第十三話 拾うから打てる
メモ少年がベンチの端から立ち上がった。手にタブレットを持っている。
「五十嵐先輩」
直がノートから顔を上げた。ペンはまだ握ったままだった。
「三番のスライドパターンです。レフト側への移動が0.3秒遅いです。あと、七番が後衛にいるローテーションだけライト側のブロックが一枚になります」
メモ少年の声は小さいが、数字は正確だった。タブレットの画面に、相手ミドルの移動パターンが並んでいる。セットの頭からずっと記録していたのだろう。
直が画面を見た。自分のノートと照らし合わせるみたいに、視線が画面とページの間を二往復する。
「ありがとう」
メモ少年が頭を下げてベンチの奥に戻った。直はもうペンを走らせている。メモ少年のデータが直の配球に変わるまでに、たぶんあと数秒しかかからない。
ベンチの端からそれを見ていた。直のペンの速度が、さっきまでと変わっている。2セット目が終わった時、ノートに叩きつけるみたいにペンを走らせていた。今は違う。短い線を引いている。何かが見えた人間の手だった。
自分の知らないところで回っている仕事がある。その真ん中で直のペンが動く。
3セット目が始まった。
直の配球が組み替えられている。サイドに散らしていたボールの出どころが変わって、ハチのクイックと堀内さんのレフトを軸にした組み立てになった。三番のスライドが遅いローテーションを狙って、ハチのAクイックが二本続けて通る。
「ナイスハチ!」
声を飛ばす。ハチが片手を上げた。
相手の一番も修正してくる。ブロックの並びが変わった。ハチのクイックに三番が早めに寄り始めて、さっきまで通っていたコースが閉じられていく。
直の指が動いた。ハチがAクイックの助走に入る。三番が寄る。その半拍あとに、俺がセミのタイミングで踏み切った。ハチが囮。直のトスが右から来て、三番の手が届かない高さを通った。
ブロック一枚。腕は振り切れなかったが、コースが空いていた。打球がブロッカーの横を抜ける。
「ナイス!」
アニキの声が後衛から飛んでくる。時間差だった。練習で何度もやった形で、派手な一本ではない。ハチが走って、俺が遅れて入る。それだけで三番の判断が0.3秒ずれる。
一進一退。直が崩せば、一番が追いつく。追いつかれたら直がもう一手変える。その繰り返しだった。
次のラリー。今度はハチがセンターに入って、俺がセミの位置から時間差に走った。三番が俺を追いかけて、ハチのクイックが空いた。ハチの打球がストレートに落ちる。
「っしゃあ!」
ハチが吠えた。拳を叩き合わせる。今度は時間差の逆で、俺が囮でハチが打つ形だった。選択肢が二つあるだけで、三番の足が一瞬止まる。
一番が短く声を出した。「寄れ」。ブロッカーの移動が少しだけ速くなる。直のハチへの配球が止められた。切り返されて、失点。
五番のサーブが変わった。アニキを狙い始めている。
低い軌道で、コートの奥を正確に叩いてくる。置くみたいなサーブだった。アニキの構えている位置に、毎回ほんの少しだけずらして打ち込んでくる。アニキのポジションが少しずつ後ろに下がった。
明和も気づいている。アニキのAパスを崩せば、直の選択肢が減る。一本目を壊せば三本目が死ぬ。
アニキは黙って構え続けた。表情は変わらない。汗が顎の先から落ちている。それでもボールが直に返る質は落ちなかった。
アニキが拾った。
何度目かのサーブレシーブで、アニキの膝が床についた。そこから返したボールが、それでも直の真上に上がる。拾う姿勢が崩れても、腕の面だけが正確だった。
五番のサーブがまたコートの奥を叩く。アニキが床に膝をつく。ボールが前腕の面に沈み込んで、直の頭上へまっすぐ返った。直が半歩も動かずにボールの下に入れる高さと位置。トスの選択肢が最初から開いている。
直がボールの下で構えた。
背中越しに、指の形が変わった。
ブロードのサイン。ネットに沿って横に走り、片足で踏み切るスパイク——練習では何度も走った。でも試合では一度も使っていない。直の背中越しの指が、今それを選んでいた。
足が動いた。
センター付近まで下がる。相手の三番が反応して寄ってくる。セミだと思っている。俺の位置を見て、ブロックの準備に入った。
走った。
センターからライト方向へ。ネットに沿って、両足踏み切りの位置を通り過ぎる。右へ。もう二歩。通常のスパイクにはない「走る」時間があって、床が靴底の下を流れていく。三番が慌てて追いかけてくるのが視界の端にある。間に合わない。
左足一本で床を蹴った。
タン。
靴底が鳴った。両足で踏み切る時の重い「ドン」とは違う。軽くて、乾いている。
体がまだ横に動いていた。空中にいるのに止まらない。横に流れたまま、直のトスが視界の左から入ってくる。走った先にボールがある。
力の入りきらない腕で振った。叩き込んだわけじゃない。走る勢いが、腕の足りない分を補っていた。
打球がブロッカーの腕と腕の間を抜けていく。
スピードで抜けた。
着弾音。
着地で体が右に一歩余分に流れた。片足踏み切りの勢いが残っている。靴底が床を擦って、止まる。
