる。
「次、四回戦?」
「ああ。来週」
「相手調べた?」
「直が調べてる」
「五十嵐くんに丸投げじゃん」
「丸投げっていうか、あいつの方が速い」
「セッターってそういうの好きなんだよね。相手の癖とか見つけると嬉しくなるの。配球のネタが増えるから」
名取がイヤホンを外して、コードを雑に指に巻き始めた。二巻きして崩れて、もう一回巻き直す。たぶんいつもこうなのだろう。
「練習は?」
「とっくに終わった。あたしだけ残ってた」
名取がホットドリンクに口をつけた。両手でカップを包んだまま、少しだけ目を細める。温かいものを飲んだ時の、素の表情だった。
風が一度止んで、また吹く。名取の髪が頬にかかった。耳にかけない。練習後の髪は少し癖が出ていて、頬に貼りついた一本がこめかみのあたりで曲がっている。まっすぐな髪じゃないのだと初めて知った。マフラーに顔を半分埋めたまま、ドリンクのカップを指先で回している。
「うちのチーム、県ベスト十六で負けたんだけどさ」
速さが変わっていない。さっきの雑談と同じテンポで、名取はそれを口にした。
「あたしのトス、本番で合わなくなったんだよね」
自分のホットコーヒーのキャップを指先で回した。名取の話が世間話なのか、そうでないのか、まだ分からなかった。
「高さもタイミングも、数字の上では合ってるの。ビデオで見返しても、トスそのものはずれてない。なのにエースが打てない顔のまま跳んでて——あたし、それに気づいてたのに同じトスを上げてた」
名取の口調が、少しだけ遅くなる。いつもの速さの隙間が見える。ドリンクを両手で包む腕が細い。コートでトスを上げている時は気づかなかった。
「散らしすぎたんだと思う。エースに集めたら止められるかもって思って、レフトに振って、ライトに振って、バックアタックも使って。やってることは間違ってない。配球として正しいの。でも肝心な場面でエースに出した時、もうお互い信じてなかった」
名取の指がカップの縁を握っている。紙コップが少しへこんで、指の関節が白い。
「トスって、高さとタイミングだけで成立するわけじゃないんだよね。打つ側が『来る』って信じてないトスは、合っててもただのボールで。あたしのトスはずっとただのボールだった」
笑っていない。声の温度がさっきとは別の場所にある。
「上げても決めてもらえなかったら、って思うと手が止まる」
何も言えなかった。風が吹いている。名取の髪が揺れて、頬に貼りついたまま剥がれない。
ベンチの金属が冷えている。コンビニの自動ドアが開いて暖気が漏れ、すぐ閉じた。
「三回戦」
自分の声だった。
「勝ったけど、俺のスパイク、全部……足りなかった」
名取の気配が動く。俺はコーヒーの紙コップの蓋を見ていた。
「去年は打てた。全力で振って、ブロックの上から叩き込んで、それで点を取ってた」
右腕が膝の上にある。三回戦の時と同じ場所に。
「今は同じフォームで同じ助走で跳んでるのに、腕を振った瞬間に力が抜ける。当てて、コースで逃げて、それで点にはなるけど——叩き込んでない」
名取の方を見なかった。横の気配が止まっている。
「練習でも打てない。壁には打てるのに、ネットの前に立つと最後のところで力が抜ける。肩が悪いわけじゃない。膝も治ってる」
息が白くなった。ホットコーヒーの温度がもう手のひらに届かない。
「なのに腕が止まる」
「セッターが上げられない。エースが打てない」
名取の声だった。速くはない。さっきより少しだけ落ち着いた速度で、事実を並べている。
「逆側の同じ話じゃん、それ」
名取を見た。前を向いている。笑ってはいない。泣いてもいない。
「あたしは上げる側で、あんたは打つ側で、やってることは全然違うのに、止まってる場所が似てる」
名取の靴の踵がベンチの脚に当たって、小さな音を立てた。
裏返しだった。上げても決めてもらえない。打てるはずなのに伸びない。セッターとエース、立場は反対なのに、行き止まりの形が同じだった。
「練習で打てるなら、止まってるのは腕じゃないよ」
名取がドリンクのカップを両手で包み直す。
「うちのエースもそう。練習ではあたしのトスで打てるの。でも試合になると顔が変わる。あたしが信じてないから、エースも信じてない。打てるはずのトスが打てない。上がるはずの腕が上がらない」
自分の右腕を見た。膝の上の腕が動かない。
「配球が正しくても、正しいだけじゃトスにならないんだよね。エースが打てると思ってないトスは、高さが合っててもただのボールで」
名取はセッターの言葉で話している。感情論ではなく配球の話をしようとしている。でも言葉の隙間から、構造だけでは済まないものがにじんでいた。
風が止まった。
「博打しないと信頼って始まらないんだよね」
名取が息を吐く。白い息がコンビニの蛍光灯の下で一瞬だけ見えた。
「散らすのが正しい場面でも、エースに集めなきゃいけない時がある。止められるかもしれない。ブロックが二枚揃ってるかもしれない。それでも上げる。止められても上げる。何本止められても上げ続けて、初めてエースが打てる顔になるの」
名取は前を向いたまま話している。俺にではなく、自分に向けて。
「頭では分かってるの。でもあたし、まだそれができてない。止められたらどうしようって思うと、散らす方に逃げる。安全な配球の方に」
名取の声は速くない。遅くもない。傷が開いた場所を自分で触って、そのまま眺めている声だった。
何も返せなかった。名取の止まり方と自分の止まり方は裏返しだが、同じではない。分かるとも辛いとも言えなかった。言ったら嘘になる。
ベンチが冷たい。風が戻ってきて、駐車場を通り抜けていく。ホットドリンクはもう冷めていた。
名取が立ち上がった。空になったカップをコンビニのゴミ箱に入れて、イヤホンのコードをポケットに突っ込む。
「帰る」
「ああ」
「あんたも早く帰んなよ。風邪ひくから」
いつもの速さが戻っている。振り向いた名取の顔にはさっきまでの温度がまだ残っていたが、口調はもう元に戻っていた。マフラーに顎を埋め直す手が、二回失敗して三回目でうまく巻ける。
一歩離れて、名取が振り返った。
「——まあ、お互いまだ途中ってことで」
からかうような口調の割に、目が少しだけ柔らかい。こっちが何か返す前に、もう前を向いている。
名取の足音が駐車場を遠ざかっていく。運動靴がアスファルトを叩く音が三つ、四つ。
膝の上に乗った右腕が動かない。足りないまま、そこにある。
博打しないと信頼は始まらない。名取の言葉が耳に残っていた。
手の中のカップがすっかり冷えていた。
風が吹いた。立ち上がる。ベンチの冷えが腿の裏に残っていて、一歩目がぎこちない。