声が出た。自分の声だと気づくのが遅れた。
ハチが走ってきた。肩を叩かれる。
「藤原先輩っ! 今の何すか!? やばくないすか!?」
息を切らしたまま答えた。
「ブロード」
「かっけえっす!」
タカが拳を上げた。
「ええやん」
アニキの「ナイス!」が後衛から飛んでくる。ハチの手を叩き返した。掌が熱い。
直が一瞬だけこっちを見ていた。何も出ていない顔。視線がすぐにコートへ戻る。ハンドサインで伝えた人間の横顔だった。言葉は要らない。指で出して、走って、抜けた。それだけで通じている。
六人を残さず使って、一番通る場所に出している。完璧だ。完璧なのに、直の指先に熱がない。
次のラリー。相手のスパイクを拾ったボールが高く上がって、直の位置から少しずれた。直が一歩動いてボールの下に入る。ここから速い配球は出せない。
もう一度ブロードに入ろうとした。左足が動きかけて、止まった。
走れない。助走の距離が足りなかった。
アニキのAパスではない。崩れたレシーブでは、ブロードの踏み切り位置まで走れない。さっきの一本は、アニキのレシーブが直の真上に返ったから走れた。条件が揃わなければ、この攻撃は存在しない。
通常のライトオープンに切り替えた。直の指がレフトへ弾いた。堀内さんが打つ。ブロックが二枚揃っていて、堀内さんのクロスがブロッカーの壁に当たる。
相手の得点。
自分の足元を見た。走り出す前の位置から、一歩も動けていない。一本目の精度が三本目の攻撃の種類を決める。拾うから打てる。拾えなければ、走れない。
アニキがまた拾った。五番のサーブが何度アニキを狙っても、アニキのレシーブは直の真上に返る。息が上がっている。それでも構えが崩れない。
直がボールの下で構える。両手が上がった。目が、一瞬だけ堀内さんを見た。
ブロードの助走に入りかけていた。ハチもクイックのタイミングで踏み出す。相手の三番と五番の足が、俺とハチの動きに引っ張られて右へずれた。
直の指が動いた。トスはレフトへ飛ぶ。
堀内さんが跳んだ。ブロックは一枚。
堀内さんのスパイクがクロスに突き刺さって、相手レシーバーの横を抜けた。乾いた音がコートに走る。
「いいぞ堀内さん!」
叫んでいた。ハチが吠えた。
「ナイス堀内先輩!」
堀内さんが振り向かずに片手を上げる。
止まった足元を見た。ブロードの助走に入りかけて、止まっていた。俺とハチが動いたから、ブロックが一枚に減った。
「……俺とハチ、囮だった?」
直の顔には何も出ていない。
「ね?」
返す言葉がない。正しいから。
セットポイントは青嶺が先に握った。
ハチのジャンプフローターが力みすぎてエンドラインの奥に着弾した。サーブミス。
「ドンマイ!」
タカが短く声を出した。ハチが頭を一度下げる。
相手のサーブが来た。アニキが拾った。直の真上に、この試合で何度も見た同じ高さと位置でボールが返っていく。
直が上げる。堀内さんへ。
堀内さんの助走は三歩だった。ブロックが二枚ついている。堀内さんの打球は二枚の間ではなく、外側のブロッカーの指先をかすめて横に逸れていった。相手レシーバーが伸ばした腕の上をボールが転がって、コートの外に落ちる。ブロックアウト。
ホイッスルが鳴った。
堀内さんが着地して、自分の手を見る。ブロックの横のどっちを使うか、打つ前に選んでいた手だった。練習で「その時になったら分かる」と言っていた堀内さんの手が、今、コースを選んでいた。
整列して、礼をする。3セット目を取って、三回戦を勝ち上がる。
ベンチに戻るとハチが声を上げて、堀内さんが笑っていて、キャプテンが「よくやった」と短く言った。メモ少年がベンチから「お疲れさまです!」と頭を下げる。
アニキは黙ってタオルを首にかけて、ベンチの端に座っている。試合中ずっとコートに声を飛ばしていたアニキが、ベンチではもう何も言わない。仕事が終わった人の静けさだった。堀内さんのブロックアウトが決まった時、アニキが小さく笑ったのを俺は見ていた。
ベンチに座って、自分の右腕を見た。
腕が軽い。その感触がまだ残っている。ブロードでブロッカーの間を抜けた一本も、力の入りきらない腕で打った。スピードで抜けた。叩き込んだわけじゃない。
直が隣に座った。タオルで手を拭きながら、コートを見ている。
「時間差とブロード、両方あると相手のスライドが間に合わなくなる。準決勝でも使える」
それだけ言って、直はもうノートを開いている。
アニキの腕が何度も伸びた。何本も狙われて、何本も拾って、一本も逸れず直の真上に返っていた。
牽制、囮、時間差、ブロード。三回戦の前には牽制しかなかった右腕に、選択肢が増えている。でもブロードはアニキのAパスがないと走れない。時間差もハチとの呼吸が合わないと成立しない。全部、条件付きだった。振り切れない腕で、条件の揃った時だけ打てる武器。
県予選の上にはもっと強いチームがいる。アニキのAパスを崩してくるサーブがある。条件が揃わない試合がある。
まだ軽いままの右腕が、膝の上に乗っている。チームの笑い声が聞こえていて、俺の右腕はまだ足りないままだった。




